36話『波乱の幕開け』
――来るんじゃなかった……。
18時45分。
人事部の飲み会が行われる店が入るビル前で、俺はひとり呆然としていた。
これから行われる飲み会を想像し、憂いているのではない。
俺はぼんやりとしながら、そのビルの4階あたりを見上げた。
――なんで、ここなんだよ……。
そこは、奈々子さんとの初デートで訪れたイタリアンだった。
今もたまに夢に見る。彼女の名前を間違えてしまった、あの瞬間のことを――。
麗香さんからお店の情報が送られてきた時、見覚えのある店名だとは思った。
記憶力はいいほうだと自負しているが、あの時のことは可能な限り記憶から抹消していた。
この場所に来て、忌まわしき過去が記憶の底から引っ張りだされる。
――何の因果だよ……。
嫌な予感しかしない。
「お~い!直!」
俺を呼ぶ声がした。
「あぁ……和也。お疲れ…」
「なんだよ、お前。これから飲み会だってのに、辛気くさい顔だな」
和也は俺の背中をバシッと叩き、「ま、せっかくだから楽しもうぜ!」と言った。
麗香さんと智也さんしか知り合いがいなかったとしたら、さすがに気まずいと思い、悩みに悩んだ末、俺は和也に声をかけた。
いないよりは、いたほうがマシ、という自分なりの結論だった。
和也は今日出社していなかったが、ノリが良くてフットワークが軽いから、絶対参加すると思った。なんせ、同期飲み会で唯一の参加率100%を誇るのが、コイツだからだ。
和也は無類の酒好き。そして、酒癖の悪さも群を抜く。
過去に何度も場を壊している男だ。
正直、リスクしかないし、地雷になりかねない。
それでも、和也が不参加の場合と天秤にかけた時――俺は、和也というリスクをとる方がいいと思った。
チン――。
エレベーターが4階で止まった。
「いらっしゃいませ~」
「棚橋で19時から予約してます」
「団体様ですね。ご案内いたします」
俺は店員さんの後を追いながら、チラッと横目で、ある座席を見た。
そこには、女性2人組が座っている。
その座席こそ、奈々子さんとのデートで座った場所だった。
――はぁ…。
俺は心の中でため息をついた。
立ち直ったつもりだったが、いざ再び現場に来てみるとその時の光景がよみがえり、傷をえぐられる。
感傷に浸っていると、「なんだ~あの女の子、お前のタイプなのか?」と、後ろを歩いていた和也が茶化してきた。
いつもなら、うざったいな、面倒だなと思うが、たぶん一人だったら落ちるところまで落ちていただろう。
和也がいてくれてよかったと心底思った。
俺は「ちがうわ!和也こそ、どうなんだよ~?」と軽く言い返した。
「こちらでございます」
案内されたテーブルには、まだ誰も来ていなかった。
椅子は8席。
俺と和也、それから麗香さん、智也さん以外に4人来るということか。
「どこに座る?」
和也に問いかけた時――。
「大河内くん!」
ふいに名前を呼ばれて振り返ると、麗香さんがいた。
そして、その後ろには智也さん、人事部の部長と課長、それから他部署の部長が2人いた。
――やっぱり、入社1年目は誰も来なかったか…。
和也を呼んで正解だった。
「ごめんね。待たせちゃったかな?」
「いいえ、今ちょうど来たところです」
「よかった!メンバーはこれで全員。座席は…」
「棚橋さん」
後ろにいた人事部長が麗香さんの名を呼んだ。
「新卒2人は、年齢が近い君たちと席が近いほうがいいんじゃないかな」
部長なりの配慮なのだろう。
だが、素直に「ありがたい」と、俺は思えなかった。
部長の隣は緊張するだろうが、お酌をし、作り笑顔を浮かべて相手をよいしょしているほうが、穏便に事をやり過ごせるかもしれなかった。
それほど、麗香さん、智也さん、和也、俺の4人が起こす化学反応は未知数で、リスキーだ。
吉と出るか、凶と出るか――。
「そうですね。じゃ、部長たちは奥の4席にお座りください」
俺たちが座るのは手前の4席。この席位置もけっこう重要だ。
どうしようかと戸惑っていると、まず動いたのは智也さんだった。
「麗香、奥座って」
「うん」
智也さんはさも当然のように、麗香さんの隣を確保する。
「直~俺めっちゃトイレ近いから、お前が奥行って」
言われるまま、俺は奥の席に座った。
必然的に、麗香さんの目の前の席になってしまった。
麗香さんは俺と目が合うと、ニコっと笑った。
――今日…平和に飲み会を終えられるのか…?
こうして、波乱の飲み会がスタートした。
「大河内くんと田口くんって同期だよね?仲良いの?」
飲み物のオーダーを終えると、麗香さんが話を切り出した。
“田口”と聞いて一瞬「誰のことだ?」と思ったが、そういえば和也の苗字だったかと気づく。
「仲はまあ…普通ですかね」
そう言って和也のほうを見ると、「おいおい!寂しいこと言うなよ~仲良しだろ?」と、俺の肩を抱き寄せて引っ付いてきた。
まだ一口も飲んでいないのに、このテンション。
先が思いやられる。
「やめろよ」と肩にのった和也の手を軽く振り払い、和也と距離をとった。
「棚橋さんと千葉さんはどうなんですか?ふたりって付き合ってるんですか?」
反射的に目の前のふたりではなく、和也に視線を向けた。
――おい!!!!!!
心の中で、和也に対して大声でツッコんだ。
俺が一番知りたかったことであり、同時に一番知りたくないこと。
付き合っていなければ、何も問題はない話。
だが、問題なのは付き合っていた場合だ。
以前は、ふたりが付き合っていたとしても、智也さんから奪ってやるという気概があった。
だが、今はどうだろうか――。
付き合っているという事実を突きつけられて、それでも麗香さんを諦めないという選択をするだろうか――。
……いや、たぶん――しない。
里実と出会っていなければ、昨日のことがなければ、おそらく麗香さんに対する気持ちも揺らぐことはなかっただろう。
だが、今の自分は、異性に対する“好き”の矢印が一体誰に向いているのか、わからなくなっている。
そんな中で、麗香さんと智也さんは付き合っていて、ラブラブですと言われたら――。
俺はごくりと生唾を飲んだ。
そして、身体を正面のふたりに向けて、彼らの言葉を待った。
智也さんは、一瞬だけ間を置いた。
そして――。
「……君たちには、どう見える?」
先ほど和也が俺にしたように、麗香さんの肩をそっと自分のほうに抱き寄せ、不敵な笑みを浮かべた。
俺には、智也さんの自信に満ちた表情が、はじめて六本木に行った日に出会った――あの胸筋チラ見せ男と、重なって見えた。




