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第1話 婚約破棄された義姉が帰ってきた

インターホンが鳴ったのは、午後十一時を少し過ぎた頃だった。こんな時間に宅配便が来るはずもなく、友人が突然訪ねてくる予定もない。悠斗は眉をひそめながら、壁際のモニターを確認した。


「……姉ちゃん?」


 画面の向こうに立っていたのは、大きなキャリーケースを引いた美咲だった。三十歳、悠斗より三つ年上の血のつながっていない姉である。両親の再婚で家族になったのは、悠斗が高校一年の頃だった。


 モニター越しでも、美咲がひどく疲れているのが分かった。悠斗はすぐに玄関へ向かい、鍵を開ける。


「どうしたんだよ、こんな時間に」


「久しぶり」


「久しぶり、じゃなくて」


「うん」


 美咲はいつものように笑おうとしたが、その表情はどこかぎこちなかった。キャリーケースの取っ手を握ったまま一度視線を落とし、少し迷ってから悠斗を見る。


「悠斗。悪いんだけど……しばらくここに住ませてくれない?」


「は?」


 美咲の顔と足元のキャリーケースを交互に見る。冗談には見えなかった。


「待って。姉ちゃん、今あっちに住んでるだろ」


「住んでた」


「住んでた?」


「とりあえず、中に入れてくれない?」


「あ、ああ」


 悠斗が身体をどけると、美咲は「お邪魔します」と小さく言って玄関を上がった。その言い方に違和感を覚えて、悠斗は思わず苦笑する。


「いや、姉ちゃんの実家でもあるだろ」


「今は悠斗の家みたいなものでしょ」


 両親は半年前から父親の仕事の都合で海外にいる。そのため、今この家で暮らしているのは悠斗一人だけだった。


 美咲は高校卒業後、進学を機に家を出た。そのまま就職し、最近では婚約者とマンションで暮らしている。三か月後には結婚する予定だったはずだ。


 悠斗は嫌な予感を覚えながら、美咲をリビングへ通した。


「何か飲む?」


「お酒」


「いきなり?」


「じゃあ、水」


「極端だな」


「今日は酔ったら、たぶん泣くから」


 あまりにもさらっと言われて、冷蔵庫を開けようとしていた悠斗の手が止まった。何も聞き返さずミネラルウォーターを取り出し、美咲の前に置いてから向かいの椅子に座る。


「何があった?」


 美咲はペットボトルのキャップを開け、一口だけ飲んだ。それでもなかなか話そうとしない。


 普段の美咲なら、何かあれば自分から話す。むしろ悠斗が聞いていないことまで話すくらいだったから、その沈黙が余計に不安を感じさせた。


「姉ちゃん?」


「婚約、なくなった」


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「……なくなった?」


「うん」


「結婚するんじゃなかったのか?」


「する予定だったね」


 美咲は笑った。いつもと変わらない笑い方をしようとしているのが分かるからこそ、悠斗はかえって言葉を失った。


「向こうから?」


「そう」


「理由は?」


「結婚する直前になって、本当に私でいいのか分からなくなったんだって」


「なんだよ、それ」


 思った以上に低い声が出た。美咲が困ったように眉を下げる。


「悠斗が怒ることじゃないよ」


「怒るだろ。結婚式まで三か月だぞ。今さら本当にいいか分からないって、じゃあ今まで何だったんだよ」


「ほんとだよね」


 美咲はまた水を飲んだ。


「でも、結婚してから言われるよりは良かったんじゃないかな。そう思うことにした」


 悠斗は返事をしなかった。美咲は昔から、嫌なことがあると自分の中で理屈をつけて飲み込むところがある。誰かを責めるくらいなら、自分が少し我慢すればいいと思ってしまう人だった。


「それで、家も出てきたのか?」


「向こうの名義だったから。今日ちゃんと話をして、必要なものだけ持ってきた」


「ホテルでも取るつもりだった?」


「一応ね」


「だったら最初からここ来いよ」


 美咲が目を瞬かせた。


「いいの?」


「いいに決まってるだろ。部屋なんて余ってるんだし」


「でも、悠斗一人で気楽に暮らしてたでしょ」


「姉ちゃん一人増えたくらいで変わらないよ」


「昔は私のこと鬱陶しがってたのに」


「高校生の頃の話だろ」


「冷蔵庫に入れてたプリン食べたら、三日くらい口利いてくれなかった」


「あれは名前書いてあったからだ」


「まだ覚えてるんだ」


 二人で少し笑った。それでようやく、美咲の顔から張りつめていたものがわずかにほどけた気がした。


「じゃあ、少しだけ甘えようかな」


「好きなだけいればいいよ」


「それはダメ。ちゃんと部屋探す」


「急がなくていいって」


「そういうわけにはいかないよ」


 美咲はそう言って立ち上がり、キャリーケースの取っ手を握った。


「私の部屋、まだ使える?」


「使えるけど、ちょっと物置になってる」


「ちょっと?」


「そこそこ」


「ひどい」


「何年まともに帰ってきてないと思ってるんだ」


「実家なのに」


「明日片づけるよ」


「一緒にやる」


 今夜は客間を使うことになり、美咲はキャリーケースを引いて二階へ上がっていった。悠斗はその背中を見送りながら、思っていたより普通に話せていることに少しだけ安心した。


 もちろん、平気なはずはない。それでも今すぐどうにかなってしまいそうな状態ではないらしい。少なくとも今夜は、静かに休ませた方がいいだろう。


 ところがベッドに入っても、悠斗はなかなか眠れなかった。家の中に自分以外の誰かがいるというだけで、妙に落ち着かない。


 相手が美咲だからかもしれない。昔は毎日同じ家で暮らしていたのだから、今さら意識する必要などないはずなのに、何度寝返りを打っても眠気はやってこなかった。


 時計を見ると、午前一時半を回っていた。諦めて水でも飲もうと部屋を出て階段を下りると、リビングの明かりがまだついていることに気づいた。


「姉ちゃん?」


 返事はなかった。悠斗は足音を立てないようにリビングを覗き込み、そこで動きを止めた。


 ソファに美咲が座っている。俯いたまま両手で顔を覆い、肩を小さく震わせていた。


 泣いているのだと気づくまでに少し時間がかかった。


 声をかけるべきか迷った。昼間なら迷わず話しかけられたかもしれないが、今の美咲はきっと誰にも見られたくなかったはずだ。悠斗は何も言わず、そのまま二階へ戻ろうとした。


「悠斗」


 呼び止められて足を止める。


「起きてたの?」


「水飲もうと思って」


「そっか」


 美咲は顔を上げなかった。


「ごめん。見なかったことにして」


「うん」


 そう答えたものの、そこから立ち去ることもできなかった。しばらく黙って立っていると、美咲が小さな声で言う。


「ねえ」


「ん?」


「今日だけでいいから……隣にいてくれない?」


 美咲が顔を上げる。目の周りが赤くなっていた。


 悠斗は何も言わず、ソファの隣に腰を下ろした。すぐに励ます言葉は出てこなかったし、下手なことを言うより黙っていた方がいいような気がした。


「私ね、結婚すると思ってた」


「うん」


「子供ができたら、この家にも連れてきて。お父さんとお母さん喜ぶだろうな、とか考えてた」


「うん」


「悠斗には、叔父さんになるんだよって笑おうと思ってた」


「ずいぶん先まで考えてたんだな」


「そういうこと考えるでしょ、普通」


 少しだけ笑った声が、途中で震えた。


「全部なくなっちゃった」


 悠斗は何も言えなかった。大丈夫だとか、次があるとか、そんな言葉では今の美咲には軽すぎる気がした。


「私、別れたことより……未来が急になくなったことの方が怖いのかも」


「……そっか」


 それだけ答えた。


 しばらくすると、肩に柔らかな重みを感じた。美咲が悠斗の肩へ頭を預けている。


「ちょっとだけ貸して」


「肩?」


「うん」


「どうぞ」


「弟がいて良かった」


「こんな時だけ?」


「こんな時だから」


 美咲の髪が頬に触れ、微かにシャンプーの匂いがした。昔だったら、この距離だけでまともに呼吸できなくなっていただろう。


 悠斗は美咲が好きだった。


 親同士が再婚する前から知っていたわけではない。初めて会った時には、もう「これから姉になる人」だった。それでも、一緒に暮らし始めてから美咲を好きになった。


 当然、言わなかった。家族になった相手へそんなことを言えるはずがないと思ったし、高校を卒業する頃には自分なりに気持ちへ区切りをつけたつもりだった。


 美咲に恋人ができた時も、婚約したと聞いた時も、ちゃんと笑って「おめでとう」と言えた。それで終わった感情なのだと思っていた。


 やがて肩から規則正しい寝息が聞こえ始めた。泣き疲れたのだろう。悠斗は起こさないように身体を動かさず、静かなリビングで天井を見上げた。


 胸の奥だけが、昔と同じようにうるさかった。


 終わったと思っていた。姉として見られるようになったと思っていた。


 けれど、美咲が別の男との未来を失って泣いているのを見て、安心してしまった自分がどこかにいる。その事実から目をそらすことはできなかった。


 俺はこの人を好きだった。


 ――いや。


 たぶん、今も好きだ。

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