死ねない神子の決断
しかし諦めの悪い人たちだと、石の天井を見上げながら、シンはぼうっとした頭で考える。
「シン様、せめて、お食事を召し上がってください」
戸の向こうでは、半泣きの竈番の声がする。今日だけでもう何十回目かの懇願だ。
「ウディヤが御病気にでもなられては、私どもが罰を与えられてしまいますから……」
啜り上げながら訴える女の声に、シンはつい失笑を漏らした。
(わかってる、誰も、俺自身を心配してくれてるわけじゃない)
シンが自分の舎に閉じ籠もってから十日が経った。
その間シンは水だけは辛うじて口にするが、竈番の作った料理を一切口にせず、こうして寝床でただ転がっている。
当然、ウディヤとしての仕事は一切行わなかった。日々の形式的な祈祷も、必要な時の儀式も拒み、クレオの命令だと言われても頑として外に出なかった。
表向きは病で臥せっていることになっているのに、『ウディヤ』を神殿の人間が呼びに来る以外は、誰も見舞いに来ない。来るはずもない。
ウディヤとしての立場も力も、それについて思いを馳せるだけで嫌悪感に苛まれるのに、シンは時々その力を使った。この西側の地区、身分のある者が大勢住む場所の中に、ひとつだけ人の気配を探る。
頑なに閉じてしまった思考はもうどうやっても読み取ることはできないが、ただ、生きてそこにいるのはわかる。
(……だったら、それでいいんだ……)
ファラーシャもクレオの世話を投げ出してしまったということは、神殿の使いのぼやきで聞いた。ファラーシャにとっても、クレオの側妾でいるということが耐えがたいほど辛いだろうと思ったが、その苦痛は彼女の心からは読み取れない。
きっと彼女は、意味のない微笑みを浮かべることもやめてしまっただろう。
「……」
ぎゅっと目を瞑り、シンは寝藁の上で寝返りを打った。
ファラーシャのことを考えると、自分が彼女にしたこと――できなかったことを思い返し、叫び出したいような気持ちになる。
自分が生きていることに罪悪感を覚えるのは初めてだ。
(腹なんて減らなけりゃいいのに――)
寝転んでばかりいるのは、気力がないせいというよりも、腹が減り過ぎて体に力が入らないせいだ。
十日間食べない間に、もともと細かった四肢は、みじめなくらいガリガリに痩せてしまった。我ながら醜い。
(なのに死なない)
空腹で死ねたらいいけれど、死ねないのはわかっている。
ウディヤを殺す方法はない。クレオのように老いが勝って病を得られるようになるまで、あと数十年はかかるだろう。
小さく溜息をついた時、ぶうんと、耳許で羽虫の飛ぶ音がした。
眉を顰めて耳を塞ぎ、また寝返りを打つ。
暑い部屋の中に置いた水瓶に、妙な虫でも湧いたのか。部屋に籠もるようになってから、殺しても殺しても虫の音が止まない。
苛立たしい気分で頭を振り、もう一度寝返りを打つ。
どんなに耳を塞いでも、シンの頭からは虫の羽音と、血まみれのラウフを抱えたファラーシャの泣き声が離れないままだった。
◇◇◇
アクリオスを出ようと思いついたのは、悪夢から逃れるように微睡みが醒めた瞬間だった。
空腹と疲労は限界を迎えているのに、眠りに逃げ切ることもできず、ただ寝床に横たわったままさらに三日経った日の払暁。
(そうだ、何で、思いつかなかったんだろう)
もっと昔、考えたことはあった。この城塞を、島を出て、地図で見た他の大陸に移り住むことはできないかと。
その時は、群島で手に入る船では周辺の潮流を乗り越えて島を離れることができないと、諦めてしまったが。
(今は異国の船がある)
あの大きな帆船と航海術のおかげで、異国の者たちはこの島まで辿り着くことができた。
ヴルカーノの商船は数日前に去っていったようだが、港にはまた別の国の船が来ていると神官から報告を受けている。通訳を頼まれて断った。
(交渉して、船に乗せてもらえれば――)
そうすれば、この土地を離れることができる。
大陸で使われているような通貨はないが、宝玉や細工物ならいくらでも持っている。『蛮族の装飾品』を、異国の者たちは好んで手に入れようとしているのだ。それと引き替えに、大陸まで、積み荷と一緒でいいから連れていってくれないかと頼み込めばいい。
どうせこの土地にはもう何の未練もない。ここにいなければいけないという誓約もない。誓約を持っているのは神々だけで、ウディヤはそのとばっちりを受けているだけなのだ。
(そうするべきだ)
自分のものとは思えなかったほど萎えきっていた体が、不意に力を取り戻した。床を腕で押して起き上がるとぐらぐら眩暈がして、しばらく呻かなくてはならなかったが、気力で立て直す。這うようにして湯屋に向かい、湯を沸かすのも面倒で禊ぎの時のように冷たい水で体を清め、久しぶりに清潔な衣服に着替えた。
自分がこの土地を出て暮らしていけるかはわからない。アクリオスしか見たことはないし、自分がある意味守られていたことは承知の上だ。
呪術以外に何も持たない自分には無理かもしれない。
でももうここに一瞬でもいたくない。
(死にはしないんだ)
あるいは、アクソスの加護のない土地では、ウディヤとしての能力は何の役にも立たないかも知れない。
それは望むところだ。シン・ウディヤではなく、ただのシン・ヨス・シディラスとして生きて死ねるのなら。
無駄だと思いながらも朝餉のために現れた竈番は、水浴びでさっぱりした姿になったシンが食事を部屋に運ぶよう命じると、喜んで支度を始めた。
とにかく力をつけたくて、シンは空っぽだった胃に無理矢理食べ物を流し込んだ。餓えたウディヤに栄養を与えるため竈番が支度した血の滴る獣の生肉を食べた時は、その血の色と臭いに酷い胃痛と嘔吐感が起こった。だがそんなものは掌のひと撫でで治まる。今はウディヤの力を使うことも厭わなかった。
食事を終えると、急に力を取り戻した気がした。少し休んで昼と茶の時間にもしっかり食事をとり、合間に持ち出す荷物を選ぶ。必要なものはそうない。大荷物を持って港へ行けば、出奔の計画があからさまになってしまう。
(引き替えにできそうな石と、できるだけ綺麗な服と……)
できれば船に乗っているうちに、彼らの身につけるものと自分のものを交換しておいた方がいいだろう。訪れる異国の者の出で立ちを見る限り、彼らにとってアクリオスの服は風変わりだから、おかしな目で見られるだろう。漆黒の髪も瞳も、外から来る者たちとは明らかに違うから、必要なら染め粉で髪を染めなくてはいけないかもしれない。
あれこれと考えるうち、シンは何だか気持ちが浮き立つ感じがした。
新しい土地では、自分の力について知る者などいない。自分を見てひれ伏したり、怯えて目を逸らす者もいない。船で食事の代わりに与えてもらえる仕事はあるだろうか。もしアクソスの加護が届かない場所があるのなら、自分はまったく役立たずだろうが、それで野垂れ死んだって望むところだ。
今ここで、生きながらにして死んでいるような気分を味わい続けるよりは、百倍ましだ。
(とにかく、アクリオスを出られれば)
それですべてが変わる。喪うものについて考える必要はなかった。どうせ最初から、シンは自分が望むものなんて何ひとつ手に入れたことはないのだから。
◇◇◇
舎を訪れる神官の思考から異国の船が島を離れる予定の日を読み取り、それまでの数日間で、シンはすべての支度をすませた。
竈番には『今まで心配をかけた詫びにしばらく暇を与えるので、その間食べられるような保存食を用意しておくように』と命じて大量の干した肉や穀物や野菜を作らせ、掃除婦と共に舎から追い出してある。
異国の船が島を出る予定だという前の日、陽が翳りだした頃、シンは自分がどの程度回復したのかたしかめるためにも、舎を出て、徒歩で城塞の外へ向かった。
行き合う人々は、口々にシンの病気が治ったことを言祝ぎ、祈りを捧げてくれている。
その様子に、少しだけ胸が痛んだ。
ウディヤを畏れながらも、畏れる分、アクリオスの人たちはその力と存在に縋っている。
(クレオ様は、もうあまり長くない)
あと五年も保つかどうか。もしシンが土地から去り、新しいウディヤを神々が誰かの腹に宿したとして、その子供が勤めを果たせるほど大きくなるまでには時間がかかりすぎる。
いや、もしかすると、クレオが生きている間は新しいウディヤが生まれないかもしれない。今まではそうだった。だとすれば、アクリオスが喪うのはウディヤではなく王だ。王としての力、ウディヤよりさらに強いそれを得るには、儀式と神の意志が必要とされる。儀式は大掛かりで、生まれたての子供に果たすことは絶対に無理だ。
だとすれば――
(駄目だ、考えるな。考えたって無駄だろ、俺はもう、アクリオスを捨てるって決めたんだから)
自分がアクリオスを去った時に一体何が起きるのか、シンは意図的に考えないようにした。考えれば答えを得てしまう。知りたくないのに、神がその知識を与えてしまう。
無心でいるよう努力しながら、シンは城塞近くの森をゆっくりとひと巡りして、自分の体力が完全に戻ったことを確認した。本当に、ウディヤの力には呆れるほどだ。十日以上食わず眠らずできたのに、殺した生き物の肉を食べ、数日間きちんと眠るようになり、自然の力が溢れた森を歩くだけで、普通の者ではあり得ない勢いで弱った体が癒されていく。
完全に日が落ちた頃、舎に戻り、また食事を取った。
何度も考え抜いて用意した荷物を、保存食と一緒に袋に押し込め、夜更けを待つ。間のいいことに今晩は新月だった。魔が寄るとされる新月の夜に出歩く者はそうそういない。シンは闇に乗じて舎を出ると、港へ向かう前に、自分の舎から少し離れた別の舎に歩いていく。
死者を出した家が必ずそうするように、魂が悪霊となって還らないよう焚く煙の香りが、進む先から近づいてくる。
軒先からやはり魔の嫌う棘付きの実と、触れると音の鳴る木片がいくつも吊された舎の前に辿り着くと、シンは手にしていたものをそっと戸口の前に置いた。
夕方、許された者しか入ることのできない、神獣の住まう森で摘んできた花。小さな黄色い花弁を持つ、甘い香りの――彼女の好きだった花を一輪。
(……祈らないよ。俺に祈られたって、嬉しくないだろうし)
彼女に向けてか、今はもういない彼女の息子に対してか心で呼びかけて、シンはすぐにその場を離れた。自分の舎に戻ると荷物を背に担ぎ、大城門ではなく、荷運びする者たちの使う脇の小門に向かう。こちらの方が見張りが少ない。不寝番の気を逸らせるよう術を使い、難なく城塞の外へ出ることができた。
騾馬を使うか迷ったが、城塞を出るまでに石畳に蹄の音が響くことを警戒して、歩きにした。徒歩だと港までは随分時間がかかるが、夜のうちには辿り着くだろう。竈番がやってきて、シンの不在に気づくまでに、船の持ち主と会って、アクリオスの人々には黙って乗せてもらうよう交渉できればいい。聞き入れてもらえないのなら、多少脅して言うことを聞かせることも考えている。
(どんな手段を使ったって構わない、ウディヤの力だっていくらでも利用してやる。とにかく、船に乗ることさえできれば)
朝になれば、船は大陸に向かって出航する。
荷物の重みも気にならなかった。シンは明かりのない夜の中を小走りに進み、港を目指す。
――だがその歩みは、城塞を離れて大した時間も経たないうちに、止まった。
進む道の先から、人の気配がしたのだ。
それもひとりやふたりではなかった。十人以上、二十人近くの、神職者たちの気配が。
港に進む道はひとつしかない。辺りには身を隠す森もない。
立ち尽くすシンの目の前で、炬の火が灯されていく。今までは、人がいることを隠すように消してあった火が。
「シン様――」
炬を手に近づいてくるのは、やはり法衣を身に纏った神殿の者たちだった。
この人数に自分が気づかなかったことに、シンは愕然とした。閉じていたからだ、と気づく。神々の声を聞いて惑うことのないように気を張っていたせいで、普通の人間でもわかりそうな人の気配に、気づくことができなかった。
そもそも、神官たちがここにいる理由が、シンにはわからない。
なぜ、と思うと同時に、耳許を覚えのある虫の羽音が掠る。
シンは瞬間、理解した。彼らが自分の行く手を阻むことを、誰が指示したのか。
自分やファラーシャと同じように、病のために自分の部屋に閉じ籠もり、身動きが取れないと聞いていた、あの男。
(いつだ)
船に乗ることを思いついて以降、王の宮にいるクレオと顔を合わせたことはない。だったら、自分の心を相手に読まれるはずがない。
それでも気づかれていたのは。
(いつ入れられた)
血まみれのラウフを抱いたファラーシャとクレオの部屋の前で会ってから、不快な虫の音がシンの周囲で消えなくなった。
だとしたら、あの時なのか。
虫に見張られていたのだ。きっと、ずっと。
クレオの仕組んだまじないに、頭の中を読まれた。
(あいつ……あの男、絶対、許さない……)
神官たちをみつけた時に引きかけた全身の血の気が、今は怒りと憎悪で沸き立ち苦痛を感じるほどだった。
(殺してやる……殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる!!)
自分のこの憎しみを読めばいいと、シンは歯を食い縛りながら全身全霊でクレオを呪った。
――ファラーシャの悲しみを救いもせず、虫などを使って自分の望みを阻もうとするクレオを、ラウフの代わりに血祭りにしてやりたかった。
「……シン、様」
怯えた声で、神官のうちの誰かが、おそるおそる呼びかけてくる。
シンの中から溢れ出した感情は、闇よりも暗い渦になり外側に溢れ出るように、その足許を翳らせていた。自分たちの方へ蛇のように這い寄るその影を見て、神官たちが悲鳴を上げ、口々に禍避けの言葉を繰り返す。
「シ、シン様、王よりの命を得て、お迎えにあがりました。どうか、クレオ様の許へお戻りください」
泣き声で懇願するように、神官が言う。
法衣ではなく、神殿兵の装束を纏った者も混じっていたが、誰も武装はしていない。『神』に武器を向けるなど許されないからだ。
「なぜ我々を見捨てるのですか、シン様――シン・ウディヤ!」
誰かが、叫ぶ。
その悲鳴じみた声の必死さに、シンははっとなった。
そして知りたくもない答えを、神々に与えられてしまう。
(俺がこの地から離れれば、アクリオスは救い道のない禍を被る)
アクソスたちは、誓約に基づいて、アクリオスの民を滅ぼしはしない。
『滅び』とは呼べない程度に、人や建物や家畜をわずかな数残して、それ以外は全部壊すだけで。
頭の中に流れ込んでくる、ありとあらゆる災厄と人々の絶望の嘆きを生々しく読み取り、シンはその場に嘔吐しそうになった。
堪えたのは、神官たちの中に、ミラの姿をみつけたからだ。
「シン様……私たちの、神様……」
請うように、祈るように両手を組み合わせ、ミラは何度もシンの名前を繰り返している。
またわかりたくもないのにわかってしまった。ミラや神官たちは、自分たちを城塞に連れ戻すことができなければ、殺されるか、あるいは、自ら命を絶つかしか道がない。そう命令を受けている。
(……命令がなくても、この人たちは、そうする)
ウディヤの存在は、アクリオスの人々にとって、畏れであり希望でもある。
シンがこの土地を去れば、この善良で盲信しか知らない愚かな人たちに禍が降りかかる。
アクリオスの神々は、わざわざシンを引き留めるような親切なことはしてくれないだろう。
ただ見過ごし、終わった後に、シン以外の人に罰を与える。
すべて知っているくせに、何もしない。
こちらから縋らなければ、禍以外のものなど与えてくれない。
そしてアクリオスの人々が神に縋るすべは、犠牲がなくてはあり得ないのだ。
「……クソッたれ」
ヴルカーノの人々が呟いていたせいで覚えた、異国のスラングを口にしたシンに、神殿の人間たちが不審そうな顔になる。
シンは背にしていた荷物を地面に投げ出し、ミラや彼らに向けて、微笑んで見せた。
すでにシンを取り巻いていた影は、何ごともなかったかのようになりを潜めている。
「あまりに静かな夜だから」
炬の火に照らされて赤くなり、顔色のわからない彼らに向かって、笑ったままシンは告げた。
「少し散歩をしようと思いついただけだよ。心配をかけたのなら、悪かったね」
クレオの命令を受けてその場にいた誰も、シンの言葉を素直に信じた者はいなかっただろう。
だが皆が揃って安堵に息を吐き出しただけで、シンの行動を非難する声はひとつも上がらなかった。
投げ出した荷物を放って、シンは踵を返すと、城塞への道を歩き始めた。ぞろぞろと、荷物を拾い上げたミラと、炬を手にした神官たちも後からついてくる。
シンは一度も振り返らず、黙然と夜道を歩き続けた。




