15.惚気
ジョアンと別れて香辛料区画へと移動していた時だった。ちょっとした小競り合いが朝市の広場で起こっていた。
二人の男性が何か揉めて怒鳴り合っている。こういった小競り合いもしょっちゅうあるらしく、朝市は普段から衛兵を多く設置している。人だかりのできた場所から少し距離をとって立ち止まると、衛兵が駆けつけて場を収めようとしているのが見える。しかし、男性二人は頭に血が上り、引っ込みがつかなくなっているようだ。
片方が刃物を持ち出し、現場に悲鳴があがった。一気に緊張した空気がその場を包む。衛兵が男を取り押さえるように乱闘する。抵抗をした男は、上から押さえられる瞬間、刃物を勢いよく投げ捨てた。
それが、真っ直ぐに人波を縫ってコーデルに向かってきたのだ。
ギィンッ。
目で追える速さではないそれを、コーデルの眼前に一瞬で割って入ったウルスロアンが、自身の剣の柄で弾いた。
とすり、とナイフが足元の地面に突き刺さる。
「閣下! コーデル様! 大丈夫ですか!?」
さすがウルスロアンが選ぶ騎士なだけあって、気づけばアドルフとナッシュがコーデルの前に立っていた。だが、得物まで抜くことは出来なかったのだろう。その身を呈して彼女を庇うつもりだったのだ。
だが、それよりも一歩早く、ウルスロアン自身が凶刃を防いだ。
コーデルの心臓が、どっと激しく鼓動する。
もし、彼がかばってくれなければ、あの冷たい刃が自身に刺さっていたかもしれないのだ。
アドルフとナッシュがすぐに適切な距離に下がると、ウルスロアンが剣を腰に戻しながら声をかける。
「……無事か?」
「は、はい……。ありがとうございます」
恐怖に青ざめて震えるコーデルを、自身のマントで周囲から隠してくれた。おそらく、人に見せられる顔をしていなかったのだろう。ウルスロアンはナッシュとアドルフを目線だけでもっと下がれと指示する。
ぐい、と逞しい腕に引き寄せられ、顔を胸元へ寄せた。
(あんなもの……私なんかが避けられるわけがない)
戦場は、それが当たり前の場所だ。ひどく現実を甘く見ていたことを突きつけられ、コーデルは思わず彼の服の裾を掴んで額を胸につけた。
震えが止まらない。
怖い。
自分の肩を抱く腕に、力が入る。
「コーデル」
耳元で低く囁かれたのは、自分の名前だ。どこか現実感がないままゆるゆると顔をあげると、深い緑青の瞳がじっと自分を映している。
「あ……わ、たし……」
戦禍の多いこの土地で、覚悟をしたと思っていたのに、血を流すということはどういうことか、想像が足りていなかった。
まだ心のどこかで自分は安全だと……無意識に思い込んでいた。
そんな甘えた心で、本当にこの領地を治める領主の妻に、なれるとでも……思っていたのだろうか。
コーデルの不安と恐怖がない交ぜになって揺れる紅水晶の瞳に映ったウルスロアンが、わずかに目を細めた。
「コーデル、ゆっくり呼吸をしろ。出来るな?」
その言葉にようやく、自分が過呼吸を起こしかけていることを理解する。まるで気道を押さえつけられているかのような息苦しさに、なんとか呼吸を整えようと頭では考えるが、身体が言うことをきかない。
(息が、できない……怖い……)
短く浅い呼吸で苦しさから、どんどんと暗闇に引きずり込まれる感覚が強くなった。視界が狭窄し、全身が震え出す。
(息……どうやって……して……た……?)
「大丈夫だ」
優しい、深みのある声が耳元で囁く。抱きしめる腕の強さも温かさも、安心させるように少し痛いくらいの締め付けを伴う。
まるで、お前を離しはしないから、と誓うように。
「俺の目だけ見ろ」
言葉に従うように、じっとその瞳を見つめる。段々と、彼の呼吸や鼓動に寄り添うように、自身の身体が落ち着きを取り戻すのを感じる。
大丈夫。この腕の中だけは、恐れなくていい、と何故か理解した。
「……は……っ」
小さく息を吐きながら、甘えるように彼に体重を預ける。呼吸が、楽になった。
「よし、いい子だ」
幼子にするような語り掛けだというのに、心が満たされる感覚が広がる。本当は、自分が彼を支える立場になりたかったはずなのに。
情けないと感じながらも、その心地よさに甘えている。
「香辛料の件は、ナッシュに見繕わせる。本日の朝市視察はここまでだ」
「……申し訳ありません」
自分のせいで中止させた、と小さく謝ると、ウルスロアンは呆れた口調で答えた。
「こりたら城で大人しくしていろ」
「……それは、嫌です」
ぎゅ、と服の裾を掴んだ拳に力をこめる。コーデルの調子が戻ってきていることに、緑青色の瞳が細められる。
「は……っ。不倫相手を自分で探すと言い出すし、お前のような暴れ馬はアドルフに手綱を任せられないかもな」
「あ……暴れ馬!?」
カエルやら暴れ馬やら、彼の自分に対する印象はどうなっているのだ、と怒りが込み上げる。
「アドルフ、馬車まで……」
アドルフにコーデルを任せようとする発言に、無意識に掴んだ服の裾を引っ張ると、ウルスロアンの口がピタリと止まった。ちらりと一瞥をくれたあと、再び視線を少し離れている護衛の二人へ戻した。
「馬車までは俺が運ぶ。ナッシュに香辛料を買いに行かせた後、お前は後始末にまわれ」
情報を集めてこい、と言外に含んで命令する。即座にナッシュとアドルフが胸に手を当てて敬礼すると、動き出したのだった。
(俺は今、何を聞かされているんだ?)
そうウルスロアンが疑問に思うのは当然の状況にいた。薄暗い会場内、衝立で囲われているだけの半個室のような空間でソファに並んで座っている。仮面をつけた婚約者が、嬉々として語っている内容は、彼の気力をごっそりと削ぐものだった。
「そ、それでですね。朝市で私を庇ってくれたんです」
頬を染めて少女は、夫が自分を助けてくれたという武勇伝を話す。
どう考えても「不倫相手」に話すような内容ではない。しかも、ウルスロアンからすればその夫は自分自身だ。
彼女の中で美化された自身の姿に呆れつつ、こいつは本当に不倫をする気があるのか、と横顔を見つめる。薄暗いからはっきりとはわからないが、今までで一番気を抜いた顔をしていると感じる。どこか壁がとれたというか……本来の彼女の空気感だろうか。
出来事を本人だから知っているので、ほとんど話を右から左に聞き流しつつ、頭の中で今朝得た情報を整理する。
やはり睨んだ通り、あの喧嘩は仕組まれたもので、あのナイフは明確にコーデルを狙っていた。
アドルフからの報告によると、ナイフを持ち出した男は元サーカス団のナイフ投げ。だが、興行がうまく行かず野盗に落ちたところ、今回見知らぬ人物からコーデルを狙えと金を掴まされたらしい。
仕組んだのはどこか。考えられるとすれば二つ。東のスパイか、王家からの刺客か。まだ正式にコーデルとは婚姻を結んでいないところで、王家側が彼女に手を出すだろうか。だとすれば現段階では東のスパイの方が濃厚だろう。
おそらく、ここしばらく彼女の動きが派手過ぎた。
本人は気づかぬまま、俺の弱点として認識され、囮のような役割を背負ってしまっている。
アドルフとの関係を広めるには彼女の行動力は都合がいいと判断し、放置していた自分の手落ちかもしれないな、と考えて、いや、と否定する。
たとえ行動を制限し、城に閉じこめたところで、彼女は動いただろう。まだほんの少ししか接していないのに、確信がある。
コーデルは、普通の王都育ちの令嬢にはない目線、思考、行動力がある。だが、厄介なのは当人がそのことに気づいていない上に、その行動が周囲に政治的な匂いをかぎ取らせる結果になっていることだ。
こうしてロゥと接しても、ウルスロアンとして接しても、彼女に悪意は感じない。感じるのはただただ純粋に、この土地への興味と……。
「いつ、告げる予定だ?」
「……何がですか?」
きょとり、と瞬きしてこちらを見上げてくる。
「その夫とやらと、別れるための不倫相手、じゃなかったのか?」
現実に引き戻すような言葉に、コーデルはハッとして目線をうろつかせた。動揺が伝わってくる。やっと過去の自分ではなく目の前の自分に意識が向いたことに、知らずウルスロアン自身満足した。
戸惑うコーデルの肩を掴むと、そのままソファの上に足を乗せさせ、ひじ掛けに背を預けるような体勢にさせる。覆いかぶさるように背もたれに手をついて、ぐ、と顔を近づけた。
「それとも、やはり行為の証拠が必要か?」
「……!」
唇が触れあうのでないかというくらいの近さで囁かれた直接的な言葉に、彼女の頬が赤く染まるのがわかる。
自分との距離を保つために胸におかれた細い手首を掴んで、開かせる。紅水晶の瞳を覗き込むと、振り解けない力の差に恐怖がみてとれる。
脅しすぎたか、と頭を掠めたが、完全な密室ではないとはいえ異性と二人きりだというのに無防備すぎる姿にわずかばかり苛立ちを覚えたのは事実だ。
何故、不倫相手にそこまで気を許せるのか、と。完全に八つ当たりだ。己が彼女に不貞をしかけたというのに、その相手に彼女が気を許したからといって、苛立つのはお門違いだ。
「……冗談だ」
身体を離すと、ソファに座り直す。恐怖で固まったコーデルはそのままだ。
脅かしすぎたか、とため息をついてくしゃりと髪に指を差し込んだ。今夜は城へさっさと帰そうともう一度口を開きかけたその時。
「……ロゥ様は……一人の人を愛せますか?」
ぽそ、と小さな声で呟かれた問いかけに、視線を戻す。コーデルはぎゅっと胸で両手を重ねて握りしめて、俯いているせいでつむじが見えている。
その手が小さく震えていることに気づき、目を細めた。
「どうだろうな。俺はそれほど器用ではないからもしお前のような跳ねっ返りが妻だったら、一人で手一杯になりそうだ」
「……は、跳ねっ返りなんかじゃないです」
怖いくせに、精一杯の虚勢をはって唇を尖らせる姿が、自分の意識を縫い留める。
「……じゃぁなんだ? 言われたからといって不倫相手を探しにこんなところまで乗り込み、街を動き回り、朝市で危険な目にあっても、それでも諦めないんだろう?」
く、と喉の奥で笑うと、そっとその俯いた頬に指先を滑らせた。わずかに顔をあげたその瞳が、睨みつけるようにウルスロアンを見上げる。
「……諦めない……」
何を、とは明言しなかった。それでも、彼女の中で何かが腑に落ちたのだろう。頬に触れたウルスロアンの手に自分の手のひらを重ねた。
「そうですね。私、諦めなくていい気がしてきました」
「まぁ、ほどほどにしろ」
変にやる気スイッチを押してしまったか、と考え念のため釘を刺しておくが、その表情は再び活力に満ちた輝きを取り戻す。
「ロゥ様、私決めました!」
「?」
ウルスロアンの手をぐっと握りしめて、コーデルは満面の笑顔で宣言した。
「私、ウルスロアン様を落とします!」
「……ん?」
先ほどまで受け身だったコーデルがソファの上にお行儀よく座り直すと今度はウルスロアンの方に迫ってくる。顔を近づけて、自身の仮面に手をかけ、外した。
「だから、覚悟してくださいね」
――――ん?
キラキラと大きな紅水晶が、輝いた。




