第2話 姉ちゃん、それは弟にする距離じゃない
翌朝、悠斗が目を覚ました時、首から右肩にかけて鈍い重さが残っていた。昨夜、美咲が肩にもたれたまま眠ってしまい、起こすのも悪いと思って長いこと同じ姿勢でいたせいだろう。
午前三時近くになってようやく美咲を起こすと、彼女は半分眠ったまま「ありがと」と呟いて客間へ消えていった。その声まで妙にはっきり覚えている自分に気づき、悠斗は小さく息を吐いた。
「……何を意識してるんだ、俺」
昨夜、自分の中に残っていた感情を認めてしまった。そのせいで、今までなら気にも留めなかったことまで引っかかる。
悠斗は考えるのをやめ、ベッドを出た。
階段を下りる途中で、キッチンから包丁の音が聞こえてきた。両親が海外へ行ってから、この家で自分以外の生活音を聞くことはほとんどない。たった一人増えただけなのに、家全体が少し違って感じられた。
「おはよう」
キッチンを覗くと、美咲が振り返った。髪を簡単にまとめ、テーブルにはすでに二人分のトーストとサラダが並んでいる。昨夜、リビングで一人泣いていた姿はどこにもなかった。
「何してるの?」
「朝ご飯。見れば分かるでしょ」
美咲はフライパンから目玉焼きを皿へ移した。動きに迷いはなく、この家のキッチンを今でも自分の家のように使っている。
「昨日あんな時間まで起きてたのに」
「何かしてる方が落ち着くの。じっとしてると、余計なこと考えちゃうから」
声は明るかったが、その言葉だけで十分だった。平気になったわけではないのだろう。悠斗はそれ以上聞かず、いつもの席へ腰を下ろした。
すぐにコーヒーが置かれる。
「ブラックだったよね」
「覚えてるんだ」
「それくらい覚えてるよ」
美咲は当たり前のように答えた。
昔もこんな朝があった。美咲が先に起きて朝食を作り、悠斗が眠そうな顔で階段を下りてくる。当時は両親もいて、二人とも学生だった。
十年以上経って、同じような光景だけが戻ってきた。
「何?」
悠斗の視線に気づいた美咲が、不思議そうに首を傾げる。
「いや。懐かしいなと思って」
「私も。まさかまた悠斗の朝ご飯を作るとは思わなかったけど」
昨夜より自然な笑顔だった。それを見て、悠斗も少しだけ安心する。
「俺も、姉ちゃんがキャリーケース引いて帰ってくるとは思わなかった」
「その言い方やめて。家出してきたみたいだから」
「ほとんど同じじゃない?」
美咲はむっとした顔をしたあと、自分でも否定できなかったらしく苦笑した。
その程度の冗談を返せるなら、今朝は大丈夫そうだった。
食事が半分ほど進んだところで、美咲の視線が悠斗の右肩に止まった。
「そういえば昨日、ごめんね。肩、大丈夫?」
「少し重いくらい」
答えると、美咲は箸を置いて立ち上がった。悠斗の横へ回り込み、肩の辺りを確かめようと顔を寄せる。
「どっち?」
「いや、見なくていいって」
「私のせいなんだから気になるでしょ」
さらに一歩近づいてくる美咲に、悠斗は反射的に身体を引いた。
「近いって」
「え?」
美咲は足を止め、自分と悠斗の距離を確認した。何を言われたのか本気で分かっていない顔だった。
「これくらい普通じゃない?」
「昔ならな」
「昔?」
美咲はますます不思議そうにする。
無理もない。二人は長い間、同じ家で姉弟として暮らしてきた。肩を触る、顔を覗き込む、その程度の距離を気にしたことなどなかった。
「俺たち、もう高校生じゃないだろ」
「それはそうだけど」
美咲は少し考えたあと、あっさり肩をすくめた。
「でも悠斗は悠斗でしょ」
それだけ言って、自分の席へ戻っていく。
悠斗は返事をしなかった。
美咲にとっては、きっと本当にそれだけなのだ。昔から知っている弟が少し歳を取っただけで、距離を取り直す必要など感じていない。
そう考えれば、美咲の態度には何もおかしなところはなかった。
問題があるとすれば、自分の方だ。
朝食を終えると、二人は美咲の部屋を片づけることにした。
美咲が家を出てから十年以上が経ち、その間に部屋には両親の荷物が少しずつ持ち込まれていた。季節外れの家電や段ボールが積まれ、本棚の前まで塞がっている。
「掃除機三台って、どういうこと?」
「俺に聞くなよ。たぶん母さん」
「絶対そう」
美咲は呆れながら、一台ずつ廊下へ運び出した。
しばらくすると、別の段ボールを開けた美咲の手が止まる。中には漫画がぎっしり詰まっていた。
「これは?」
「……俺」
「あるじゃない」
「置く場所なかったんだよ」
美咲は責めるような目を向けたが、口元は笑っていた。
昨夜は見ているこちらまで苦しくなるほど張りつめていた。その美咲が、掃除機や漫画のことで文句を言っている。
悠斗としては、その方がずっとよかった。
片づけを続けていると、美咲が棚の奥から古い写真立てを見つけた。
「あ、これ懐かしい」
制服姿の二人が並んでいる。親同士が再婚して、まだそれほど時間が経っていない頃の写真だった。
写真の中の悠斗は今よりずっと細く、美咲との間にもどこかよそよそしい隙間がある。
「悠斗、若いね」
「姉ちゃんもだろ」
「私はそんなに変わってないよ」
「自分で言う?」
美咲は笑いながら、写真と現在の悠斗を見比べた。その視線が思ったより長かったので、悠斗の方が居心地悪くなる。
「何だよ」
「変わったなと思って」
「十年以上経ってるからな」
「そうじゃなくて。昔より落ち着いたし、頼れるようになった」
思いがけない言葉だった。
美咲は写真立てについた埃を指で拭いながら、昨夜のことを思い出すように目を細める。
「昨日も、何も聞かずに隣にいてくれたでしょ。昔だったら、悠斗の方が困ってたと思う」
「高校生だったからな」
「今はちゃんと大人なんだね」
そう言って、美咲は穏やかに笑った。
姉が久しぶりに会った弟の成長を実感した。それだけの言葉なのだろう。
それでも、悠斗には少し嬉しかった。少なくとも美咲の中で、自分は十年前の頼りない高校生のままではない。
「何、その顔」
「別に」
「出た。昔の悠斗」
「うるさい」
美咲が楽しそうに笑った。
昼過ぎには、どうにか人が暮らせる程度まで部屋が片づいた。壁際にいくつか段ボールは残ったものの、ベッドと机は使える。
美咲はベッドの端へ腰を下ろし、久しぶりに戻った自分の部屋を見回した。
「これなら大丈夫そう。ホテル取らなくて済んで助かった」
「最初からここ来ればよかっただろ」
「でも、悠斗にも生活があるし」
そこで美咲は少し間を置いた。
「彼女がいたら、急に姉が住み始めたら困るでしょ」
「いないよ」
美咲が顔を上げる。
「彼女」
「いないの?」
思っていた以上に驚かれ、今度は悠斗が戸惑った。
高校を卒業してから、二人は互いの生活について細かく話さなくなった。悠斗は美咲に恋人ができたことも婚約したことも知っていたが、美咲は悠斗の恋愛事情をほとんど知らない。
「いると思ってた」
「なんで?」
「普通にいそうだから。仕事もちゃんとしてるみたいだし」
美咲はそれ以上深く考えていないらしく、何でもないことのように答えた。
悠斗は床に残っていた段ボールを持ち上げる。
「じゃあ、好きな人は?」
背中越しに飛んできた質問に、手が止まった。
答えなら簡単だった。
いる。
その質問をしている本人だ。
もちろん、そんなことを口にできるはずがない。
「何でそこまで聞くんだよ」
振り返ると、美咲はベッドに座ったまま、軽く笑っていた。
「姉として気になっただけ」
予想通りの答えだった。
「余計なお世話」
「はいはい」
美咲はあっさり引いた。悠斗が誰を好きなのか、本気で探ろうとしているわけではないらしい。
ただ久しぶりに一緒に暮らす弟の近況が気になった。それだけなのだろう。
夕方、二人で近所のスーパーへ買い物に出た。
片づけだけで疲れたこともあり、夕食は総菜で済ませる。美咲が酒の棚の前で足を止めたので、悠斗も付き合うことにした。
「昨日、酔ったら泣くって言ってなかった?」
「今日は大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
その返事に不安を覚えながらも、悠斗は自分の分のビールも買い物かごへ入れた。
家に戻り、テーブルに総菜を並べる。
最初は昔話ばかりだった。
両親が再婚したばかりの頃、美咲は新しくできた弟との距離の取り方が分からず、必要以上に世話を焼いていたらしい。一方の悠斗は思春期の真ん中で、突然できた姉とどう話せばいいか分からず、何を聞かれても「別に」としか答えなかった。
「あの頃、本気で嫌われてると思ってた」
「嫌ってないよ。どうすればいいか分からなかっただけ」
悠斗がそう答えると、美咲は懐かしそうに目を細めた。
最初は他人だった。
そこから十年以上かけて、二人は今の姉弟になった。
その積み重ねがあるから、美咲は今も悠斗の前では無防備でいられるのだろう。
話題が途切れた頃、美咲が缶をテーブルへ置いた。
「昨日のこと、少し話してもいい?」
「もちろん」
美咲はすぐには話し始めなかった。缶についた水滴を指でなぞりながら、頭の中にあるものを順番に並べるように考えている。
「私、ずっと結婚したいんだと思ってた。でも婚約がなくなってから、本当にあの人と結婚したかったのかなって考えちゃって」
昨夜のように泣きそうではない。声は落ち着いていた。
だからこそ、一晩考えて出した本音なのだと分かる。
「もちろん好きだったよ。でも結婚が決まった時、一番嬉しかったのが『私を選んでくれた』ってことだったの」
美咲は少し困ったように笑った。
「周りも結婚して、私も三十歳になって。ちゃんと誰かに選んでもらえたって安心したかっただけなのかなって」
悠斗はすぐに答えず、少しだけ考えた。
昨夜の美咲の姿を思い出す。肩を震わせていたことも、失った未来が怖いと呟いたことも。
「それだけじゃないだろ」
「そうかな」
「それだけなら、昨日あんなに泣かないと思う」
美咲が顔を上げた。
悠斗は自分でも驚くほど自然に続きを口にしていた。
「好きだったから傷ついたんだろ。それでいいじゃん。あとから全部、間違いだったことにしなくても」
美咲はしばらく何も言わなかった。
その表情から、わずかに力が抜けていく。
「悠斗って、そういうこと言うんだ」
「何だよ」
「昔だったら『知らない』って逃げてたのに」
美咲は小さく笑った。
「やっぱり大人になったんだね」
昼間にも似たことを言われた。
悠斗は照れ隠しに缶へ口をつけた。
美咲も一口飲んだあと、しばらく黙っていた。先ほどまでより表情が落ち着いたように見えたが、それでも目元にはまだ迷いが残っている。
「でも、やっぱり少し怖いんだと思う」
「何が?」
「この先、誰にも選ばれなかったらどうしようって」
明るく、何でも自分で決められる人だと思っていた。
けれど、美咲にもこんな弱さがある。
悠斗は少しだけ言葉を選んだ。
「考えすぎだよ。姉ちゃんを選ぶ人なんて普通にいるだろ」
美咲が顔を上げる。
「そう思う?」
「思うよ」
今度は迷わず答えた。
「婚約破棄された三十歳でも?」
自分を茶化すような言い方だった。
「三十歳なんて普通に若いだろ。それに婚約破棄されたことと、姉ちゃん自身の価値は別だよ」
悠斗としては、当たり前のことを言ったつもりだった。
美咲は少し驚いたような顔をしたあと、安心したように笑った。
「そっか」
短い返事だったが、先ほどまでより声が軽い。
しばらくして、美咲は缶を両手で持ったまま悠斗を見る。
「じゃあさ」
「ん?」
「もし私が、本当に誰にも選ばれなかったら……悠斗は私を選んでくれる?」
美咲の声は軽かった。
弟なら最後くらい味方をしてくれるだろう。きっと、その程度の安心が欲しかっただけなのだ。
美咲自身に、それ以上の意味はない。
だからこそ、悠斗には答えられなかった。
軽く「当たり前だろ」と返せばいい。美咲が求めているのは、たぶんその一言だ。
けれど悠斗にとって、「選ぶ」という言葉はもう姉弟だけの意味では聞けなかった。
「悠斗?」
返事が遅いことを不思議に思った美咲が首を傾げる。
その表情は、いつもの姉のものだった。
悠斗は視線を逸らした。
この人は何も知らない。
自分がどんな気持ちで、今その質問を聞いているのかを。




