20.私が、私でいられる理由
「ナリー! コーデル様!」
響いた声に、二人はハッとして後方を見た。馬に乗って駆けるアドルフの姿が、ぐんぐんと迫ってくる。おそらく敵を倒し、馬で単身追いかけてきたのだろう。
ナリーが泣きそうな顔で彼の名を呼ぶ。
「アドルフ様!」
当然だが、その声に御者台にいた二人が追手に気づいた。
「くそっ! これだから傭兵は信用できないんだ!」
「お前がケチって十人のところ四人にしたからだろ!」
「うるさい!」
御者台で醜い喧嘩が始まる。そのせいか、手綱がおろそかになり、馬車がさらに激しく揺れる。
「くそ! おい! そっちは駄目だ。バレたならきっと封鎖されている!」
逃走経路を直前で変えることで、どんどん悪路へと入っていく。大きな岩も点在する草木がまばらな悪路をひたすら進んでいく。
「きゃぁ!」
揺れる荷台で立っていられず、二人で支え合う。そんな中……。
「ぎゃぁああ!」
御者台からの濁った悲鳴に顔をそちらに向けると、何時の間に現れたのか、馬車の横腹につけるようにナッシュと数名の騎士が馬で飛び込んできた。
(アドルフが声をかけたのは、注意を逸らし、こちらへ追い込むためだったのね!)
御者台にいる二人を威嚇するように騎士達が襲ってくるのに、普段訓練も戦闘もサボっていたのだろう、貴族の坊ちゃん達は完全にパニックに陥っていた。
馬車がぐらぐらと揺れる。
「うぁあああ! くるな! くるなぁ!」
闇雲に抜いた剣を振り回している。騎士達は安全に馬車を止めるべく、取り囲んだ。だが、御者台の一人が振り回していた剣が、運悪く馬を繋いでいた手綱を切ってしまった。
大勢の騎士に取り囲まれ、逃げるために強く鞭をいれられた荷車を引く馬たちもまた、パニックに陥っている。
ガクンッと荷馬車が大きく沈んだ。同時に、御者台に不安定に立っていた二人が投げ出される。
手綱を握るものがいなくなった荷馬車が、暴走する。
「きゃぁあ!」
ナリーがしがみついてくるのを、しっかりと抱きしめ返しながら、コーデルは後方へ再び視線を戻した。
一番近い位置に、アドルフが迫ってきている。
伸ばされた手は、おそらくコーデルを受け止めるつもりのもの。
(多分、きっと、この世界ではそれが正解なんだ。わかってる。わかってる……けど……!)
「おい! この先、崖だぞ!」
騎士の一人が叫んだ声が聞こえた瞬間、覚悟は決まった。
「アドルフ! ナリーをお願い!」
腹の底から、大きな声で叫ぶと、ナリーの身体を引っ張った。
「お嬢様!? 駄目です!」
(ナリーも、アドルフも、私を助けてくれようとしていることはわかる。だけど、ここで自分が助かって、もしナリーに何かあったら、私は、私でいられない)
抵抗するナリーをぐいっと体重をかけて押し出すと、バランスを崩したその身体を、突き飛ばした。
「!」
ナリーが自分に向かって手を伸ばす。アドルフがナリーを受け止めるために手綱を捌いた。
ガラガラガラガラガラッ。
荒れた固い岩場を車輪が擦る音が響き、彼の腕の中にナリーが収まるのを確認して、コーデルは全身の力が抜けた。
同時に。
ガシャンッ。
とうとう限界を迎えた後ろ右車輪が外れ、大きく馬車が振られた。
「落ちるぞ! 止めろ!」
騎士の怒号が響く。
何故だろう。
「お嬢様!!」
ナリーの悲鳴が、ひどく鮮明に聞こえた。
ふわりと身体を一瞬包んだ無重力の感覚。続いて、自分に向かって必死に手を伸ばすナッシュの顔が見えた。
視界がゆっくりと澄んだ青い空で埋まる。
(あ、落ちる――――)
そう認識した時には、身体が空中に投げ出されていた。
「手を……!」
ナッシュの叫びは、すでにもう耳に届かない。まるで無音の空間に入り込んだかのような感覚。
頭の中を走馬灯のような景色が流れて、たったここ数日、触れあっただけのウルスロアンばかり出てくることに、自分自身呆れてしまった。
(もし、もしもう一度生まれ変われるチャンスがあるなら、私イケおじじゃなくて、貴方の奥さんになりたい――――)
「コーデル!!」
頭を殴るように響いたその声は、死ぬ間際に聞こえた幻聴なのか。そう考える余地もないくらい一瞬の出来事だった。
大きな黒馬に跨ったウルスロアンが一直線にこちらに駆けてきて、なんの躊躇もなく、崖下へ放り出されたコーデルに向かって、飛んだのだ。
あまりにも刹那の動きで、コーデル自身は認識が出来ないまま、ただ二人、落ちていく。
「閣下ぁ!」
「お嬢様ぁ!」
大きなものに頭から包まれたと思った次の瞬間。
ドボンッ。
強い衝撃と共に全身が水面に叩きつけられた感覚がした。
一気に肺に水が流れ込んできて、溺れまいと身体を動かそうとするが、がっちりと両腕をホールドされていて成すすべもない。
そのまま、一気に水面へと顔を出した。
「げほっげほっえほっ」
飲み込んだり鼻に入った水を吐き出すように咳き込みながら、顔をあげると、真正面にウルスロアンの厳しい瞳と目が合った。
「この……阿呆……!」
死を覚悟したはずなのに、何故目の前にウルスロアンがいるのか瞬時には理解できない。のろのろと頭上を見上げれば、高さでいえばおおよそ十二、三メートル程度の急斜面の崖があり、上からナリー、ナッシュ、アドルフがこちらを覗き込んでいる。
ナリーは多分必死で、コーデルを呼んでいる。
そこまできて、やっと水の冷たさと、自分がウルスロアンの腕の中に抱きしめられて浮かんでいることを、理解できた。
「あ……ごめ……なさ……」
謝ろうとして、けれど震える唇は最後まで紡げない。
とうとう、紅水晶の大きな瞳から、まるで堤防が決壊したように涙が溢れた。
「こわ……っこわかったぁああああ」
うわぁん、と子供のように泣きだしたコーデルに、ウルスロアンは一瞬驚いて、それから濡れ鼠になったその頭を優しく撫でた。
よく通る低い声で、しっかりと労いの言葉を耳元で告げる。
「よくやった。コーデル。お前は家族を守ったんだ」
「ぅあああああんっ」
涙はとまらなくて、ウルスロアンの首筋に顔を埋めた。その細く頼りない身体を、太くたくましい腕がぎゅっと抱きしめた。
浸かった水は冷たいけれど、触れあった身体は温かい。ウルスロアンの首に腕を回してぐしょぐしょの決して綺麗とは言えない顔で、ただ、ただコーデルは願った。
「が、がんばったから……ウルスロアン様の、お嫁さんにしてくださいぃいいい」
泣いているはずなのに、しっかり自分の欲望を言葉にする少女に、思わず目を見開く。
ああ、でも……何もかもに一生懸命に全力で自分にぶつかってくるこの少女を、きっともう手放すことなんて出来ないだろう、と予感した。
くっと喉奥で笑って、答える。
「お前のような婚約者に不倫を申し込む間抜けな跳ねっ返り、俺くらいしか手綱を握れないだろう?」
「……ずびっ」
鼻をすすったコーデルの瞼に口づけを一つ落とし。
「傍にいろ。お前の気が済むまで」
「……私の……?」
いつもは厳しい光を宿す猛禽類の緑青色の瞳が、揶揄うようにシニカルに笑んだ。
「そうだ。だが、覚悟しろ。お前が俺に飽きたと言っても、もう離してやらんがな」




