75話『夢うつつ』
麗香は、智也さんの告白を「断った」と言った。
もちろん、それが嘘だったとは思わないが――彼女にとってその決断は、簡単なものではなかったように思う。
智也さんとは、俺よりもずっと長い時間を過ごし、苦楽を共にした仲だっただろうから――。
麗香は「ちょっと座ろっか」と言って、持参していたレジャーシートをひいた。
彼女は海を眺めながら、こう言った。
「智也は……一番、心地良い距離にいた異性……だと思う」
「心地良い……?」
「うん。恋人になると良くも悪くも近づきすぎて、お互い気を使っちゃったり、逆に言いすぎて喧嘩になったりってあるでしょ?恋人になるとさ、別れるって選択がふいに出てきたりするけど……友達なら、よっぽどのことがない限り絶交とかないじゃない?」
「……そうだね」
「智也とは――恋人関係じゃなかったからこそ、何でも相談できたし言い合えた。まあ、アイツも私に幻想を抱いてて。『棚橋麗香はこうあるべき』みたいな自分の理想を押し付けてきて、正直ウザイな~と思うこともあるんだけどね」
麗香はそう言って、笑った。
その笑みを見た瞬間――智也さんを心から信頼しているんだと感じた。
「……智也さんのこと、異性として好きだなって思う瞬間はなかったの?」
恋人関係ではないとはいうものの、男と女。
一線を越えるのなんて容易い。
もう少し踏み込んで、彼との関係を聞いておきたかった。
「そうだね……それはないかな」
その答えを聞いて、ほっと胸をなでおろしたのだが――。
「智也は失いたくない人……だったからさ」
複雑だった。
『失いたくない人』というのは、かなり重い言葉だ。
麗香が、智也さんと抱き合っていたあの日――彼女は、泣くほど落ち込む出来事があったと言っていた。
つらい状況下で、いの一番で相談した相手は俺ではなく、智也さんだった。
その理由が、この言葉に詰まっている気がした。
「智也の告白の返事――すぐにはできなかった。返事は『NO』だって、自分の中ではすぐに答えが出てたのに」
「……」
彼女の本心を聞くたび、胸がえぐられる。
本当はこんな話、聞きたくなどない。
智也さんを選ぶほうが彼女は幸せなのではないか。
どうして、俺なのか。
わからない――。
俺は唇を噛んだ。
「心が決まったのは――やっぱり、レイナちゃんの言葉が大きかったなって思うんだよね」
麗香は、海から俺のほうに視線を変えた。
「『直くんが好き』って、真っ直ぐ言えるレイナちゃんが……すっごくカッコよく見えた。と同時に……自分の中で、ものすごく感情が動いた」
「……」
「『直くんを誰にも取られたくない』『彼にとって自分が一番でありたい』『私のほうがレイナちゃんよりずっと……』って、いろんな醜い思いが一気に沸き上がってきて……いままでこんなことなかったから、自分でもびっくりした」
彼女は少し間を置いてから――。
「ああ……私、すごく直くんのこと好きなんだなって思った」
そう言って微笑んだ彼女の表情は――迷いや葛藤など一切なく、清々しいほどに純粋で真っ直ぐなものに見えた。
「智也とは……仕事上、これからもたくさん関わることになるし、告白は断ったとはいえ、大事な仲間であることに変わりない。だから、嫌な思いをさせることもあると思う。直くんには――それも含めて、決断してほしい」
俺は、彼女の言葉を重く受け止めた。
「……うん。わかった」
麗香は「それから、もう一つ……」と言って、少しの間、沈黙した。
彼女の表情に陰りが見えた。
「あの日――智也に告白された日、落ち込んでひとりで飲んでたって言ったでしょ?母の……がんの再発がわかったの」
「……!?」
絶句した。
言葉がでない。
そんな俺の様子を見た彼女は、「でもね、母も病気に負けず頑張るって言ってる。もちろんショックだったけど、今は前を向いてるから安心して?」と優しく微笑んだ。
「だけど……もし直くんが私を選んでくれたとしても――たぶん、そのことで……たくさん相談するし、情緒が不安定になっちゃうことも多いと思うの……それもあらかじめ伝えておきたかった」
麗香の眼差しは真剣だった。
だが、一転。
「あ~スッキリした!」
真摯な面持ちが、安堵へと変わった。
「智也のことも母のことも――直くんに言いたいとは思ってたんだけど……内容が内容なだけに、ずっと言えなかったから。今日言えてよかった!」
どちらも、俺にプレッシャーをかけるような重い話だ。
だからこそ、なかなか切り出せずにいたのだろう。
「話してくれて、ありがとう……麗香にとって大事な話を聞けて、本当によかった」
彼女の本心が聞けたことで、心の中でもやもやとしていた部分が完全に晴れた。
決意と覚悟を持ってこの話をしてくれたことが純粋に嬉しかったし――彼女のこういう真っ直ぐなところが好きだなと、改めて思った。
今度は――俺が決断する番だ。
俺は小さく拳を握った。
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帰り道――。
「今日一日、あっという間だったね!」
「そうだね。本当に楽しかった!」
麗香と海で語り合った後――俺たちは新江ノ島水族館を楽しんでから、オーシャンビューのレストランで食事をとった。
その間は――海で話したような真面目な話は一切せず、はじめて出会った日から今日までの時間を改めて振り返りながら、思い出話に花を咲かせた。
「あのさ……」
この日の締めくくりとして、最後に――伝えておきたいことがあった。
「棚橋麗香でいてくれて、ありがとう」
運転中の麗香は「え、いきなり何?」と、驚いた様子でチラッと俺を見た。
「今の俺があるのは……麗香のおかげなんだ。麗香に振り向いてほしくて――自分を変える決断をした。そのおかげで、ディーノさんともレイナとも出会えた」
「……そうだったんだ」
「だから……麗香には本当に感謝してる。ありがとう」
俺は彼女に向かって頭を下げた。
麗香と出会っていなかったら――たぶん、殻にこもり続ける人生だったと思う。
港区という新しい世界を知ることも、新たな自分に出会うことも、モテ期を経験することも――きっとなかった。
「ううん。私は何もしてないよ?」
彼女は少し照れくさそうに、はにかんだ。
「だけど……今の俺にとっては――レイナもとても大切な存在なんだ。だから……少しだけ時間がほしい。ごめん……」
「……うん。わかってる」
麗香は「そういう誠実で嘘がつけないところが、直くんの良いところだから!」と、明るく言ってくれた。
「……ありがとう」
車中には――しばらくの間、沈黙が流れる。
安心したからか、疲れが押し寄せてきたからか、わからないが……俺は眠気に襲われ、うとうとし始めた。
麗香は言った。
「寝てていいよ?」
彼女は俺の髪の毛をふわっと撫でた。
俺はそのまま深い眠りに落ちた。
どのくらいの時間、眠っていたのかはわからない――。
「直くん……起きてる?」
夢なのか現実なのか――区別がつかなかったが、ぼんやりと麗香の声がした気がした。
「……いい返事、待ってるから……」
ふと、右頬に柔らかい何かが触れた。
うっすら目を開けると――麗香は俺の頬に優しく口づけていた。
俺は再び、目をつむり直し――気づかぬフリをした。




