71話『嵐の前の静けさ』
「いらっしゃいませ」
「……こんにちは」
「今日はおひとりですか?」
「……いえ。3名で19時に待ち合わせ予定なんですけど……先にひとりで飲みたくて」
現在の時刻は18時。
約束の時間までは、まだ時間があった。
「かしこまりました。19時にお揃いになるまではカウンターでもよろしいでしょうか?」
「もちろん大丈夫ですよ」
俺は、カウンター席に深く腰掛けた。
毎月、毎週のように『Lv.∞』に来ているから――もはや、俺は常連だ。
このお店のことが大好きだから、そうなれて嬉しいのだが――。
いつも、ここでは何かが起きる。
そして、今日も――波乱が起こることが確定している。
1週間前。
レイナとお台場で1日を過ごしたあの後――。
彼女と別れてすぐ、麗香さんに改めて連絡を取ろうとスマホを手に取った。
このまま麗香さんが、俺との関係をなかったことにしたいのなら、その選択を甘んじて受け入れようと思っていた。
でも――レイナへの「好き」の告白がつっかえてしまった理由は、麗香さんとのことをすっきり清算できていなかったからに他ならなかった。
レイナとの未来を前に進めるためにも、麗香さんと向き合う必要があると思った。
Instagramを開く。
すると――。
――メッセージきてる……。
どんな心境の変化が、麗香さんの中であったのだろうか。
一瞬、メッセージを開くのを躊躇したが……トーク画面を開いた。
『ずっと……連絡できてなくてごめんなさい』
『会って話がしたいです』
『でも……ふたりきりじゃなくて、レイナさんも呼んでほしいです』
『場所は、また『Lv.∞』だと嬉しいです』
想像だにしなかった内容すぎて、動悸がした。
あの日、すべてが壊れたこの場所で――今日、また3人で集まるのだ。
胸騒ぎしかしない。
俺は、目の前に用意されたばかりのシャンパンを一気に飲み干した。
シラフの状態では、到底ふたたびの修羅場を耐え抜くことなどできない。
だから、お酒の力を借りて、ノリと勢いでなんとかこの窮地を乗り切ろうと思っている。
「何かオーダーされますか?」
空いたグラスを見て、マスターが話しかけてきた。
「……」
俺はメニューではなく、マスターのことをじっと見た。
――ディーノさんが愛した人のお兄さん……か……。
「……あの……どうして、このお店を……?」
ふと口をついて出てきた言葉だった。
マスターは一瞬、驚いたように目を見開いた後、いつも通りの穏やかな表情に戻った。
「人と人をつなげる場を作りたかったから――ですかね」
そう言って、「そんなに特別な理由があったわけじゃありませんよ」と微笑んだ。
「……マスターは、人が好きなんですか?」
「そうですね」
即答だった。
寡黙な印象で多くを語らない人だから、正直意外だなと思った。
彼は俺の心の内を察したのか、こう続けた。
「バーカウンター越しに、お客様が紡がれる物語を見ているのが好きなんです。たまたまカウンターで隣同士になったおふたりが、数年後、結婚していたり。20代と50代の常連のお客様が、海外旅行に一緒に出かける間柄になっていたり。この店に来ていなければ出会うはずもなかった方同士がつながるって、とても素敵だなって思うんです」
マスターは目の前のグラスにワインを注ぐ。
「もちろん、いいストーリーばかりというわけではありません。喧嘩や修羅場もたびたび起こります。大変なこともあるのは事実ですが、それも含めて、この場所がお客様の新たな可能性を広げる場であってほしいと願っています」
ワインを注ぎ終えると――。
「こちらは私からの一杯です」
そう言って、俺の前に差し出した。
「え……そんな……」
申し訳なさから躊躇していると、「いつもご利用いただいていることへの気持ちです」とマスターは軽く頭を下げた。
「こちらこそです……」
俺も軽く会釈をした。
そして、目の前のグラスを一口。
「美味しい……」
いままで飲んだことがあるワインとはまったく異なる、深みのある味わい。
どのワインを選んだのかわからなかったから、値段はわからない。
だが、単純に高価だから深みがあるというわけでもないと思った。
たぶん――マスターの話を聞いた後だから。
「良かったです」
マスターはふっと微笑み、俺のもとを離れた。
思い返せば――俺は、この場所とともに多くを学んできた。
ディーノさんと出会い、レイナと急接近し、修羅場を経験した。
良かったことも、そうでなかったことも、ここで紡いだすべての物語が、今の俺を作り上げている。
そう考えると――今日起こるであろう再びの修羅場も、なんだか俺にとって必要な物語の一部のようにも思えてきた。
――大切に飲もう……。
俺はいつもよりも時間をかけて、じっくりとワインを味わった。
18時45分――。
「直!」
俺の名をふいに呼んだのは――レイナだった。
「レイナ……今日は時間作ってくれてありがとう」
「全然いいんだけどさ……麗香さん、どういうつもりなんだろう?」
「俺も……よくわからない……」
「私とまた、タイマン張りたいのかな?」
「いやいや……勘弁して……」
レイナは、あははと高らかに笑った。
「大丈夫!今日は喧嘩腰にならないように気を付けるからさ!」
そう言って、彼女はニコっと笑った。
先日のデートでは、かなり後味の悪い別れ方をしてしまった。
だが、レイナはそれを引きずることなく、いつも通り接してくれている。
それが、心からありがたかった。
「お席、ご移動されますか?」
馴染みの店員さんが、声をかけてくれた。
「はい」
俺たちはいつも使っている半個室に通された。
「私、直の隣座っていい?」
「ああ、うん」
ソファに腰かけると、すぐにレイナが腕を絡ませてきた。
「ちょっと!」
「え~いいじゃん?まだ来ないって!」
彼女はひっついて俺から離れない。
内心嬉しくてたまらないが、いつ麗香さんが来るやらわからない状況に焦っていた。
「ほら、離れて!」
そうして、じゃれ合っていると――。
「お待たせしました」
俺もレイナも声が聞こえた先――ドアのほうを見た。
そこには麗香さんが立っていた。




