130_《左目》は賭博場にて兎を見る②
ルシアンは端末を操作し、監視映像を拡大する。
「ルーレット卓六番へ誘導しろ」
「はい」
部下が即座にホールスタッフへ指示を飛ばす。
「最初の三ゲーム、彼女たちの選択を読ませろ。露骨に当てるなよ、最終的にプラスになる程度でいい」
「了解しました」
部下が指示を飛ばす。指示を受けたルーレット卓六番のディーラーが、何事もなかったかのように背筋を伸ばした。それと同時に、近くを通るスタッフが自然な足取りでラビット商会の進路へと近づいて行く。客の流れを遮らず、かつ視線だけを誘導する位置は正しく訓練された動きだった。
よし、このまま誘導する。そうルシアンが確信した直後、監視映像の中のハイデマリーはルーレットを素通りした。
「……」
「……」
コントロールルームの空気が僅かに固くなる。
ハイデマリーはルーレットを一瞥しただけで、興味を失ったように通り過ぎて行った。そのまま隣のバカラ卓を覗き込み、いかにも分かっているとでも言いたげに満足げに頷いた。
『カジノと言えばバカラやろ』
ルシアンは目を細めた。
「バカラ卓三番に変更」
「はい」
「ルーレット卓六番への指示は?」
「停止しろ。いや、通常営業に戻せ。動揺を見せるな」
「承知しました」
命令が再び走る。ルーレット卓のディーラーは一切表情を変えなかった。笑顔を浮かべたまま客からチップを受け取り、玉を投げ入れ、何事も無かったかのようにゲームを続けている。
その一方で、バカラ卓三番のディーラーが姿勢を整えた。白手袋を嵌めた指がカードシューの位置をほんの数ミリ調整すると、隣のピットボスが視線を一瞬だけ監視カメラを捉えた。
卓には10名が腰を下ろし、置かれるチップの桁だけで空気が重くなるようなゲームが進められていた。リタが眉をひそめるのもお構いなしに、ハイデマリーはそのまま堂々と席に座った。
『やぁお嬢さん。初めまして、ここは初めてかい?』
『せやね。ウチ旅行者やねん、お手柔らかに頼むわ』
『ほっほ、こちらこそお手柔らかに頼むよ、お嬢さん』
隣の老人と孫のように話をするハイデマリー。その斜め後ろに、自然と張り付くようにリタが位置どった。
『マリー、ルール分かる?』
『大丈夫やで。簡単やし、何度かやったことさかい』
『そっか。じゃあ負けても熱くならないように見張っておくね』
『んっふっふ。りーさんや、ウチを舐めたらアカンで? これでも豪運のマリーちゃんって通り名があるさかい、ぱぱっと勝つ姿を見せたるわ』
『凄く不安』
『むっ、ホンマやのに。まあええ、勝ったモンが正義や』
ハイデマリーは胸を張り、最初のチップを置いた。最初だからか、それほど多くないチップがテーブルの上を滑り、赤い布地の上で止まる。
ルシアンは額に指を当てて、部下に命令を出させた。
「……彼女には少し勝たせろ」
「よろしいのですか? ハイローラーですが」
「少しだけだ。目の良い奴が見ている、イカサマは程々にな」
「承知しました」
ディーラーの指先が、絹の上を滑るようにカードを送る。
卓に座っている客がカードを捲ると、ハイデマリーの負けが決まった。
『なんでや!』
声が大きい。すぐ隣の老人が、肩を揺らして笑いを堪えている。
『ほな次は……』
二戦目。今度のハイデマリーは、先ほどよりもさらに堂々としていた。敗北から学んだわけではない。自分が勝つまで負けではない、そんな顔だった。
また負けた。
『ウチに恨みでもあるんか? まあええ、次はデカく賭けるで。ウチがスクイーズやる!』
三戦目。全員のチップが置かれると、ディーラーがカードを配る。
ハイデマリーがカードを開く。
勝ちだ。これまでの負けを取り戻す大きな勝ちにハイデマリーが椅子の上で跳ねる。
『ほら見ぃ! やっぱりウチには勝利の女神がついとるんや!』
振り返るハイデマリー。その眼に金という文字を見たリタが小さく息を吐く。
『たまたま、たまたま』
『たまたまも三回続けば実力や』
『一回しか勝ってない』
『細かいこと言う女はモテへんで』
『ムカ。別にいいし』
「よし、いい具合だな」
少し負けさせ、少し勝たせる。ここまではルシアンの想定内だった。
客に“流れが来た”と思わせる程度の調整は、カジノでは日常的に行われる呼吸のような操作だ。頭では運だと理解していても、客は自分の判断で勝ったと思い込む。
カジノ側はそれを否定しない。その勘違いが最もクレジットを落とすことを知っているから。
しかし、ルシアンの誤算は第4戦目からだった。
『次はこっちやな』
ハイデマリーはディーラーの手元など見ていない。イカサマが行われていることなど想像もしていない。カードの流れも読んでいないし、聡明な頭脳での確率も計算していない。ただ楽しむだけに、膨れ上がったチップをそのまま掛け金として滑らせた。
「……待て、あいつは何を根拠に賭けた?」
「不明です」
「読み筋は?」
「ありません」
「ない?」
「はい。瞳孔の開き具合、体温、全てが常人よりパラメータが高いです。つまり勢いです」
再び配られたカードをハイデマリーが開く。おっかなびっくりではない。豪快に卓へと叩きつけるようにカードを開いた。
『よっしゃ!』
周囲の客が少しだけ振り向いた。カジノでは勝者の声は珍しくないが、ハイデマリーの声には妙な抜けの良さがあった。気にならない程度に派手で図太く、遠慮がない。聞いた者の耳に引っかかる絶妙な何かに触発された客が笑い、隣の卓の男がちらりと覗き見る。
まだそれは小さな波だった。だが、その波は次第に大きくなっていく。
五戦目。
『こっちや』
「ディーラー三番、勝敗調整を」
「間に合いません。プレイヤーのベットが早すぎます」
「早すぎる?」
「はい。ハイデマリーの判断に従う者が多く」
「自分で判断していないのか」
「していないように見えます」
ハイデマリーがカードを開くと、にんまりと笑顔を浮かべた。また勝ち。
『ほら来た! 来たで! ウチの時代や!』
近くの客が今度ははっきりと笑った。その笑い声の中で誰かが拍手している。ハイデマリーはそれに応えるように片手を上げる。
『見ときや! ここからが本番や!』
『もう辞めよう。十分勝った』
『何言うてんねん、こっからやで!』
リタが止めに入るが、ハイデマリーは聞いていない。
六戦目、勝ち。
七戦目、勝ち。
八戦目にして、漸く一度負けた。
『言っとくけど、今のはサービスやで』
『誰への?』
『カジノへの。勝ち過ぎたら可哀そうやろ?』
周囲を呷るように言うハイデマリー。周りにいる人間がそれを囃し立てる。
九戦目。ハイデマリーが持っていたチップを3倍へと増やしたところで、バカラ三番卓周囲の空気が変わり始めた。
それまで横目で見ていただけの客が足を止めた。スロットで負けていた男がグラス片手に近づき、別の高額テーブルにいた女は護衛を従えて斜め後ろに立つ。若い観光客が録画のために端末を持ち上げかけたが、即座に警備員の静止を受けて降ろした。
「統括」
「分かっている」
ルシアンの声が少し低くなる。彼は人数だけを見ていたわけではない。
誰が立ち止まり、誰が賭けに参加し、誰が笑い、誰が便乗しようとしているか。どの警備員の目が奪われ、どの卓のディーラーが集中を欠き、どの導線が詰まり始めているか。その全てを処理するために義眼が鈍い光を放つ。
カジノフロアは、客の流れを管理することで成立している。熱が一点に集まりすぎれば、客はゲームではなく“祭り”に金を払うようになる。
「バカラ卓三番周辺、現在38名。周囲の客が合流しています。フロア音量上昇、近隣卓の稼働率が低下しています」
「低下だと?」
「はい。近くのブラックジャック卓とルーレット卓の客が、ハイデマリーの卓を見に移動しています」
勝者が生まれた時、カジノはその勝者を利用する。だが勝者が派手すぎると、カジノの方が利用される。今のハイデマリーがそれだった。
『お嬢さん、次はどちらかな?』
ギャラリーの一人が声をかけた。ハイデマリーは振り返り、にやりと笑う。
『ウチはお嬢さんやなくて、マリー様や』
『失礼、マリー様。次はどちらかな?』
『バンカーや! 理由は知らん!』
笑いが起きる。卓にいる客の何人かが、彼女に乗ってチップを置いた。
その様子にリタが顔をしかめた。
『あー……マリー、あまり煽るのは……』
『煽ってへん、導いてるんや』
『それ一番危ない言い方だから』
瞼を手で覆うリタを尻目に、ハイデマリーが配られたカードを開く。
勝ち。座席の上で万歳をするハイデマリーに、バカラ卓三番の周囲が沸いた。
『マリー様!』
『もう一回!』
『次はどっちです!?』
『うひひひひひ!! 知らんなぁ! でもぉ、ウチが勝ぁつ!!』
その無責任さに、また笑いが広がった。
ルシアンは監視映像を見ながら、ゆっくりと目を細める。
「ディーラー三番に指示。いったん流れを切れ」
「はい」
ディーラーがカードを配る。
ハイデマリーは腕を組み、目を細めた。
「……気付かれたか? おい、指示は?」
「ハイデマリーを負けさせる方向で出しています」
カードが開く。
ハイデマリーの勝ち。
「……」
「……」
「今、負けさせる方向と言ったな」
「はい」
「なぜ勝った」
「……こちらに言われましても」
ルシアンはこめかみを押さえた。
映像の中で、ハイデマリーは完全に乗っていた。
『見たか! これがウチの嗅覚や!』
『マリー確率、確率でやろう。嗅覚は危ないから』
『りーさん……カジノはな、計算やない。魂や』
『それは計算できない人の台詞……』
『勝ってる人の台詞や。今のウチ、だいぶキマッとるやろ?』
次のゲームもまた勝った。チップが積まれるたびに、彼女の周囲の熱は高まっていく。
このカジノの主役は、ついさっきまでベラシオンそのものだった。だが今は違う。
ハイデマリーがチップを賭ける。ディーラーが震える指でカードを配る。
周囲の客には、ベラシオンそのものがハイデマリーのために回っているように見え始めていた。
『マリー様!』
『次も頼むぞ!』
『俺も乗る!』
『ウチに乗るなら覚悟決めや! 落ちても知らんで!?』
『最高だ!』
鳴りやまない拍手がカジノの空気を塗り替えていく。静かに金を溶かす場所から、ハイデマリーという勝者を中心にした舞台へ変わっていく。
積まれていくチップに、観戦している客の表情が紅潮する。その中で、スタッフたちの笑顔だけが少しずつ引き攣っていった。
「統括。バカラ卓三番周辺、70名を超えました」
「警備を増やせ。ただし近づけすぎるな、圧を出すな」
「近隣卓の客がさらに移動しています」
「空いた卓にはサクラを入れろ。フロア全体の偏りを戻せ」
「ハイデマリーに便乗する客の勝ちが増えています」
「配当を抑えさせろ」
「限界です。客側のベット額が上がっています」
「ダメだ、これ以上は上げさせるな」
「ハイデマリーが煽っています、止まりません!」
映像の中で、ハイデマリーがチップを掲げていた。
『ええか! 勝負ってのは負けても死なん額で、勝ったら気持ちええ額を張るんや!』
『急にまともなこと言うね』
リタが驚いた顔をする。
『せやろ?』
『見直しかけた』
『せやから、ウチは気持ちええ額を張る! ドンと行こうや!』
『台無し』
ハイデマリーが追加のチップを置いた同じ場所に、便乗して数人が賭ける。
困ったのはディーラーだった。ここまで大負け、これだけの失態を見せて尚もチップという火力を増していくハイデマリーに、彼の精神はもうズタボロだった。
「ディーラーを交代させろ」
「今ですか?」
「あのディーラーはもう駄目だ。空気に飲まれている」
「分かりました」
ディーラー交代の合図が出る。周りが逃げるのかと囃し立てるが、ハイデマリーが落ち着けと周囲を抑える。
『兄ちゃん、お疲れさん。ウチ相手に耐えたほうやで』
ギャラリーが笑った。交代するディーラーは表情を崩さなかったが、肩だけがわずかに落ちた。
『次の人、勝たせてな』
新しいディーラーが席につく。その顔には笑顔があるが、取って付けたような笑顔ということは周囲にもバレていた。
『勝負の結果は、常に公平でございます』
『せやな。公平に、ウチが勝つんや』
また笑いが起きる。そこで初めて、ルシアンは深く息を吐いた。
「彼女はカジノに向いているな」
「勝負勘があるという意味ですか」
「違う、群衆の温度を一点に集める才能がある」
「はあ……? 統括、エレンとアレンが合流します」
別の監視映像で、スロット区画にいたエレンとアレンが小当たり分を持って、バカラ卓へ移動を始めていた。
「合流を止めますか?」
「止めなくていい。今のあいつ等に出来ることは無い」
「はい」
「それよりも、他の連中はどこだ」
オキタとエリーは少し離れた位置にいた。
エリーがゲームに目移りしているようで、オキタはそれに付き合ってカジノ内を闊歩している。ただハイデマリーの騒ぎが膨らんだことを気にしているのか、視線だけは時折向けている。
「アンドーの位置を確認しろ」
映像が切り替わる。
アンドーはバカラ卓へ向かっていなかった。むしろ人の流れとは逆へ動いている。
騒ぎに客が集まり、警備の目が三番卓へ寄る。そのせいで薄くなったフロア外周を、アンドーは何もしていない顔で歩いていた。
手には飲み物。視線は適度に泳ぎ、観光客らしく周囲を見ている。
だが、歩いている場所が悪い。
カジノフロアの死角に警備員の交代地点、スタッフ用通路の出入口。そこは監視カメラの重なりが薄い場所だ。アンドーは、それらを偶然の散歩のように辿っていた。
「……これが狙いか、ハイデマリー」
そう呟いた直後、ルシアンは自分の中に生まれた仮説を少しだけ疑った。
監視映像の中のハイデマリーは、どう見ても何も考えていない顔で笑っている。
だが、それでも結果だけは噛み合っていた。
ハイデマリーは台風の目になった。オキタとリタは、その台風の表面で人を遠ざけた。エレンとアレン、エリーは自然体な観光客でいる。そしてただの整備員でしかないアンドーが、その騒ぎで出来た隙を突く。
誰が指示したわけでもない。なのに、役割だけが勝手に噛み合っている。
ルシアンはそこに、薄い不快感と興味を覚えた。
「面倒な群れだ」
映像の中で、ハイデマリーがまた勝った。ついにチップの山が目に見えて増えたことで、ギャラリーの熱が最高潮にまで跳ね上がる。
『マリー様!』
『次も! 次も!』
『俺も乗る!』
フロアの一角がショー会場のようになっていた。
「統括」
「今度は何だ」
「バカラ卓三番の盛り上がりが、上階ラウンジにも伝播しています。追加の客が上から……」
「止めろ」
「いえ、もう手遅れのようです……」
ルシアンは義眼で部下を睨みつけるが、部下は視線を逸らした。
映像の中でハイデマリーは立ち上がった。その動きにギャラリーが一瞬静まる。
ハイデマリーは積み上がったチップを見下ろし、満足げに鼻を鳴らした。
『うひひっ』
ニチャァと、おおよそ淑女には相応しくない笑みにリタが警戒する。
『なあ、りーさん』
『何?』
『ウチ、分かってもうた』
『嫌な予感しかしない』
『カジノはな、勝ってる時にやめたら勝ちなんや』
コイツ何を言っているんだ。リタが一瞬、真顔になった。
『え、急に賢い』
『せやろ?』
『じゃあ止めよう。もうチップが山になってる』
『うんうん、せやね。せやから、次で最後や』
『今すぐのつもりで言ったんだけど?』
『最後に大きく勝って、伝説になるんや』
『ダメだ、賢さが一秒も持たなかった』
『ウチはこのチップを全部! 次の勝負に賭けるでぇ!!』
その宣言に集まったギャラリーが沸いた。
「統括、勝負を受けても良いのかと確認が来ています」
『さあ最後だ!』
『マリー様のラストベットだ!』
『俺は乗るぞ! 全部だ!』
『ほっほっほ、では私も全てお嬢さんに任せるとしよう』
止めさせろ。ルシアンはそう命令しようとしたが、その一言を伝えるか迷った。
既にハイデマリー含め、三番卓ではカジノ側が大負けしているこの状況。この流れを打ち切るのは容易いが、それは客にベラシオンが土壇場で保身に走るカジノだと思わせることになる。
短期的にはそれでもいいが、長期的に見てそれがアナトミアの格、この場の責任者である《左目》統括のプライドにはっきりと傷を残す行為である。
ルシアンはそれを許さない。
「勝負させろ。イカサマも無し、真っ向勝負だ」
「よろしいのですか?」
「構わん!」
ルシアンの声が、少し大きくなった。
映像の中では、ハイデマリーがチップの全額を前へ押し出していた。チップの山は小柄なハイデマリーの顔を完全に隠してなお、そびえ立っている。それを全てプレイヤーの位置へと置いた。
『ウチはプレイヤーやからな。当然、この全額はプレイヤーに賭ける』
卓に着いている全員がプレイヤー側に全額をベットした。
部下の一人が息をのんだ。カジノで働いて数年、ここまでの額が一ヵ所に置かれる瞬間など見たことが無かった。
「さあ、勝負だ……!」
力のこもったルシアンの言葉と共に、2枚のカードがプレイヤー、バンカーへと置かれる。見守っていた観客たちが、無意識に身を乗り出した。
一枚。
もう一枚。
プレイヤーに置かれたカード。白い背面に金模様が入ったカードが2枚、ハイデマリーの前に伏せられた。バンカー側にも二枚。誰も賭けていない相手側のカードが、ディーラーの手元に伏せられる。足りなければもう一枚。たったそれだけのゲームに、チップの山と客の熱が乗っている。
『スクイーズでよろしいですか?』
『もちろんや』
ハイデマリーはカードを一気に開かず、端から少しずつ絵柄を覗く。勝敗を知るだけなら一秒で済む。だが、大金を張った者ほどその一秒を惜しみなく引き延ばしたがる。
ギャラリーを焦らすために、ハイデマリーは一枚目のカードに指を置いた。親指と人差し指で端を押さえ、ほんの少しだけ折る。
紙が小さく鳴った。
周囲の客が、さらに身を乗り出す。
『おい! 見えないぞ!』
『まあまあ、運命は焦らした方がええ顔するんや』
『もう配られてるから何も変わらないけど』
リタの声は冷静だったが、目はカードから離れていなかった。
ハイデマリーはカードの短辺をゆっくりと持ち上げる。
白い面、絵柄はない。数字の角が見えかけた所でハイデマリーが止めると、ギャラリーから小さな悲鳴が上がった。
『早く開けろよ!』
『開けるな、ゆっくりだ!』
『マリー様、焦らしてくれ!』
さらに少し捲ると数字が見えた。
3。
周囲から、落胆とも期待ともつかない息が漏れる。
『ウチの一枚目は、3や!』
『まだだ! もう一枚ある!』
『マリー様ならいける!』
ハイデマリーは二枚目へ手を伸ばした。
今度は長辺からだ。白い背面が照明を受けて鈍く光る。指先がゆっくりと力を加え、カードの端が起き上がる。観客たちの視線が、その数ミリに吸い寄せられた。
この瞬間だけは、誰もが他人の金で心臓を動かしていた。
『絵柄は?』
『まだ見えない』
『端、端見ろ!』
二枚目の端に、丸い線が覗いた。
数字ではない。
誰かが小さく叫ぶ。
『絵札だ!』
『いや、10か!?』
『どっちだ!?』
ハイデマリーはそこで止めた。
止めたまま目だけで周囲を見る。その顔は、完全に舞台の中央に立つ者の顔だった。
『皆の者』
『何だ!?』
『祈れ』
『祈る!?』
『何に!?』
『ウチにや!』
笑いが弾ける。だが次の瞬間、また消える。
ハイデマリーがカードをさらに曲げた。
10。ギャラリーの熱が跳ねた。
『10だ!』
『3と10!』
『まだ分からんぞ!』
『いや、いける! マリー様ならいける!』
ハイデマリーは二枚のカードを見下ろした。
手札はあまりにも弱い。だが、これで終わったわけではないことは誰もが知っている。
ディーラーが相手側のカードを開く。その瞬間、卓の周囲からは低い呻きが漏れた。
ハイデマリーの手は3に10。合計13の下一桁で、3。
相手は1と10。合計11の下一桁で、1。
数字だけ見れば、まだハイデマリーが上だった。
だが、バカラはここで終わらない。次の一枚で勝ち筋は簡単に腐る。その次の一枚で、腐った勝ち筋がまた息を吹き返すこともある。
ディーラーの指が三枚目へ伸びる。
高額チップを前にした男の拳は、力を込めすぎて白くなっていた。
宝石まみれの女の唇がわずかに開いている。そこからは浅い呼吸が漏れていた。
老紳士の葉巻は灰を伸ばしたまま、誰にも落とされない。
三枚目のカードが、ハイデマリーの前へ置かれる。
目の前に伏せられた一枚、これで全てが決まる。
さっきまで騒いでいたハイデマリーが急に黙った。その沈黙が周囲を縛る。
ハイローラーのスクイーズは金額だけで成立するわけではない。カードめくる者に、場を支配するだけの厚かましさがいる。
焦らすだけ焦らし、客の心臓を握り、最後に自分の指で運命を引きずり出す。
ハイデマリーには、勝負師だけが持っているクソ度胸があった。
『……いくで』
誰も返事をしなかった。ハイデマリーは三枚目に指を置き、角を捲る。
白と模様? まだ分からない。少しずつ、少しずつ、カードが曲がっていく。
『低い?』
『いや』
『丸いぞ』
『8か?』
『9じゃないのか?』
ざわめきが走るなか、さらに曲げる。
数字の輪郭が見えた瞬間、ざわめきが悲鳴へ変わった。
『9だ』
誰かが言った。
『9だろ、あれ!』
『9だ!』
『開けろ!』
『いや、待て!』
『開けろ!』
ハイデマリーはそこで止めた。震える手を隠しながら、にやりと笑って振り返る。
『りーさん』
『何?』
『今のウチ、めっちゃ主役やない?』
『そうだね。じゃあ開こうか』
『え、冷たくない?』
『心臓に悪い』
『……うひっ、それがスクイーズっちゅーもんや』
ハイデマリーは笑った。いつも無表情なリタも、この瞬間ばかりは笑みを浮かべていた。
そして、ハイデマリーは一気にカードを開いた。
そこに書かれていた数字は9。一瞬、誰も声を出さなかった。
ディーラーが結果を確認する。3,10,9の合計22、下一桁は2。ハイデマリーの手は2。勝負に勝つには相手が下一桁で1、つまり10を引くしかない。
その確率はあまりにも低い……だが、勝負はまだ終わっていない。
ディーラーの指が、相手側の三枚目へ伸びる。
全員が固唾を呑んで見守る中、ディーラーが相手側のカードを開く。
そこに書かれている数字は10。
相手は1。
たった一点。たった一点だけ、ハイデマリーが上だった。
一拍、誰も動かなかった。
そして―――
『勝ったああああああああああああああああああっ!!!!』
ハイデマリーの雄叫びがベラシオンのカジノフロアを突き抜けた瞬間、歓声が天井のシャンデリアを殴りつけるように跳ね上がった。
「これが狙いか、ハイデマリー」
→そんな訳ないだろ




