38話『危険な香り』
「新卒採用ページの撮影のこと…フォローしてくれてありがとね」
麗香さんは、横から俺の顔を覗き込むようにして視線を向ける。
「いえ……全然、です……」
――近い……。
里実とのデートでもそうだったが――。
横並びは距離が近くなるので、正面に座るよりも断然、ドキドキする。
それに、彼女からはボディケアショップの前を通り過ぎた時に香るような、甘くていい匂いがする。
その香りが、俺の正常な思考を鈍らせている気がした。
「嬉しかったんだ。大河内くんがあの日――私の写真をたくさん褒めてくれたこと」
麗香さんが俺との距離を詰めた。
「私のInstagramの最新の投稿って見てくれた?」
「……いえ」
今朝方、すでに見たことは伏せ、咄嗟に嘘をついた。
「これなんだけど」
麗香さんは、自身のスマホから投稿を俺に見せた。
「ピンク色の…ハートのラテアートですか」
「うん。大河内くん、コーヒー好きでしょ?毎日、出社後に必ず飲んでるし」
この言葉の意味を、俺はどう解釈すればいいのだろう。
麗香さんは、なぜ俺の出社後のルーティンを把握しているのか?
今このタイミングでこの投稿を俺に見せた理由は?
このラテアートに描かれたハートは、もしかして俺に…?
わからない。何もわからない。
「麗香さんも、コーヒーお好きなんですか?」
場つなぎ的に無難な問いを投げかけると、麗香さんは驚いた表情を浮かべた。
「……麗香さん?」
彼女は小さな声で自分の名を復唱した。
――しまった……!
ディーノさんたちの前でしか使っていなかった「麗香さん」呼びが、思わず出てしまった。
彼女の香りにあてられたのか、それとも酔いが回ったのか――。
とんだ大失態だ。
「すみません!つい、酔いが回って……」
咄嗟に彼女と距離を取ろうとのけぞると、麗香さんは俺の右腕に自身の左手を添えて、きゅっと、優しく力を込める。
「麗香さんでいいよ?」
彼女は俺の右腕を自分のほうに引き寄せた。
近距離で視線が交わる。
俺はその距離感に耐えきれず、机の上に置かれた麗香さんのスマホに視線を落とした。
「……それにしても、ラテアートっていろんな色があるんですね!俺も、珍しいラテアートやってるお店巡りしてみようかな~~!」
甘すぎる雰囲気をなんとか元に戻そうと、いつもよりテンション高めで、調子の良いムードで話をそらす。
しかし――。彼女は俺のそのムードに乗ってこなかった。
「……一緒に行く?」
俺はスマホから彼女のほうへ、視線を戻す。
彼女は茶色く澄んだ大きな瞳で、こちらをまっすぐに見つめていた。
数秒間、その大きな瞳をじっと見つめる。
そして、その瞳に視線を甘く絡めたまま「……はい」と、応じた。
その後、甘い沈黙の時間がどれくらい経ったかはわからない。
1秒にも満たなかったかもしれないし、5秒、いや10秒と長かったかもしれないが…。
うっとりとその時間に酔いしれたのもつかの間――。
ピロリロリン…
ピロリロリン…
ピロリロリン…
ピロリロリン…
俺のLINE電話の着信音が鳴った。
ハッと我に返り、着信相手を確認する。
相手は――レイナさんだった。
レイナさんとは、あの日――『Lv.∞』でふたりで飲んで以降、LINEのやりとりも一切していない。
何か緊急で、訳ありの電話な気がした。
だが、麗香さんとのこの時間に水を差したくない気持ちもあり、電話に応じるかどうか、気持ちが揺れた。
着信音が鳴りっぱなしのスマホを片手に、無言のままでいる俺を見た麗香さんは、「出てもいいよ」と言ってくれた。
俺は「すみません」と断って、席を立つ。
足早に店外へ行き、着信に応じた。
「もしもし」
「……」
「……レイナさん?」
「……」
「どうしたんですか?」
「……おおこーちなおおお?」
一言で、彼女の泥酔を察知した。
「酔ってますよね?」
「ええ???なに~~?私に魅力がないって~~?」
「…そんなこと言ってないです」
「…私だって…私なりに…努力したんだよ?それなのに……なんでなの?」
ガシャーンとグラスが割れる音が、電話越しに聞こえてきた。
と同時に、「レイナ様、大丈夫ですか!?」と、馴染みの『Lv.∞』の店員さんの声がした。
「レイナさん?」
彼女は呼びかけに応じない。
「レイナさん、大丈夫ですか?」
何度呼びかけても同じだった。
そして、しばらくして、電話は無言のまま切られた。
『寂しがり屋で抱え込みやすいタイプ』
咄嗟に、俺の脳内から彼女の基本情報が引っ張られる。
彼女はきっとひとりきりで飲んでいる。
そこまで仲の良い間柄でもない俺に電話をかけてきたということは、おそらく頼れる人がいないか、まったく電話につかまらなかったかのどちらかだろう。
俺の他に、彼女の話を聞いてあげられる人が来てくれるだろうか?
ディーノさんなら、きっとそれができる。
でも、あえて俺に電話をしてきたということは――ディーノさんが電話に出なかったか、あるいは、あえて電話をかけなかったかだ。
俺の思考は一気に冴え渡り、脳内の主人公は完全にレイナさんへとシフトした。
行かなきゃいけない気がする。
理由なんて、どうでもよかった。
時刻は21時30分。
渋谷からなら、六本木まで15分ほどで着く。
俺は、急いで荷物を取りに店内へ戻った。
テーブルに戻ると、和也と智也さんがトイレから帰ってきていた。
そして、麗香さんも元の自席に戻っている。
「すみません…ちょっと急用で…こちらで失礼しても大丈夫でしょうか?」
「おい!急用ってなんだよ~~!」
酔っぱらった和也が、突っ込んできた。
「…妹が階段から落ちて、骨折したみたいなんだ」
嘘をついた。
「それは帰ったほうがいい」
智也さんは、俺の帰宅を後押ししてくれた。
いや、早く帰ってくれ、という意味合いだったのかもしれないが。
「麗香さん、すみません。お金、置いときますね」
俺は足早にその場を後にする。
「……妹……いないよね?」
麗香さんが、俺の背中に向かって小さく呟いた声は、俺にはまったく届いていなかった。




