73話『日常と非日常』
――やばい……。
新宿駅。
現在、7時半――。
今日は、いよいよ麗香さんとのデート当日。
荒く息を切らしながら、約束の場所である新宿駅西口を目指した。
――西口、西口……。
寝坊してしまい、到着が約束の時間ジャストになってしまった。
今日に限って……スマホをなぜかミュートにしてしまっており、目覚ましが鳴らなかったのだ。
ただ、翌日の麗香さんとのデートのことを考えすぎていたからか――寝つきが悪かったうえ、眠りも浅く、それが幸いして起床予定の40分寝坊で済んだ。
「直くん!」
汗だくで必死の形相の俺とは対照的に、爽やかな笑顔をこちら向ける麗香さんの姿を捉えた。
「すみません!遅くなりました……」
「全然大丈夫だよ?私もちょうど今着いたところだからさ!」
乱れた息を必死で整えながら、ハンカチで汗をぬぐう。
麗香さんは「朝早かったよね。ごめんね」と苦笑いを浮かべながら歩き出す。
「それにしても驚きました。麗香さん、運転免許持ってたんですね」
「うん。写真撮りによくひとりで遠出したりしてるの」
今日のデートの目的地は――江の島だ。
「ちょっと遠出しない?」との彼女からの提案だった。
俺自身、江の島には行ったことがないうえ、都内からではデートの下見に気軽に行ける距離でもない。
ネットでいろいろ下調べし、ロマンスカーの予約などもしなくてはと思っていたのだが――「まかせてほしい」との麗香さんの言葉に甘えて、レイナの時と同様、彼女にデートプランをおまかせしている。
「車ここだよ!」
麗香さんは慣れた様子で車の運転席に乗り込む。
俺もそれに続き、助手席に乗り込んだ。
普通のデートならきっと逆で――男性が女性をカッコよく車で迎えに行き、彼女のために助手席を開けてエスコートするものだろう。
だが、運転免許を持っていないから、俺にはそれができない。
それがひどく申し訳なく、悔しかった。
「ほんと、今日はありがとうございます。俺……運転免許取ります……」
「そんな気にしないで?私、車の運転好きだからさ」
麗香さんは俺にニコっと笑いかけた後、一転じっと俺を見た。
――え……。
運転席と助手席という距離感。
ふたりきりの空間。
エンジンがかかっておらず無音の車中。
これらの演出が俺をいままでになくドキドキさせた。
――まさか……。
無意識にぎゅっと力を込めて目をつむった。
すると――。
「ふふふっ」
彼女は突然、小さく笑った。
「寝ぐせ!」
そう言って、俺の頭の後ろ髪を優しくなでた。
「ぅえ!?あ……すみません……」
鏡に見える範囲はさっと整えたのだが――時間もなく、後ろ髪にまで意識を向けられていなかった。
――恥ずかしすぎる……。
寝ぐせが残っていたこともそうだが――キスされるかもしれないと、勘違いしてしまったことに対して羞恥心でいっぱいだった。
麗香さんはエンジンをかけた。
「キスされるかと思った?」
「……へ?」
心の内を言い当てられたことで、顔の温度が一気に上がった。
彼女はチラッと俺のほうを見て、再びふふふっと笑った。
「私はレイナちゃんほど小悪魔じゃないよ~?」
レイナちゃん、という呼び方。
そして、彼女を“小悪魔”と称する根拠。
それは一体――。
「……どういう意味ですか?」
ポロっと口をついて出た。
「え~だってキスされたでしょ?レイナちゃんから」
――な……なぜそれを……!?
俺は驚いて麗香さんのほうを凝視した。
だが、彼女は運転中。視線は正面だ。
横顔はいたっていつも通り。表情の歪みは一切なく凛としている。
「……その……隠してたとかではなく……」
「あ、いいの!気にしてない……っていったら噓だけど。それはそれ、これはこれ、というか」
あっけらかんとした態度に、びっくりした。
「レイナから……聞いたってことですよね?」
「うん」
たぶん、俺が帰った後のレイナと麗香さんとのサシ飲みで打ち明けたのだろう。
一体あの日――何を話していたのだろうか……。
俺は生唾をごくりと飲み込んだ。
「レイナとあの日……何を話したんですか?」
ストレートに問いかけてみた。
すると、彼女はチラッと俺のほうを見たが――すぐに正面を向いた。
「え~それは内緒!」
彼女は楽しそうに笑みを浮かべた。
俺たちが江の島に到着したのは――10時半過ぎ。
道中、渋滞にはまってしまい、到着予定時刻よりも1時間半遅れになってしまった。
渋滞で車が動かなくなってしまった時は、何を話して会話を続けようか、沈黙になったらどうしようかと、内心かなり焦っていた。
だが――実際は、3時間のドライブがあっという間に思えるほど、大盛り上がりだった。
彼女の好きな音楽はジャズで、俺にとっては未知のジャンルであったこと。
彼女は意外にも食べ物の好き嫌いが多いこと。
彼女にも会社で苦手な上司がいること。
彼女は虫が苦手で、唯一虫の写真だけは絶対に撮らないこと。
彼女もアニメをよく見るそうで、自分と同じ日常系が好きなこと。
本当に取るに足らない会話ばかりだったと思うが――俺にとっては、麗香さんに抱いてきた幻想がいい意味で崩れて、彼女を身近に感じることができた。
今の自分の中には、彼女に対する“憧れ”の感情はもうなかった。
同じ目線、同じような感性を持つ、いい意味で普通の女性だったということに気づけた。
だから、この3時間は異性として意識するというよりも――友人として長く一緒にいたいと思える存在として、彼女を見ていた。
「う~ん!やっと着いたね!」
片瀬海岸周辺の駐車場に車を止め、運転から解放された彼女は大きく背伸びをした。
「運転、本当にありがとうございました!まずはどこに行きますか?」
「実はノープランなんだよね!」
「え?」
「計画通りに回るより、お互い話しながら決めたかったというか」
「なるほど……」
「どこ行きたいとかある?」
「そうですね……まずはやっぱり……王道ですけど江島神社、目指すのはどうですか?」
「もちろん、いいよ!お腹もすいてきてるから、途中食べ歩きしよう?」
「そうですね!」
麗香さんは「じゃ、行こっか!」と歩き出す。
「麗香さん」
そんな彼女を呼び止めた。
彼女は俺のほうに振り返った。
と同時に――俺は左手を差し出した。
手をつなぎたい。
彼女をリードしてあげたい。
自然とそう思った。
彼女はニコっと微笑んで、右手を重ねてぎゅっと俺の手を掴んだ。
彼女の手の温もりを感じながら、俺は先陣を切って歩き出した。




