第4話 帰りたい場所
美咲のスマートフォンが震えたのは、夕食を終えた直後だった。画面を確認した美咲の表情から、さっきまであった笑みが消える。
すぐにスマートフォンを伏せたものの、数分もしないうちにもう一度振動した。今度は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
悠斗は何も聞かず、テーブルに残った皿を重ねた。話したくないことなら、美咲が自分から口にするまで待てばいい。ただ、昨日から続いている微妙な距離は気になっていた。
高校時代に美咲を好きだったと話してから、彼女はほんの少しだけ変わった。会話は以前と変わらないのに、手が触れそうになると先に引き、隣に座る時もわずかに間を空ける。
嫌われたわけではないと思う。突然知らされた昔の気持ちを、どう扱えばいいのか分からないだけなのだろう。
「悠斗」
美咲がスマートフォンを握ったまま顔を上げた。
「ちょっと出てくるね」
「今から?」
「うん。少しだけ」
時計を見ると、午後八時を回ったところだった。悠斗が黙っていると、美咲は少し言いにくそうに視線を落とす。
「元婚約者から連絡が来たの」
胸の奥に重いものが落ちた。
「会いたいって?」
「家の近くまで来てるみたい。ちゃんと話したいって」
美咲は困ったように笑った。
「終わったつもりだったんだけどね」
悠斗は返事を探した。
行かないでほしい。
そんな言葉が一瞬浮かんだが、口にはできなかった。美咲と元婚約者が過ごした時間も、二人の間に何があったのかも、悠斗が知っているのはほんの一部だけだ。
「分かった」
結局、それだけを答えた。
美咲は上着を手に取り、玄関へ向かった。靴を履き終えると、一度だけ悠斗の方を振り返る。
「そんなに遅くならないから」
「気をつけて」
「うん」
玄関の扉が閉じると、家の中が急に静かになった。
悠斗はしばらくその場に立っていたが、やがてリビングへ戻った。テーブルには美咲が使っていたグラスが残され、さっきまで二人で話していた空気だけが取り残されている。
元婚約者が何を話すつもりなのかは、おおよそ想像できた。
もし謝られたら。もう一度やり直したいと言われたら。美咲はどうするのだろう。
何年も付き合い、同じ部屋で暮らし、その先の人生まで考えていた相手だ。婚約を破棄された傷が数日で消えるはずはないが、それと同じように、それまで積み上げた時間も簡単には消えない。
悠斗は食器を流しへ運び、水を出した。
美咲には幸せになってほしい。婚約したと聞いた時も、胸の奥に何もなかったわけではない。それでも「おめでとう」と言えたし、美咲が選んだ相手と幸せになるなら、それでいいと思っていた。
なのに今は違う。
元婚約者のところへ戻る美咲を想像するだけで、素直に祝える気がしなかった。悠斗は流していた水を止め、自分の中にある感情を認める。
幸せになってほしいだけではない。
自分のそばにいてほしい。
*
家から少し離れた公園の前で、直人は待っていた。最後に会った数日前より疲れて見える。それでも、つい最近まで毎日顔を合わせていた人だ。
姿を見た瞬間、美咲の胸には懐かしさと痛みが同時に浮かんだ。
「急にごめん」
「ううん」
二人の間には、自然と数歩分の距離が空いた。
直人はすぐには話し始めなかった。何度か言葉を探すように視線を落としてから、覚悟を決めたように美咲を見る。
「もう一度、やり直したい」
予想していた言葉だった。それでも実際に聞くと、胸の奥がわずかに痛んだ。
「結婚が現実になって、急に怖くなったんだと思う。ずっとこのままでいいのかとか、俺にちゃんとできるのかとか。考えてるうちに、自信がなくなった」
美咲は黙って聞いた。
「でも、美咲がいなくなって分かった。家に帰ってもいないし、何かあったら話そうとして、それからもういないって気づく」
直人は苦く笑った。
「勝手なのは分かってる。それでも、もう一度だけ考えてほしい」
数日前なら、もっと迷ったかもしれない。
婚約を破棄された直後は、自分の何が悪かったのかばかり考えていた。もしあの時すぐ直人が戻ってきていたなら、もう一度その手を取った可能性もある。
けれど今は、以前と同じ場所には立っていなかった。
実家へ帰った夜、何も聞かずに隣へ座ってくれた悠斗。二人で朝食を食べ、昔の写真を見ながら笑ったこと。そして昨日、悠斗から聞かされた言葉が浮かぶ。
『俺、高校の頃、姉ちゃんのこと好きだったよ』
どうして今、それを思い出すのか、美咲自身にも分からなかった。
ただ、直人と暮らしていた部屋へ戻る自分を想像しても、そこを「帰る場所」とは思えなかった。
「直人」
美咲はゆっくり顔を上げた。
「私も、ちゃんと向き合えてなかったところがあったと思う」
「だったら――」
「でも」
続きを遮り、一度息を吸う。
「戻らない」
直人の表情が止まった。
美咲自身も、もっと苦しい言葉になると思っていた。けれど、口にしてみると不思議なくらい迷いはなかった。
「嫌いになったわけじゃないよ。今まで一緒にいたことも、結婚しようと思ったことも、なかったことにはしたくない」
過ごしてきた時間まで否定する必要はない。それでも、もう一度同じ場所へ戻りたいとは思えなかった。
「じゃあ、どうして」
美咲は少し考えた。うまく説明できる言葉は見つからなかったが、今の自分に一番近いものを口にする。
「たぶん……帰りたい場所が変わっちゃったんだと思う」
言葉にしてから、それが妙に胸に残った。
実家だからなのか。悠斗がいるからなのか。それとも単に、以前の生活へ戻る気持ちになれないだけなのか。
まだ、自分でも分からない。
「ごめん。もう戻れない」
直人はしばらく何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「分かった」
その一言を聞いた時、美咲の中でようやく何かが終わった。
*
「おかえり」
家へ戻ると、悠斗はリビングにいた。
「ただいま」
何度も交わした言葉のはずなのに、その夜だけは少し違って聞こえた。
ここへ帰ってきた。
そう思った自分に気づき、美咲は玄関で一瞬だけ立ち止まった。
「話、終わった?」
「うん」
悠斗はそれ以上聞かなかった。美咲が自分から話すまで待つつもりなのだろう。
美咲はリビングへ入り、悠斗の向かいに座った。
「やり直したいって言われた」
ほんの少しだけ、悠斗の表情が固くなった。
それを見て、美咲は「断ったよ」と続けようとした。けれど言葉にするより先に、悠斗が小さく息を吐く。
「もし戻るって決めたなら、それでもいいと思う」
美咲の口が止まった。
悠斗はテーブルに視線を落としたまま続ける。
「姉ちゃんがそれで幸せになれるなら、その方がいいだろ。俺が口出すことじゃないし」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
昨日、悠斗は自分を好きだったと言った。けれど、それは高校時代の話だったし、昔の話だから気にするなとも言っていた。
今の悠斗にとっては、本当にもう何でもないことなのかもしれない。
「……そうなんだ」
言いかけていた言葉が、急に口にしづらくなった。
断ったと伝えたところで、悠斗が何かを望んでいるわけではない。そう思うと、自分だけがその返事を特別なことのように報告するのが妙に恥ずかしかった。
「姉ちゃん?」
「ううん。何でもない」
悠斗が顔を上げる。その表情には心配が浮かんでいたが、美咲はそれ以上話す気になれなかった。
間違っているのは悠斗ではない。むしろ、ずっと自分の選択を尊重してくれている。それなのに、その優しさが今だけは少し寂しく感じられた。
「今日はもう寝るね」
「ああ。疲れただろ」
「うん」
美咲は立ち上がり、自分の部屋へ向かった。
昨日までなら何も考えず隣にいられた。ところが今は、悠斗の顔を見るたびに「昔好きだった」という言葉を思い出す。
それだけではない。
今の悠斗が、自分をどう見ているのかまで気になってしまう。
部屋に入り、美咲はベッドの端へ腰を下ろした。
直人と別れたばかりで、悠斗の昔の気持ちを知ったばかりでもある。今感じているものが寂しさなのか、安心したいだけなのか、それとも別のものなのか、自分でも整理できていなかった。
このまま同じ家で過ごせば、答えが出る前に悠斗の一言一言へ意味を探してしまいそうだった。
少しだけ、一人になった方がいい。
美咲はスマートフォンを手に取った。以前、会社の同僚が利用したと話していた短期滞在用の部屋を思い出し、空きを調べ始めた。
*
翌朝、悠斗が目を覚ました時、家の中は妙に静かだった。昨日までなら聞こえていたキッチンの物音がない。
階段を下りても、美咲の姿は見当たらなかった。
「姉ちゃん?」
呼んでも返事はない。
美咲の部屋を覗くと、キャリーケースがなくなっていた。
リビングへ戻ると、テーブルの上に一枚のメモが置かれている。
『急でごめん。少し一人で考えたいので、しばらく別の場所で過ごします。落ち着いたら連絡します。泊めてくれてありがとう』
行き先は書かれていなかった。
悠斗は何度か読み返した。
昨夜、美咲は元婚約者に会った。やり直したいと言われた。どう答えたのかは最後まで聞いていない。
そして今朝、キャリーケースごと姿を消している。
胸の奥に、嫌な答えが浮かんだ。
あの人のところへ戻ったのだろう。
悠斗には、それ以外の答えを思いつけなかった。




