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第5話 おかえり、美咲

美咲がいなくなった家は、昨日までと同じはずなのに妙に広く感じた。


 テーブルには短いメモが残っている。悠斗はもう一度それを読み返してから、ソファに腰を下ろした。


『少し一人で考えたいので、しばらく別の場所で過ごします』


 昨夜、美咲は元婚約者と会った。やり直したいと言われたことまでは聞いている。その後どう答えたのかは、結局聞けなかった。そして今朝、美咲はキャリーケースごといなくなった。


 あの人のところへ戻ったのだろう。


 そう考えれば筋は通る。それでも、何も確かめないまま終わらせることだけはできなかった。


 悠斗はスマートフォンを手に取った。何度か文章を打っては消し、ようやく短い一文を送る。


『昨日の人のところに戻ったの?』


 送信してからスマートフォンをテーブルへ置いた。すぐには返事が来ない。


 立ち上がって水を飲み、意味もなく冷蔵庫を開ける。中には、美咲が昨日買ってきたヨーグルトが残っていた。


 扉を閉めたところで、スマートフォンが震えた。


『戻ってないよ』


 悠斗は画面を見つめる。続けて、もう一通届いた。


『昨日、ちゃんと断った。今は短期で借りた部屋にいる』


「……断った?」


 昨夜の会話が蘇る。


 美咲は「やり直したいって言われた」と言った。断ったとは聞いていない。


 いや、聞かなかったのは自分だ。先に「戻るならそれでもいい」と言って、美咲の続きを止めた。


 安心した直後、別の疑問が浮かぶ。元婚約者のところへ戻らないのなら、なぜ家を出たのか。


 考えても答えは出なかった。


『住所、教えて』


 少しして返事が来る。


『どうして?』


『話したい』


『電話じゃだめ?』


『会って話したい』


 今度はしばらく間が空いた。拒まれるかもしれないと思い始めた頃、短期滞在用のマンション名と部屋番号が送られてきた。


 悠斗はすぐに立ち上がった。


     *


 電車を乗り継いで三十分ほどだった。


 教えられた部屋の前でインターホンを押すと、しばらくして扉が開いた。美咲は驚いたように悠斗を見る。


「……本当に来たんだ」


「会って話したいって送っただろ」


「そうだけど。こんなに早いと思わなかった」


 美咲の後ろには、昨日まで実家にあったキャリーケースが見えた。部屋には最低限の家具しかなく、本当に数日過ごすためだけの場所らしい。


「入る?」


「ああ」


 悠斗が靴を脱ぐと、美咲は小さなテーブルを指した。二人で向かい合って座る。


 実家でも何度も同じように食卓を挟んでいた。それなのに、今はテーブル一つ分の距離が妙に遠く感じられる。美咲も落ち着かないのか、膝の上で指を組み直していた。


「それで、話って?」


 悠斗は一度息を吐いた。


「昨日のこと、謝りたい」


「昨日?」


「戻るならそれでいいって言ったこと。あれ、嘘だった」


 美咲の表情が少しだけ固くなる。


「美咲が幸せならいいって思ってたのは本当。でも、あの人のところに戻ってほしいとは思ってなかった」


 昨日までは、その二つを同じ気持ちだと思おうとしていた。美咲の幸せを願うなら、自分が何を望んでいるかは関係ないと。


 けれど、美咲がいなくなった家に一人で残されて、ようやく認めた。


「戻ってほしくなかった。俺のそばにいてほしかった」


 美咲は何も言わなかった。驚いたように悠斗を見たあと、ゆっくり視線を落とす。


 ここまで来ても、逃げ道を作ろうと思えば作れた。家族として、という意味だと言い換えることもできる。


 それをしたくなくて、悠斗は続けた。


「高校の頃、好きだったって言っただろ」


「……うん」


「昔の話みたいに言ったけど、違う。美咲が帰ってきて、一緒に暮らして、分かった」


 そこまで言って、悠斗は言葉を止めた。


 今から伝えようとしていることに、「姉ちゃん」という呼び方だけがひどく不釣り合いに感じた。


「……美咲」


 名前で呼ばれた美咲が、小さく目を見開いた。


 ほんの少し前までなら、それだけで気恥ずかしくなって、いつもの呼び方へ逃げていたかもしれない。けれど今は、その名前を口にしたことで、ようやく家族という言葉の後ろに隠れずに済んだ気がした。


「美咲が好きだ。高校の頃だけじゃない。今も好きだ」


 言い終えると、部屋が急に静かになった。


 美咲はすぐには答えなかった。視線を落としたまま、テーブルの上に置いた自分の手を見つめている。


 悠斗は急かさなかった。


 元婚約者との関係を終わらせたばかりなのだ。そこへ自分の気持ちまで押しつけていることは分かっている。


 やがて美咲が、小さく息を吐いた。


「昨日は、戻ってもいいみたいなこと言ったのに」


「ごめん」


「結構へこんだんだからね」


 責める口調ではなかった。それでも悠斗には、その一言で十分だった。


 美咲は少し困ったように笑ってから、視線を窓の方へ向けた。


「悠斗が昔、私を好きだったって知ってから、ちょっと変だったの」


 それまで何でもなかった距離が急に近く感じるようになった。手が触れそうになると気になり、悠斗の隣に座るだけで、今まで考えなかったことを考えてしまう。


 真帆が家に来た時に感じた引っかかりも、その一つだったのだろう。


 美咲はそこまで口にして、少しだけ頬を赤くした。


「でも、それが何なのか分からなかった。私、つい最近まで別の人と結婚するつもりだったから」


 悠斗は黙って頷いた。


「婚約を破棄されて、弱ってる時に悠斗がそばにいてくれた。だから寂しさを勘違いしてるだけかもしれないって思ったの」


 だから家を出たのだと、ようやく分かった。


 美咲は気持ちから逃げたのではなく、むしろ簡単に答えを出さないために距離を置いたのだ。


「一人になっても、全部分かったわけじゃないよ」


 美咲はテーブルの上へ視線を戻した。


「今すぐ、普通の恋人みたいにできるかって言われたら自信ない。今までずっと弟だと思ってた人だし、たぶん悠斗より私の方が時間かかると思う」


 そこまで言ってから、美咲は少しだけ笑った。


「でも朝から、何度もスマホ見てた」


 悠斗は何も言わず、その続きを待った。


「連絡来ないかなって思ってた。来た時、嬉しかった」


 美咲の声は小さかったが、その言葉だけで胸の奥にあった緊張が少しほどけた。


 昨日、美咲は元婚約者に「帰りたい場所が変わった」と伝えたという。


 その時は自分でも意味が分かっていなかったらしい。


「たぶん、実家そのものじゃなかったんだと思う」


 美咲が顔を上げる。


「悠斗がいるところに帰りたかった」


 悠斗はすぐには返事ができなかった。


 何か言えば、この瞬間を急いで終わらせてしまう気がした。


 美咲も黙っている。


 二人の間に、少し長い沈黙が落ちた。


「私も、悠斗が好きなんだと思う」


 美咲はそう言ってから、自分の言葉を確かめるように一度目を伏せた。


 悠斗は「思う」という曖昧な部分を聞き流せなかった。それでも、ここで答えを求めるのは違う気がして、黙って待った。


 やがて美咲が顔を上げる。


「……ううん」


 さっきまで残っていた迷いが、少しだけ消えていた。


「好きだよ、悠斗」


 今度は悠斗が言葉を失った。


 何日も胸の内に置いていたものが、ようやく同じ場所へ届いた気がした。


「ありがとう」


 どうにか出たのは、それだけだった。


 美咲は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「そこで、ありがとうなんだ」


「他に何て言えばいいか分からない」


「さっきまであんなに喋ってたのに」


 二人の間にあった張り詰めた空気が、そこで少しだけほどけた。


 それでも、美咲が抱えている迷いまで消えたわけではない。笑ったあと、美咲は自分の手元へ目を落とした。


「本当に、ゆっくりでいい?」


「もちろん」


 悠斗は迷わず答えた。


 明日から急に何もかも変える必要はない。長く家族として過ごしてきた時間まで消す必要もない。その続きを、二人で少しずつ変えていけばいい。


 美咲も同じことを考えたのか、しばらくして小さく頷いた。


「じゃあ……少しずつ、恋人になる練習から始める?」


「それ、普通に付き合うってことじゃない?」


 美咲はようやく、いつものように笑った。


「そうとも言うかも」


 何かが一瞬ですべて変わったわけではない。


 けれど、今までと同じでもない。


 それで十分だった。


     *


 その日の夕方、玄関の扉が開いた。


 悠斗がリビングから顔を出すと、キャリーケースを引いた美咲が立っていた。


「短期の部屋は?」


「何日か借りてる。もったいないけど、荷物だけ持って帰ってきた」


 数日前と同じ玄関に、同じキャリーケースを持って立っている。


 けれど、あの時とは違う。


 美咲は少し照れたように笑った。


「悠斗」


「ん?」


「ただいま」


 悠斗はもう迷わなかった。


「おかえり、美咲」

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