10.一発殴って引導を渡してやれ
彼が自分のことに気づいてるか気づいていないかわからないが、コーデルとしてはやはり自分との離縁を望む理由を知りたかった。
本心を話してくれるかはわからないけれど。
「俺は軍人だからな。約束できるものは少なければ少ないほどいい」
「約束……?」
ウルスロアンは目を細めると、くるりと身体を反転させた。当然、コーデルもそれに倣うことになる。突然どうしたのだろう、と見上げると、彼は視線を少し遠くにおいている。その視線を追いかけるように少しだけコーデルが首を後ろへ回す。
薄暗い会場内。人もひしめき合っている。鋭い視線の先には、自分達と同じように踊る仮面をつけた男女がいる。
「……ウ……。ロゥ様?」
一瞬、ウルスロアン様と言いかけて慌てて言い直す。遠くに固定されていた瞳がこちらへ意識を戻した。
自分を見てくれたことに、どことなくほっとする。
「ああ。それより、不倫というからにはお前には夫がいるのだろう?」
思いもよらない返しが来て、コーデルは目を見開く。いやいや、さっきの一言では答えになっていない。そう思うが、すでに会話の主導権は切り替わっている。
(……閣下、ずるくない?)
内心少々拗ねたが、ここで先ほどの約束とは何のことか、と蒸し返す空気はすでにない。少々言いにくそうにもごもごと答える。
「……夫、というか……夫になるべき人が……います」
「婚約者か」
(貴方ですよ!)
今度は少し怒った顔でじっとりと睨みつける。すると、何故かウルスロアンの顔が柔らかくなった。楽しそうに口角があがる。
(ん……っ。笑うと可愛いとか反則……! 駄目よ! 私は怒っているんだから……!)
「そう……です」
絞り出した肯定に、ウルスロアンはさらに質問を投げかける。
「お前をこの行動に駆り立てるものは何だ?」
(私を……駆り立てるもの……)
「それは……だって……。ひ、ひどいことを……されたから」
「何をされた?」
わかっているくせに、と思いながらも、コーデルの気持ちに段々怒りが沸いてくる。
「こ、婚姻が嫌だからって、私に他の男性と不貞関係になるように……仕組まれたのです」
「……」
「そ、そりゃぁ? 私は子供っぽいし、エキゾチックな美女でもないかもしれないですけど……!」
こんな風に追い払われるような覚えはないのに、と思わず本音を零してしまう。腰にまわされた逞しい腕に、くっと力が入る。
「子供っぽい女は嫌いだと、エキゾチックな見た目ではないと駄目だとでも言われたか?」
「……い、言われてはいません。でも……あの方に相応しいのはきっと……」
そう、自分のような頼りない見た目では釣り合わない。きっと好みではなかったのだ。それに、頭の回転だって。あれだけ目端のきく方を支えられる女性といったら文官になれるほどの知識が必要だろう、と。
落ち込みかけたコーデルに、不思議な言葉が落ちてくる。
「……そいつに相応しいかどうかを、お前が決めるのか?」
「!」
思わず言葉が詰まる。仮面の奥の緑青色の瞳が、オレンジの光を受けて妖しく煌めく。腰にまわされていた手が離れ、そっとコーデルの唇をかさついた親指でなぞられた。
「お前自身が、己の価値を貶めるな」
(貴方が、それを言うの?)
泣きたくなりながら、我慢するようにぐっと眉間に皺を寄せる。
「胸を張れ。子供と同じレベルで泥にまみれようとお前の美しさは損なわれることはない」
自分を厭っているはずの男が、同じ唇で自分を励ましてくる。もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。
悔しいのに、笑ってしまう。ふ、と相好を崩して、コーデルは口を開く。
「子供と同じレベルって……」
やっぱり子供っぽいと思っているのではないか、と。コーデルの指摘に無意識だったらしいウルスロアンは「む」と少しだけ眉間に皺を寄せた。
「お前の価値がわからない男など一発殴って引導を渡してやれ」
「……なるほど……一発……」
そう言って握り拳をつくるものだから、彼はぐっと笑いをこらえる。
「平手ではないのか」
「平手では私の怒りが伝わりません」
胸元でしゅっしゅっと小さくパンチを繰り出すコーデルに、ウルスロアンはとうとう「ははっ」と声をあげて笑った。
「そうか。そうだな」
「もう、笑わないでください。こっちは真剣なのに」
頬を膨らませると、彼は今度は肩に手をおいた。
「殴るなら腕の力ではなく身体全体で繰り出せ。体重を乗せるといい」
自分を殴ろうとしている女に指導するとはどういう了見だろう。いや、待てよ。そういえば彼が私が婚約者だと気づいているか確証はないのだった。
この様子だと気づいてない? でも、先ほどかなり具体的な話をしたはずなのに。
気づいているにしても、いないにしても、彼との会話が心地いいのは確かで、コーデルは胸の奥がきゅう、と切なくなるのを感じる。
だけど「貴方はウルスロアン様ですか?」と聞く勇気はない。
会場に流れる曲がさらにゆったりとした速度に変わる。見れば、そうでなくても抱き合っているような距離感だったのに完全に女性が男性の胸に頬を寄せている。
あたりをチラチラと見ながら、狼狽する。自分もやるべきだろうか、とコーデルが迷っていると、近かった身体がするりと離れた。
「悪いが、仕事に戻らねばならん。お前も変なのに絡まれる前に帰れ」
先ほどの少しだけ砕けた笑顔は消えていて、今までと同じ、少し突き放すような口調。だけど、自分を帰らせようとするのは、心配してくれているからだろうか。
「でも……」
「帰れ、いいな」
それだけ言い残すと、ウルスロアンは会場内の人波に消えていく。一人残されたコーデルがその消えた先を見つめていると、背後に人が立つ気配がした。
「馬車までご案内します」
声をかけられて振り返れば、そこにはこの会場の衛兵が立っていた。
「チップはロゥ様より頂いておりますのでご安心ください」
仮面舞踏会は大人の密会の場ではあるが、トラブルも多い。時折貴族がチップを渡して個人的に衛兵を雇って安全を確保することがあるらしい。そんな気遣いまでされて、コーデルは胸元で握ったままだった拳に力を込めた。
(あの人は……私を一体どうしたいのよ……)




