18.痛かったですか?
「と、いうわけで閣下。一発殴らせてください」
「……省略がひどいな」
さすがのウルスロアンも呆れた顔で自分の執務室までやってきたコーデルを見下ろす。背後で笑いを堪えているナッシュは後で制裁を加えようと領主として心の中で誓った。女主人と共にやってきて控えているアドルフは表情を変えていない。
「ご自身でそうおっしゃったじゃないですか。一発殴って引導を渡してやれって」
「……」
確かにその通りなので言い訳は出来ない。まさか彼女も自分の正体を知っていたとは、ウルスロアンも気づいていなかったのだ。
しばしの沈黙の後、小さく息を吐いた。
「……右頬でいいか?」
殴りやすいように少し首を傾げて見せるとコーデルは握り拳をつくったまま尋ねてくる。
「閣下は、私が何に怒っているかわかっていらっしゃいますか?」
「……お前に、アドルフをけしかけて伯爵領へ戻そうとしたことだろう?」
答えると、コーデルはふるりと頭を振った。
「それだけじゃありません。閣下も、すぐにアドルフが誰を好きになったか、お気づきになったのでしょう?」
じっと瞳を見つめてくるので、ウルスロアンは肯定するように沈黙を落とした。笑いを堪えるナッシュの横で真顔だったアドルフがわずかに顔を青ざめさせている。
それはそうだろう。こんなところで暴露されるなんて彼も思っていなかったはずだ。
だけど、これはコーデルにとってけじめをつける儀式でもある。
「だからこれは、傷ついた私と、閣下の企みのせいで堂々と両想いになれないアドルフとナリーの分です」
そう宣言すると、えいやっと右ストレートを繰り出した。
ぺちんっ。
「……」
「……」
執務室内に弱々しい音が響き、とうとう耐えられなくなったナッシュは噴き出した。右頬にコーデルの拳を受け止めた格好のまま、ウルスロアンが口を開いた。
「……ナッシュ、アドルフ」
「は」
「……は……いっ」
ちろ、と一瞥を送るだけで、二人はすぐに執務室を退出した。パタン、と扉が閉まったのを音で認識して、コーデルは手をゆるゆると下ろした。
怒って殴った側なのに、へにょりと情けなく眉を下げている。
「痛かったですか?」
「……風に撫でられたくらいだな」
(くっ悔しいっ)
思わず頬を膨らませてぶすっとしながら、もうここまできたら全部吐き出してしまえ、と言葉を紡ぐ。
「閣下も私に言うことがあるんじゃないですか?」
「……」
ウルスロアンが手を持ち上げる。もしかしたら自分も殴られるのだろうか、と身を縮こまらせたコーデルの頬に大きなかさついた手のひらが優しく触れる。
「……痛かったか?」
その指先がなぞったのは、目元。
同じ問いかけなのに、彼が言っているのは肉体的な痛みではないことが、わかる。紅水晶の瞳が涙で滲む。
「痛かったですよ」
あんなふうに、拒絶されるなんて、思っても見なかった。心の奥が痛くて痛くて、ずっと血を流し続けていたのだ。
ウルスロアンはまるで涙を拭うように指を動かすと、低く、静かな声で告げた。
「すまなかった」
ここまできてやっと彼は、コーデルの心がいかに傷ついたかを、知ってくれた、と。我慢しようと思っていた涙が溢れて、零れる。ゆっくりと、頬にあった手が項へまわり、その広い胸に顔を押し付けるように抱きしめられた。
「どんな理由があろうと、お前を傷つけていい理由にはならなかった」
(ずるい……そんなに真っ直ぐ謝られたら、これ以上怒れない)
言いたいことは山ほどあったはずなのに、彼の大きな手の感触に全てが霧散してしまう。だから、一つだけ、どうしても気になっていたことを思い出して尋ねた。
「どうして、コーディの不倫相手になろうとしたんですか?」
すると、ウルスロアンは珍しくばつの悪そうな表情をした。
どこまでコーデルに話すべきか、と頭の中で考えながら口を開く。
「あの舞踏会は、元を正せば俺が用意したものだ。会場を拠点に、情報を集めている」
不倫してやると飛び出したのに、まさかその相手の手の中だったという事実にコーデルはショックを受ける。
ウルスロアンもまさか、喧嘩した婚約者が自分のおひざ元に飛び込んでくるとは思ってもみなかったようだ。
「まぁ、俺が関わっていることは秘匿しているから、お前が気づかなかったのは仕方ない。で、仕事で用事があって行ってみたら、お前が酔っぱらって絡んできたんだ」
「! え? じゃぁ……もしかして最初から知って……」
思わず身体を離し、見上げる。涙も引っ込んでしまった。
てっきり自分の正体を知らずに不倫相手になってやると言ってきたと思っていたので、恥ずかしすぎる。
「……首輪をつけていないと何処にでも突っ込んでいきそうだったからな」
「い、犬ですか、私は……」
顔を真っ赤にしながら抗議するも、ウルスロアンには効いていないらしい。ちろ、とこちらを見下ろして。
「違うのか」
「!」
ひどい! と言いたいところだが、確かにあの花の意味も知らず突っ込んでいって助けられた身としては否定できない。
うぐぐ、と言い返せずに悔しさに憤る。やっぱりウルスロアン様は意地悪だ、と。恨めし気に唸っていると、ふと、ナリーの昨夜の言葉を思い出す。
(そうだ……触れあい)
せっかく抱きしめてくれたのに、自分から離れてしまった。これでは、落とすどころではない。
きちんと謝ってくれて、けじめをつけてくれたのだから、もうわだかまりはない。
コーデルは無言で自分からぎゅっと両腕をウルスロアンの腰に回した。が、何故かすぐに引き剥がされた。
「……なんだ」
肩におかれたウルスロアンの腕がびくともしない。わきわきと両手を広げたり閉じたりしながら、答える。
「けじめの儀式は済んだので、ウルスロアン様を落とそうかと」
「……」
(あ、閣下の目が死んだ)
忙しいからと執務室から追い出されたコーデルを、二人の護衛騎士が待ち構えていた。
「いやぁ、応援しますよ。コーデル様」
散々笑った後なのか、ナッシュの目尻に涙が浮かんでいる。その足を、アドルフが思いきり踏んだ。
「お部屋までお送りします」
さすがというか、アドルフの方はにっこりと笑顔を崩さない。いや、含みがあるようにも見える。ナリーとの仲を主人にバラしたことを怒っているのかもしれない。
普通、上司に自分の恋愛事情を知られるって恥ずかしいよね……ちょっと悪いことしたかな、と思いはしたが、コーデルとしても真剣である。
「ナリーを大切にしてね?」
アドルフを見上げてそう声をかけると、アドルフは小さいため息をついてから答える。
「言われずとも」
「お、俺も恋人が欲しい……」
がっくりと肩を落とすナッシュはひとまず放置の方向にした。ひとまず自室へ戻ろうと、三人歩き出す。
ウルスロアンの執務室は、城の中でも寝泊りする部屋から遠いところにある。
寝室などの居住区は、有事の際襲撃を受けやすいので入り組んだ奥まった場所にあり、執務室は客人や要人を迎えやすいように城の入口に比較的近いところにあるのだ。
城の中は多くの使用人や騎士達が働いていて、常に人が多い。ウルスロアンが言うように働かざるもの食うべからずにそって、皆働き者だ。
今も大きな荷台を押した仕入れ業者のような二人組が前からやってくる。向かう先にはこの城で働く全員の胃袋を満たすための巨大な厨房がある。
食料品だろうか。そういえば孤児院へ届けた香辛料がうまくいっているか明日にでも様子を見に行ってみないと、と思考を巡らせた。
多くの人とすれ違いながら大ホールも通り過ぎてから、ふと、コーデルは立ち止まった。
「いかがなさいましたか?」
アドルフが声をかけてくるのに、首を傾げる。
(なんだろう……この違和感)
何かがひっかかったのだけれど、言葉に出来ないでいると、今度は玄関ホールの方が騒がしくなった。
「急報です!」
飛び込んできたのは、斥候と思われる兵士だ。ナッシュが駆け寄って「何があった?」と確認する。兵士は必死で馬を飛ばしてきたのだろう。あちこちぼろぼろの姿で、答えた。
「東の山脈から伏兵が現れました!」
「!」
その場にいた全員が、息を飲む。
東の戦場は、全てが開けた土地ではない。一部山脈が国境代わりとなっていて、そこを軍隊という大人数で越えるのは困難で、攻め込む側としても支払う代償が高いことから、攻略ルートに使われることがないと言われている場所だ。
だが、そのありえないはずのところから伏兵が現れたという。
ウルスロアンがここにいても戦争が終わったわけではない。互いに疲弊し合うと、しばらくのあいだ回復するのに休戦をする。その隙を狙われたということだ。
いくら攻め込みにくい場所だからといってもまったく防衛線がないわけではない。だからこそ、この斥候がここまで情報を持ってこられたのだろう。
「アドルフ、コーデル様を頼めるか」
「ああ」
ナッシュの表情が、固く引き締まる。いつもは飄々としていた空気が鋭く変わる。そのまま斥候から細かい情報を聞き出した後、一度休ませて体力を回復させるように近くの使用人に指示する。そのまま、ナッシュはウルスロアンの執務室へと戻った。
コーデルは、悪い予感に両手を胸元で握りしめる。
「……閣下は、向かうのですね……」
再び、戦場に。
初めて訪れた時には感じなかった、ウルスロアンが傷つくかもしれない想像に、表情を歪ませる。
以前よりももっと確かに、傷つき、失うかもしれない恐怖が生まれる。
「……おそらく」
アドルフは慰めない。否定しても意味がないとわかっているのだろう。組んだ両手が震える。
自分には何も出来ないのだと思い知らされる。前世の知識があったところで、役立つわけではないという現実も含めて、己の非力さを再確認するだけだ。
とにかく、閣下が出兵するのであれば、物資の手配や城内の人員も手薄になる。警備の配置も見直す必要が出てくるだろう。
コーデルは顔をあげて気持ちを落ち着かせると、アドルフに伝える。
「一度部屋に戻った後、物資の手配と人員の配置について私も考えます」
「……は」
出兵に関する手配はウルスロアン達が行うだろう。減った人員や戦場へ送る物資をどう再分配するかまでは考える余裕はないはずだ。
(大丈夫。私にだって、やれることはあるはず)
急いで部屋に戻ると、まずは動きやすい服装に着替えようとナリーを探す。
「ナリー?」
確か部屋で待ってくれているはずだった。けれど、その姿が見当たらない。部屋の中にいないのなら、何か仕事で外に出たのだろうかと、廊下へ出ようとしたその時、足元でしゃり、と何かを踏んだ感触がした。
そちらへ視線を下げて、コーデルは息を飲む。
落ちているのは、星型の首飾り。昨夜ナリーにアドルフからの贈り物だと見せてもらったもの。
そんな大切なものが、落ちているわけがない。
拾い上げると、その鎖が引きちぎられたような跡があった。
血の気が、引いていく。
コーデルはそれを握りしめたまま、扉をあけると、出口に控えていたアドルフに掲げて見せた。
「アドルフ! ナリーが……!」




