9.まさか、貴方だったなんて……!
――――なってやってもいい
(な、なんという上から目線!)
あんぐりと思わず口をあけてしまったが、すぐに考え直す。前回、コーデルは途中で記憶を無くしている。にもかかわらず無事に迎えの馬車に乗って城へ帰還していた。
おそらく、彼が酔っぱらった自分を介抱してくれたのだろう。あの後、自分はどうやって帰ってこれたのかとナリーに尋ねたら、連れてきてくれたのは紳士的な人だったと教えてくれていたのだ。
つまり、事情を話せば協力してくれる人なのかもしれない、と一縷の望みが生まれる。
「ほ、本当ですか? あ、でも奥様とか……」
「……いない」
一瞬の間はなんだろう? と思ったが、ひとまずほっとする。でもどう見てもスタイルもいいし、しっかりした二の腕に広い胸板、立ち居振る舞いからいって高位貴族でありながら武官であろうことも見てとれる。
こんな優良物件に奥様がいないなんて、あるだろうか。
「嘘、ついてないですよね?」
じぃーっと仮面の中の瞳を覗き込もうとすると、わずかに顔を引いて「くどい」と一蹴された。
「……じゃぁ……その……よろしくお願いします」
ぺこっと頭を下げると、男は何とも言えない顔をした。
なんだろう、すごく失礼な感情を持たれた気配がする。と、感じつつ、コーデルが見上げていると、男は淡々とした口調で続ける。
「何と呼べばいい?」
「あ! 確かに……何か名前がないと不便ですよね。えっと……では、コーディで」
幼少期の愛称を持ち出し、貴方は? と尋ねる。男は一瞬考えるように口を閉じた後、答えた。
「……ロゥ」
「ロゥ様?」
「……あぁ」
変わった名前だな、と思いつつも、別にこの仮面舞踏会という空間で本名を名乗り合う必要はない。
「それで、お前は何がしたい?」
「何がしたいって……ふ……不倫です」
答えると、一瞬ロゥの目が細められたように見えた。それは呆れなのか、なんなのか。コーデルには判断がつかない。
「……不倫がどういうものかわかっているのか」
「……」
いくらなんでも、まったくわからないということはない。箱入り娘とはいえ、前世は二十歳まで生きたし、男性とお付き合いはしたことなかったけど、男女のそういったことがまったくわからないほど世間知らずでもなかった。
頬を赤くして押し黙ったコーデルに、彼が馬鹿にしたように「ふっ」と笑った。
(む、むかつく!)
「そ、それくらいわかります……!」
「……では、どうする?」
にやり、と意地が悪くあがった口角に、コーデルは拳を握りしめてぷるぷると震える。
(いい人だと思ってたけど、結構この人いい性格してるかも……!)
思わず恨めしく睨みつけていると、ロゥはすっと手を伸ばしてコーデルの額をピンと弾いた。
「難しく考えるな。話したいことを話せばいい。聞き役ぐらいしてやる」
弾かれた額を押さえて、悔しい気持ちになる。
(不倫してくださいと言いながら、私がそれを望んでないことも、経験がなくて怖気づいてるのも、この人はわかっているんだ。だからこそ、話し相手になってやると言ってくれている)
ただし完全に。
「……子供扱い」
むっとして口の中で呟くが、背の高い彼には届かなかったようだった。なんだか思ったような関係とは違うような、と考えているとフロアで踊っている別の男女がコーデルの後ろに迫った。
薄暗く混みあった会場だ。咄嗟にロゥが腕を掴み、自分の胸元へ引き寄せる。
「!」
たたらを踏んで、ぽすんとその広い胸に顔を埋める。ウッド系の香りが鼻孔を擽り、その逞しい身体に抱き寄せられて、コーデルは頬が熱くなる。
早く離れようと顔をあげて、固まった。
仮面の向こうの、緑青色の鋭い瞳。何度も、何度もあの回廊で見つめたから覚えている。
――――薄暗くても、ここまで間近に顔を寄せれば、わかってしまう。
「どんくさいな」
固まったコーデルに気づく様子なく、ロゥはその身体を離した。
心臓が、早鐘を打っている。
まさか……そんなはず、という想いと、あれだけ焦がれた瞳を見間違えるはずがない、という確信。
もう一度確かめたくて見上げるけれど、薄暗い照明では離れてしまうとよくわからない。ちらりと髪の方へ視線を動かしてひと房だけ色が違うのがわかる。
(……やっぱり……この方はウルスロアン様……? でも……どうして……)
そこまで考えて、自分の今の姿を思い出す。仮面をつけて、このうすぐらい照明。彼もまた、自分をコーデルだと認識していないのでは。
いや、でも話し相手になってやるという子供扱い……こちらの年齢をわかっているかのような振る舞いにも思える。
確信は持てない。この場で確かめるのはそれこそマナー違反だろう。コーデルがどうすべきか迷っていると、ロゥ……ウルスロアンが口を開いた。
「具合でも悪いのか?」
どきりと心臓を跳ねさせる。
「だ、大丈夫です」
「……では、手を」
そう言うとウルスロアンがコーデルの手をとって自分の腰に回させた。まるで抱きつくような密着具合だ。
同じように彼の腕が自分の腰に回る。会場内で身体を寄せ合って踊る男女と同じ体勢になり、コーデルは恥ずかしくて頬が熱くなる。
ガチガチに身体を固くしてしまうのに、ウルスロアンが頭上からふっと笑みを零すのがわかる。
「まるで蛇に睨まれたカエルだな」
「か……っカエル!?」
淑女を掴まえて何てことを、とキッと睨みつけた。
(本当に、この人失礼が過ぎる……!)
だけど見上げたその顔は、コーデルの心を掴んで離さない。触れている身体の厚みも、体温も、匂いも、どうしてか嫌いになれない。
(……わけがわからない……。彼は本当に私だとわかっていないのかしら? わかっていたら、きっと不倫の申し込みなんて受けないわよね。でも、どうして受けてくれたの?)
「……先日は、介抱してくださってありがとうございます」
ひとまず当たり障りのない話題を持ちかける。こうやって人目のあるところで話し相手をしてくれるのも、彼の配慮だろう。仮面舞踏会には、二人きりになれる個室もあると聞いていたのにそこへいきなり連れて行くこともない。
「かまわん。泣き上戸だとは思わなかったが」
「な……、泣いてましたか……」
やだ、恥ずかしい、と頬が熱くなる。一番見られたくない人に、泣き顔を晒していたとは。記憶がないのが非常に怖い。自分は何をやらかしたのだろう。
「わ、私、変なこと言っていませんでしたか?」
不安になってそう尋ねると、ウルスロアンは少しだけ思い出すように視線を動かした。
「正面から不倫を迫られたのは面白かったな」
「!!」
(そうだった! 思い切り変なこと言ってる! 私の馬鹿ぁあああ!)
あわあわと動揺するコーデルを揶揄うように、ウルスロアンはくくっと喉で笑う。
「ああ、イケおじがどうとか……」
「!」
言葉の意味はわからなかったが、と続いて、心臓が止まるかと思った。
(イケてるおじ様の略だなんて、絶対知られたくない……!)
「わ、忘れてください」
「……かまわんが」
深く追及されずに少しほっと安堵する。この世界、この時代にそもそも「イケてる」なんて言葉はない。説明を求められたら非常に恥ずかしい。
自分が酔うと普段心の中で展開されている前世の言葉や思考が漏れてしまうことがわかって、反省する。今後はお酒は控えよう、と心の中で誓った。
話題を変えたくて、頭をフル回転させる。その間も、しっとりした音楽に合わせてゆっくりと動いてくれる。リードが上手いのか、他人とぶつかることがない。
コーデルが意識しなくても、会話していても彼は器用にエスコートしてくれている。空気感や態度は女性に優しい感じがしないのにさすが高位貴族。所作が完璧だ。
そのスマートさを少々恨めしく感じながら、口を開く。
「あの……。質問してもいいですか?」
「なんだ」
口調は決して優しくはない。だけどこの目の前の人物がウルスロアンなのだと認識した瞬間から、気にならなくなった。
あの嵐の夜、初めて聞いた時は怖いとさえ感じた突き放すような物言いが、こうやって接してみると彼自身の普段の口調と雰囲気であることが理解できる。
「その、奥様はいないとおっしゃったけど……何故ご結婚をしないのですか?」




