第3話 昔、義姉が好きだった
翌朝になっても、美咲の「悠斗は私を選んでくれる?」という言葉は頭に残っていた。
昨夜の悠斗は、結局まともに答えられなかった。「酔ってるだろ」と笑って話をそらすと、美咲も深追いせず、そのまま話は終わった。
美咲に深い意味がなかったことは分かっている。婚約を失って自信がなくなり、弟なら最後くらい自分の味方でいてくれるのか確認したかっただけなのだろう。それなのに、自分だけがあの言葉を別の意味で受け取ってしまった。
土曜日だったこともあり、朝は昨日よりゆっくりしていた。美咲は自分の部屋に残った荷物を整理し、悠斗は一階で洗濯物を片づけていた。
昼前になって、玄関のインターホンが鳴った。
「私、出るよ」
二階から降りてきた美咲が、そのまま玄関へ向かう。悠斗には荷物が届く予定もなかったので、誰だろうと思いながら洗濯物を畳み続けた。
やがて、玄関から女性の声が聞こえてきた。
「こんにちは。悠斗います?」
「いますけど……」
「あ、よかった。これ返しに来ただけなんです」
聞き覚えのある声だった。
悠斗が廊下へ出ると、玄関には大学時代からの友人、真帆が立っていた。肩までの髪にパーカーとジーンズという気楽な格好で、手には紙袋を持っている。
「真帆?」
「お、いた。はい、これ」
渡された紙袋の中には、先月貸した小型のプロジェクターが入っていた。
「わざわざ持ってきたの?」
「近くまで来たから。昨日メッセージ送ったんだけど」
「見てない」
「相変わらずだね」
真帆は呆れたように笑った。
悠斗にとっては学生時代から変わらないやり取りだったが、美咲は少し離れたところから二人を見ている。紹介していなかったことに気づき、悠斗は紙袋を脇へ置いた。
「姉ちゃん、こっち真帆。大学の頃からの友達」
「佐伯真帆です。突然すみません」
「いえ。悠斗の姉の美咲です」
二人が頭を下げる。
真帆は美咲の名前を聞いて、何か思い出したように目を丸くした。
「ああ、あのお姉さん」
「私のこと知ってるんですか?」
「大学の頃、たまに話に出てましたよ。実家に帰ったら姉ちゃんに冷蔵庫のプリン食われた、とか」
「悠斗」
「昔の話だろ」
美咲から責めるような目を向けられ、真帆が楽しそうに笑った。
そのあとも数分だけ立ち話が続いた。真帆は最近の悠斗の仕事の話まで知っていて、「この前も休日出勤してたでしょ」と呆れ、美咲は「そんな働き方してるの?」と初めて聞いたような顔をした。
高校を卒業してからの悠斗を、美咲がすべて知っているわけではない。
当たり前のことだった。
それでも、自分の知らない十年を真帆が当然のように話している光景は、美咲には少し新鮮だったらしい。いつもより口数が少なく、二人の話を聞いていた。
「じゃあ、友達待たせてるから行くね」
「わざわざありがとう」
「今度はちゃんとメッセージ見てよ」
真帆は最後に美咲にも頭を下げ、玄関から出ていった。
ドアが閉まる。
悠斗が紙袋を持ってリビングへ戻ろうとすると、後ろから美咲の声がした。
「真帆さんって、彼女?」
「違うよ」
反射的に答えてから振り返る。
美咲は何でもない顔をしていた。ただ、返事を聞いたあとで「そっか」と頷くまでが、ほんの少しだけ早かった気がした。
「大学の頃からの友達。向こうにも付き合ってる人いるし」
「そこまでは聞いてないけど」
「姉ちゃんが彼女かって聞いたんだろ」
「彼女かどうかだけね」
美咲はそう言って先にリビングへ戻った。
機嫌が悪いわけではない。けれど、先ほどまでより少しだけ言葉が硬い。
悠斗には理由が分からなかった。
昼食を食べる頃には、美咲もいつもの調子に戻っていた。二人で冷蔵庫の残り物を片づけ、その後はまた美咲の部屋を整理することになった。
まだ手をつけていなかった箱には、学生時代の写真や手紙、小物などが入っていた。何年も開けていなかったらしく、美咲自身も中身を忘れていたようだ。
「あ、これまだあったんだ」
取り出したのは、小さなキーホルダーだった。
「文化祭で取ったやつだろ」
「覚えてる?」
「姉ちゃんが取れないって騒いで、俺が代わりに取ったんだから覚えてるよ」
「そうだったっけ?」
「俺の小遣い使ったからな」
「そこだけはしっかり覚えてるんだ」
美咲は笑いながら、キーホルダーを捨てる方ではなく残す方へ置いた。
古い物を一つずつ見ていると、自然に当時の記憶が戻ってくる。家族になったばかりの頃は、お互いどう接すればいいのか分からなかった。美咲はやたらと世話を焼き、悠斗はそれを鬱陶しそうに拒んでいた。
いつの間にか、それが普通の姉弟になった。
「これ、高二の文化祭かな」
美咲がアルバムの一枚を指差した。
数人の友人に混じって、制服姿の二人が写っている。今見ると、まだ二人の間には少し距離があった。
「悠斗、この頃ほんと愛想ないね」
「写真撮られるの嫌いだったから」
「今もそんなに好きじゃないでしょ」
「まあな」
美咲はしばらく写真を眺めていた。
「この頃って、彼女いた?」
「いない」
「好きな子も?」
何気ない質問だった。
昨日から、美咲に恋愛関係のことを聞かれる機会が妙に多い。
悠斗は別の写真へ手を伸ばしかけ、そこで止めた。
「いたよ」
「え?」
美咲が顔を上げた。
予想以上に驚いた顔だったので、悠斗は少し笑ってしまう。
「そんな意外?」
「だって、聞いたことないもん」
「言ってないからな」
「誰?」
美咲は完全に昔話を聞くつもりらしい。興味深そうにアルバムを閉じ、悠斗へ身体を向けた。
「今さらいいでしょ。十年以上前なんだし」
言う必要はない。
最初はそう思った。
けれど、隠し続けるようなことでもない気がした。美咲には婚約者までいたのだし、自分自身も昨日までは、とっくに終わった気持ちだと思っていた。
悠斗は一度、写真へ目を落とした。
「姉ちゃん」
「ん?」
「俺、高校の頃、姉ちゃんのこと好きだったよ」
美咲の動きが止まった。
さっきまでアルバムの上に置かれていた指も動かない。冗談だと思ったのか、数秒遅れて悠斗の顔を見る。
「……私?」
「うん」
悠斗はできるだけ、昔話をするような調子で答えた。
美咲はすぐには何も言わなかった。
窓の外から、遠くを走る車の音が聞こえてくる。それまで懐かしい物で散らかっていた部屋が、急に静かになったように感じられた。
「初めて聞いた」
「言ってないからな」
「いつから?」
「いつだったかな。一緒に暮らし始めて、しばらくしてからだと思う」
正確なきっかけなど、悠斗自身にも分からない。
最初はただ、急にできた年上の家族だった。それが毎日顔を合わせ、一緒に食事をして、話をするうちに、いつの間にか目で追うようになっていた。
美咲はアルバムへ視線を落とした。
「なんで言わなかったの?」
聞いてから、自分でも理由に気づいたらしい。
美咲の表情が少し変わった。
「……そっか。私たち、もう姉弟だったもんね」
「まあな。高校生だったし、わざわざ面倒なことにする必要もないと思ってた」
美咲に嫌われるのも嫌だったし、両親を困らせたいとも思わなかった。
当時の悠斗には、黙っている以外の選択肢など思いつかなかった。
「だから何も言わなかった。それだけ」
美咲は答えず、再び写真を見る。
文化祭の日の自分たちが、そこにいた。
悠斗にはただの昔の写真に見える。けれど美咲は先ほどより長く、その一枚を眺めていた。
「私、この頃普通に悠斗の前で恋愛の話してたよね」
「してたな」
「……嫌じゃなかった?」
今までより少し静かな声だった。
「そりゃ、多少は」
悠斗は苦笑した。
「でも姉ちゃんは何も知らなかったんだから、仕方ないだろ」
美咲はすぐに返事をしなかった。
写真の中の高校生を見る表情は、さっきまで懐かしがっていた時とは少し違う。
「姉ちゃん?」
「ううん。何でもない」
美咲はアルバムを閉じた。
悠斗は、言わなければよかっただろうかと少し思った。けれど、美咲が嫌そうにしているわけではない。ただ、どう受け取ればいいのか分からないように見えた。
「昔の話だから、気にするなよ」
悠斗はそう付け加えた。
半分は、美咲を安心させるためだった。
そして残り半分は、自分自身に言い聞かせるためだった。
「……うん」
美咲は頷いた。
片づけを再開したものの、それまでのようには会話が続かなかった。
何か気まずいことを言ってしまったのかと思ったが、美咲は別に悠斗を避けてはいない。段ボールを運ぶ時には普通に声をかけるし、夕食をどうするかもいつも通り相談してきた。
それでも、何かがほんの少しだけ違う。
たとえば悠斗が箱を受け取ろうと手を伸ばした時、美咲も同じ場所を持とうとして指が触れた。
「あ、ごめん」
先に手を引いたのは美咲だった。
昨日なら気にも留めなかったはずのことだ。
「何で謝るんだよ」
「いや、何となく」
美咲はすぐ別の箱を持ち上げた。
悠斗はその背中を見ながら、首を傾げる。
昨日まで「悠斗は悠斗でしょ」と言っていた人が、今日は妙なところで距離を取る。
気のせいだと思うには、少しだけ分かりやすすぎた。
夕食の頃には、美咲もほとんどいつも通りに戻っていた。
昼間の話を蒸し返すこともなく、テレビを見ながら他愛のない話をする。悠斗もわざわざ昔の恋心について触れることはしなかった。
それでいいと思った。
あれは過去の話として美咲に伝えたのだ。
今も気持ちが残っていることまで知られる必要はない。
食事を終え、美咲が食器をキッチンへ運ぶ。
すれ違う時、昨日までなら肩が触れそうな距離を平気で通っていたのに、その夜はほんの少しだけ悠斗を避けた。
わずかな違いだった。
けれど、悠斗にはそれが分かった。
美咲も、自分でその動きに気づいたらしい。少し困ったような顔をしたあと、何事もなかったように食器を流しへ置いた。
「姉ちゃん」
「何?」
「いや……何でもない」
悠斗はそれ以上聞かなかった。
しばらくして、テーブルに置かれていた美咲のスマートフォンが震えた。
画面を見た美咲の手が止まる。
さっきまでの微妙な空気とは違う緊張が、その表情に浮かんだ。
「どうした?」
「……ううん」
美咲はスマートフォンを伏せた。
悠斗には、画面に何と表示されていたのか見えなかった。
ただ、美咲がそれからしばらく笑わなかったことだけは分かった。




