慈雨
高山にも、雨は降る。
もともと山の天気は変わりやすい、なんて話もあるくらいだから、きっと平地よりも降る回数は多いのだろう。そういった日は麒麟たちもよほどのことがなければ外へ出ようとはしないし、私もその場合屋敷に留まることを許される。雨雲に覆われた山ほど怖いものはないと、麒麟たちも知っているからだ。
彼らは雲を見たり、その場の空気を敏感に察知して、百発百中というくらい天気を予測する。こんな山奥に住んでいればいやでもその術に長けるというものだろう。私も彼らと過ごしていて空を見る癖がついたし、その予測も段々と的中率が上がるようになっていった。
山での予備知識も増えた。雨が降ったら外には出ない。これは雨上がりにも言えることだけど、増水や地すべりなど、人の身に余る災害でごった返す。霧が出れば普段以上に惑いさ迷う羽目になるだろうし、なんてったって落雷が怖い。実を言うと屋敷にも何回か落ちていて、屋根の装飾が欠けていたり瓦が崩れてしまったりということもざらにある。落雷なのに室内からはさほどその衝撃を感じないのは、どうせ主様が何かやっているに違いないだけなので、つっこんだところであまり意味はない。
まあ、そんなこんなで流石の麒麟も落雷はご遠慮仕るらしく、今日はこうしてみんなで雨篭りライフ。いつものお外でキャッキャウフフはキャンセルして、こういうときに主様のありがたーい講釈を受けるというわけ。でも結局のところ、大概主様が話し終える頃にはみんな夢の中へとまっしぐらなので、かのお人も解っているのかあいも変わらず仏頂面で「掛布を」なーんて言って、ご高説に幕を閉じる。
だから今日は、とくべつ静かな、麒麟のお屋敷。
雨って不思議だ。降り始めはぱたぱたと音がする。そのうち無数の音が重なり合って、いつしかその音らしい音を感じなくなる。そして降る前よりもことさら、世界が静かになったような気がしてくる。
そうして、耳を澄まして雨音の軌跡を辿っていると、不思議と心が落ち着く。落ち着くとなんだか、眠くなってくる。そう、例えば――――この子らのように。
にじみ出るあくびを噛み殺しながら辺りを見回すと、そこここにひと塊になりながら眠る子供達が目に映る。いつもは思い思いの場所で眠る彼らも、今日はなんだかいつも以上に身を寄せ合っているように見える。
雨の日は、少し肌寒いからだろうか。それとも、何故だか無性に人肌恋しくなるからだろうか。
そんなことを考えていると、ふと手元にある畳み掛けの洗濯物へと目が移る。これが済んでしまえば、もう暫くはすることがなくなる。いつもはやったーとばかりにいそいそ山を降りるところなんだけど、今日は雨だからそういうわけにもいかない。なんてったって雨だからね。さすがにキッコさんも来てはいまい。
どうしたものか。まさか一緒になって子供達と眠るわけにもいかない。というかそれ以前に主様がそれを許さないだろうしね。かといっても東屋に戻ったところで娯楽もなければ話す相手もいないし。
あれ。こうしてみると私ってとことん孤独の道を突き進んでいる気がする。日本にいた時だって彼氏がいたこと自体がそれほどなければ期間も短いし、無論こっちにだってそれに該当する相手はいない。そもそも出会いが無いしね。出会いようが無いよね、こんな山奥じゃ。
家族がいれば居間で一緒にテレビ見て熱いお茶啜りながら煎餅かじって、なーんて時間の潰し方もできるのになあ。てかそもそもテレビないし。お茶はあるけど煎餅なんて嗜好品現状の私にとっちゃ雲の上の存在ですよ。あ、待って待って。その前に家族いないじゃん。この世界にいないじゃん。私一人じゃん。ガチでお一人様じゃん。うーわー。豊島千歳終了のお知らせ。
「やっぱ出会いがねえ」
ネックだよねえ、それがねえ。麒麟の皆さんなんか私に見向きもしないってかそもそもそういう扱いじゃないし。キッコさんだって奥さんどころか子供までいるし。あーどいつもこいつも。
「なんの話だ」
「ひっ」
いいいいいいきなり背後に現れないでくださいますか主様っ。つーか今の独り言聞こえてたの。だいぶ離れてたじゃん。私隅っこ、主様真ん中で子供たちに囲われてたじゃん。ふもふっもハーレムを築いてたじゃん。ちょっと羨ましかったじゃん。
「なんの話かと聞いている」
ぎろり、と上から目線で睨んでくる。私は座ってて主様は立って見下ろしてるもんだから、若干の逆光も手伝って余計に威圧感が増している。卑怯だこの高低差。とは思いつつも、びくびくしながら目を逸らす私情けねえー。
「いえ、あの、出会いがですねえ、ないなー……なんて」
「出会いだと」
おいおい。なにその目。
さも「いやお前には必要ないだろってかそもそもそんな気あったの」と言わんばかりのこの目。飼ってる動物がいきなり発情してドン引きした飼い主みたいなこの顔。
前々から思ってたけど本当この人失敬にも程がある。そもそもその顔は人に向けていい顔なの。ものっそい人権侵害してると思うんだけど。
てかこの程度じゃ傷つかなくなった私の心のタフさ加減も心配だわ。なんで慣れるの。なんで慣れちゃったの。調教されすぎじゃないの。ねえ私。
「かような戯言に現を抜かす暇があるならば疾くそれを片付けよ。あれもな」
仏頂面でくいっと示した先には、いつ置いてあったのか主様の所有する巻物の束が山積みになっていた。アレを運べということらしい。恐らくは主様のお部屋へと。
うへえ、ちょっと待ってよ。紙って意外と重いんですよ。しかもあれいっぺんに運べる量じゃないし。げんなりして顔を上げると、最早そこに主様の影も形も残っていなかった。はいはい問答無用ですね、わかります。
よっこいしょういち、と誰にも通じない化石級の親父ギャグを呟きながら立ち上がり、畳んだ洗濯物を両手に抱え広間を後にする。いつもより若干薄暗い廊下をなるべく音を立てないように歩きながら、反芻した。
「たわごと、ねえ……」
――言ってくれるよ。
自分はいいよね、家族もいれば慕ってくれる人もいて、孤独とは無縁じゃん。なにさ。いいじゃん、恋人の一人や二人くらい、夢見たってさ。私にはこんな雨の日にすら、寄り添ってくれる人なんかだーれもいないんだから。
なーんて、ささくれた気持ちは心に暗雲を呼び込み、孤独に包まれた心が胸を湿らす。
薄暗い廊下をひたひたと、独り寂しく歩き続けた。
その後。
そう、なんだっけ。洗濯物、片付けて、それから、そう、巻物もなんとか運び終わって、あーやれやれやっと終わったと思って広間に戻ったらなんか新たに洗濯物が詰まれてて、だーれもいないからすることもないし仕方無しにまたそれを畳み始めて、それから。あー。それから、なんだっけかな。
それにしてもなんか暖かいなー。気持ちいいなー。あー、すごくいい。暖かい。雨の日のお昼寝って実はかなり気持ちいいよね。落ち着き度MAXっていうかさ。そりゃ晴れた日に日向ぼっこでうたた寝っていうのも譲れないけど。
あー、そうじゃなくてさ。なんかね、ふわふわすんの。もこもこしてんの。これこれ。手近にあったものに指を滑らす。その滑らかさに気をよくしてなぞると、ぶるぶるっと震えるように生暖かいそれがうごめいた。
その感触に「おっ」と思いながら、まだもったり重たい瞼をこじ開けそれを見ると、なんだか見覚えるのある黄色い饅頭がひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。たくさん。あーれー? と思ってふと身を捩って後ろを向くと、一際大きく視界を占める、目も覚めるような紅が、ひとつ。
あーそっか。なーんだ。そっかそっかなるほどね。どうりであったかいわけだ。
一人で納得して、またこてっと頭を元に戻す。ぼんやりしながらもよくよく見ると、畳んだはずの洗濯物があちらこちらに散らばっている。こりゃ確実に畳みなおしだ。
それにしても、ところでこれはつまり――――夢なんだろうか。夢かな。夢かもね。
あまりに突飛な夢がおかしくなってこっそり笑いながら、そのまま目を閉じた。
夢でもいいよ。それでもいい。でもね。
ああ、もうこの人たちってば、ほんと――――。
眦にひとしずく、暖かいものが零れ落ちてきた。それが雨かどうかは、再び眠ってしまった私にはわからない。しりませーんよー、だ。
向こうにいたときはあんまり雨って好きじゃなかったんだよね。じめじめするし鬱陶しいし、外に出るの億劫になるし服が濡れるし。だからあー早く晴れになんないかな、梅雨あけないかなーっていつも思ってた。
でも、まあ、今はそうでもない。もうちょっとこの雨が続いても、世はすべてこともなし 、っすよ。ね。
――――とは言えども、その後目が覚めたらクモの子を散らしたようにだーれもいなくってたとか、ぐしゃぐしゃの洗濯物には歯形や涎に蹄のあとまでついてて完璧洗い直しで何故か私がこっぴどく叱られたとか、そういうことを除いたらの、話なんだけどね。ええ。
千歳 「しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん」
子麒麟「なんのうたなのだー」
千歳 「いやー、雨で浮かんできて……ってこれは子連れ狼か」
子麒麟「???」
千歳 「ちゃーんって言ってみな」
子麒麟「ちゃーん!」
千歳 「大五郎ーーっっ」
主様 「名づけるな」