39話『心の傷』
22時過ぎ。
俺は『Lv.∞』に到着した。
キィィーーーー。
いつも通りの力加減で扉を押す。
だが、なんだか今日は、やけに重い。
ぐっと力を込めて開け、中に入った。
「いらっしゃいませ」
いつもと変わらない声色で、店員さんが俺を迎え入れる。
「あの……レイナさん、いますよね?」
俺の一言で、店員さんの表情が一気に曇った。
「レイナ様は…奥の半個室にいらっしゃいます」
「……何があったか…聞いてたりしますか?」
「いえ……今日はおひとりでご来店されて、その時すでに、だいぶ酔っていらっしゃいました」
「今って…ディーノさんか、もしくは誰か、彼女を介抱してたりしますか?」
「いいえ。どなたもいらっしゃっていないので、おひとりです」
やはり、予想通り――お酒の力を借りながら、ひとり、つらい出来事を耐え忍んでいたのだろう。
何があったのか――店員さんに聞きはしたが、想像はついていた。
「レイナさんのところ、行きますね」と一言断り、奥の部屋に向かった。
「……レイナさん?」
俺は恐る恐る、部屋の中を伺う。
「……ん…?おおこーちなお…?」
レイナさんはソファに頭を預け、脱力した状態で座っていた。
服装は以前会った時とまったく同じ。黒のタイトなニットワンピース姿。
だが――いつもはツヤツヤで綺麗に整えられているはずの髪が、ぐしゃぐしゃに乱れ、メイクもだいぶ落ちているように見える。
とくに目元のメイク崩れがひどく、マスカラかアイライナーか――どちらが原因なのかはわからないが、頬には黒い涙の跡が残っていた。
俺は無言で彼女の隣に座った。
「「……」」
長い沈黙が流れる。
どれくらいの時間が経ったかはわからないが――。
しばらくして、ふいにレイナさんが切り出した。
「……聞かないの?何があったか」
「……レイナさんが話したくなったら…聞きます」
こういう時こそ、聞き役に徹するべきだと思った。
「優しいんだね……」
レイナさんは天井に向かってそう言って、フッと笑った。
「……フラれたんだ」
やっぱりか。想像していた通りだった。
「今日、彼の家に行ったら……ベッドの近くに自分の物じゃないピアスが落ちてて…」
「……」
「彼を問い詰めて……それで……」
レイナさんは言葉に詰まった。
「……ベタな展開でしょ?笑っちゃうわ」
「笑っちゃう」という言葉とは裏腹に、表情は暗く影を落としていた。
「本当はさ、全部わかってたんだ……。でも…認めたくなくて、見て見ぬフリした」
「……」
「最初はね…本当にちっちゃな違和感で。掃除が苦手なのに、最近頑張ってるなとか。常備しているタオルの量が多くなったなとか。取るに足らない違和感……。
でも次第に、彼も私もコーヒー飲まないのにインスタントコーヒーのストックが置いてあったり、女性用っぽい化粧水が置いてあったり、変化が目につくようになって――しまいには、お風呂場に自分の黒髪とは全く別の、茶髪の長い毛が一本落ちてたりして……。
でもさ……ご家族が自宅に来ることもあるし、一本くらい、自分の頭皮から茶髪の毛が生まれることだって……あるかもでしょ?
そうやって、毎日ごまかして……我慢してた」
レイナさんは目に涙をいっぱいに溜めて、その涙が落ちないように必死でこらえていた。
「でも――今日は我慢できなかったの。私の……誕生日だったから」
彼女の目から涙が一粒、頬をつたった。
何と声をかけたら、彼女の傷を癒すことができるのだろうか――。
どれだけ考えを巡らせても、いい答えが導き出せない。
もどかしいが、圧倒的な恋愛経験不足の俺には難題すぎる。
申し訳ないが――レイナさん自身に立ち直ってもらうしかない。
彼女は芯の通った女性だ。
俺が偉そうに御託を並べずとも、きっと乗り越えられる。
俺が今できることがあるとするなら――。
それは、そばにいて、彼女をひとりにしないこと。
そして、彼女の話に耳を傾け、相手を肯定すること。
いままでディーノさんから学んだことを頭の中で振り返りながら、自分なりの答えを出した。
レイナさんはしばらくの間――無言のまま、ただただ涙を流し続けた。
俺はその隣で、彼女の気持ちが落ち着くのを待った。
しばらくして、レイナさんはふと、ソファにぐったりと預けていた身体をゆっくり起こした。
「もう涙出し尽くしたから、これ以上出ないや!」
そう言って、俺のほうを見てはにかんだ。
真っ赤に腫らした目元が痛々しかった。
「今さ、史上最強にブスでしょ~?」
レイナさんはカバンから手鏡を出して、自分の姿を確認する。
「ヤッバ!こんな顔じゃ、港区を歩けたもんじゃないわ!絶対ディーノさんに見せられない…見られたのが直くんで良かったわ~」
そう言って、意地悪そうに笑った。
「ほんっと、26年間生きてきて、史上最悪の誕生日だわ!」
「はぁ~」とため息をつきながら、今度はメイクポーチのようなものをカバンから取り出し、綿棒やら化粧水やらコットンやら…いろいろなアイテムをテーブルに並べた。
「全然……ブスじゃないですよ?」
レイナさんは忙しなく動かしていた手を止め、「え?」と驚いたようにこちらを見た。
「いつもと変わらず、素敵です」
「……慰めとかいらないよ?」
「いやいや、本心です。その人の性格や気質って、顔に表れるって言うじゃないですか?今のレイナさんの表情には――真っ直ぐな心や我慢強さ、それから、他人を思いやる気持ちとか――そういうものがたくさん詰まって見えます」
俺がそう言うと、レイナさんは再び手鏡で自分の顔を見た。
「……直くんはさ…私を美化しすぎだよ…」
彼女は消え入りそうな小さな声で、ポツリとこぼした。
そして、「どっからどう見たってブスだし!」といつもの調子で笑いながらも、広げたばかりのメイク道具を片づけ始めた。
「レイナさん、見てください!」
俺は、自分の腕時計を彼女に見せた。
時刻は23時半前。
「まだ、日付は変わってません。最悪の誕生日、ここから塗り替えましょう?」




