ただ祝福を、
ヴルカーノの商船は、しばらく島の近くに停泊しつづけた。
どの国の船が来た時もそうだったので、あまり気にはしていなかったが、シンは城塞を出た時に不快な空気の乱れを感じて、ふと眉を顰めた。
「――シン様?」
騾馬に乗ったまま大きく首をめぐらせ、ここからでは見えない港のある方角を見て立ち止まるシンがいつまでも動かないことに困り果てた様子で、少し離れた場所から、同行の神官が遠慮がちに呼びかけてくる。
「いや――何でもない」
大したことでもない、シンは首を振って再び騾馬を歩かせた。
今日も面倒な儀式をこなすことになるかもしれない。城塞から少し離れたところにある集落で、獣に襲われ人死にが出たという。怪我をした者も多く、集落の巫覡では弔いと治療が間に合わないのだ。
(今日でなくてもよかったのに)
集落へ向かうことに決まったのは、昨日の夜遅くだった。本当なら今日は別の用事があったのに、神官が自分たちだけでは不安だと、シンに同行を懇願してきた。仕方なく、自分よりずっと年上の神官ふたりを引き連れて出かけることになったのだ。
(俺がやるって、ファラーシャと約束してたのに……)
今日はラウフが生まれて七度目の月が廻った祝いに、城塞の背後を守る北山に登る儀式の日だった。山に湧く清水を汲んで、神に健康と長寿を祈りながら神官がラウフの体を禊ぐ。その役目をシンは勤めるつもりだったが、儀式自体はごく形式的なもので、人手が足りない時は神官は同行せず赤ん坊の両親や親族だけですませることもある。それよりも死の穢れを祓う仕事の方が優先されるのは仕方がない。
(……それにどうせ、約束なんて俺が一方的にそうするって言っただけで、ファラーシャは誰が一緒でも気にしないだろうけど)
出かける前にファラーシャに謝りに行った。ファラーシャは、いいのよと、いつもの綺麗で虚ろな微笑みをシンに向けただけで、落胆なんて欠片も見せなかった。
「……」
くさくさした気分で騾馬を進めていたシンは、目的の集落が近づいていくにつれ、別の理由で表情を曇らせた。
(何だ……この気持ち悪い空気)
さほど深くはない森の中を進む間、やけに木々や風がざわついている感じがする。他の神官ふたりも、不安気に顔を見合わせ、小声で「様子がおかしい」と囁き合っている。普段は人里離れたところに暮らしている筈の獣が、集落を襲って血が流れたせいで、土地が不安定になっているのだろうかと。
(……違う)
感覚を研ぎ澄ませ、五感以外の場所で周囲の様子を確かめていたシンは、神官たちの囁きを内心で否定した。
その逆だ。おかしな空気が渦巻いているから、獣がどこからか追い立てられ、普段なら現れないはずの場所までやってきたのだ。
でもどうしてそんなことが――と考えてから、すぐに気づいた。
(異国の奴らだ)
アクリオスの民以外の者が、陸に上がってきた。港だけではなく、おそらくもっと別の場所まで。そのことに神々が機嫌を損ねている。神域に近い場所まで入り込んだのかもしれない。神域を破ればシンにもすぐわかったはずだから、最悪の事態までは起こっていないだろう。もし余所者が神域を侵し、神の怒りに触れて血を流し、さらにその場を穢すようなことがあれば――
(アクリオスの人のためならともかく、余所者のせいで自分が痛い思いをするなんて、絶対嫌だからな!)
半分怒りに任せて騾馬の腹を蹴りつけて、シンは森を抜け、神官らと共に集落まで辿り着いた。
幸いに、と言うのは死人が出ているのだから不謹慎なことかもしれないが、シンにとっては実際幸いなことに、集落の様子自体はそう酷いものではなかった。人を襲った獣は集落の男たちが狩り、巫覡の指示どおりの手順を踏んで神に祀った後だったので、穢れがさらに『悪いもの』を取り込むことを危惧する必要もない。
これならばわざわざ自分が出張ることもなかったなと思いながら、シンは怪我人の治療と死人の弔いを手伝い、念のために獣避けのまじないを与えてから、集落を後にした。
(異国の奴らに、陸に上がらない約束をもっときつく言い含めるか、いっそ決まった場所に宿泊させて監視をつけるかのどちらかにしないと、まずいな)
急ごしらえの商船組合などでは、異国の客に対応できない。クレオは相変わらず寝たり起きたりを繰り返していて、一度眠りに就いてしまうとそのまま数日間意識を失うこともあり、こうなると自分が決めることを決めなければ、いずれ大きな問題が起こるだろう。だが『十四歳の坊や』の言うことに異国人たちが素直に従うとも思えず、かといって商船組合の人間に共通語を使って交渉する力があるわけもなく――
あれこれと考えるうちに、シンはまた頭が痛む感じがしてきた。クレオの意識がない間、政に関わる大人たちは不安がって、何かとシンにお伺いを立てようとしてくる。こういう時は、議会とやらを持つ異国の政治が羨ましくなった。すべての物事に、神か王か、どちらかの決断がないと何も始まらないアクリオスの仕組みは、たとえそれに間違いがないとしても、単純だが酷く不自由だ。王が不在の時は、自分がその代わりを務めなければならないシンにとってみれば、なおさら。
(そうだ、クレオ様に報告したら、ファラーシャたちの様子を見に行こう)
もう陽が沈みかけている。ファラーシャはラウフのための儀式を終えて、すでに自分の舎に戻っているだろう。それとも、またクレオの世話をするために彼の私室にいるだろうか。とにかく気晴らしに、今日の儀式の話でも聞きに行こうと決めると、シンは少しだけ楽な気持ちになった。
ファラーシャの微笑みを思い出せば、完全に心が浮き立つわけではないが、他の厄介事について考える時の気分よりはほんの少しだけだがマシだ。
だが城塞に辿り着き、王の宮の方に近づくにつれ、やけに人々が怯えて不安になっているのを感じて、シンも不審な心地になった。ウディヤを畏れて道端に膝をつくのはいつもどおりだが、彼らが呟く言葉が祝詞ではなく禍避けなのはおかしい。何か起きたのかと、シンが彼らの心を読もうとするより先に、シンの帰還の報せを受けたらしい神殿の人間が騾馬に乗って駆けてきた。
「降りなくていい、何があったの」
ウディヤの目線より高いところで声をかけることができず、神官が騾馬から降りようとするのを制して、シンが訊ねる。
神官は顔色を失い、喘ぐような呼吸の中で口を開いた。
「ファ、ファラーシャたちの一行が、北山で、獣に」
シンは神官の言葉を最後まで聞かず、騾馬を全力で走らせた。神殿内の治療院か、それともファラーシャの舎か。必死に気配を探り、王の宮から彼女の存在をみつけだして安堵する。ファラーシャは無事だ。シンは王の宮の門前で騾馬を乗り捨て、ファラーシャの気配を感じるクレオの寝室の方へと走った。
相変わらず宮の中は暗く、冷たい。その廊下の向こうで、女の悲鳴と困惑したような男の声が入り交じり、揉み合う音が聞こえてくる。
「クレオ様! お願いですクレオ様、この子を、ラウフを!!」
「やめろファラーシャ、おまえはここにいてはいけない!」
泣き叫びながらクレオの寝室の木戸に縋る女を、衛士三人が引き剥がそうとしている。女の抵抗は凄まじく、大柄な男が三人がかりでも取り押さえることができないほどだった。
「ファラーシャ!」
彼らのそばに辿り着いたシンが呼びかけると、衛士たちが反射的に泣き声を上げるファラーシャから手を離し、その場に膝をついた。
「ファラーシャ、どうしたの」
無意識のうちに彼女の心を読もうとしたシンは、強烈な反撥を感じて一瞬意識を失いかけた。頭を殴られたような激痛が走った。ファラーシャの感情の乱れが酷すぎて、触れることができなかった。彼女の身に何が起こったのかが把握できない。
「シン……シン!」
自分に気づいて振り返ったファラーシャの姿に、シンは今度は痛みのせいではない理由で、数秒思考を喪った。
いつもはきちんと結い上げた髪は乱れ、悲痛に歪んだ顔は涙と泥と血にまみれて彼女の美貌を隠している。
儀式のためにあつらえたのであろう白い絹の衣は、元の色など跡形もなく、やはり泥と、どす黒い液体で汚れている。
ファラーシャからは、猛烈に腥い血と、穢れの臭いがした。
(こんなに血を流して、なぜ)
それでも彼女が生きているのかと、シンは不思議な気持ちになった。ファラーシャの生命の力は、彼女の周囲を正しく廻っている。気は酷く乱れているが――
「クレオ様がこの子を助けてくださらないの! あの方は神なのだから、その力くらいあるはずなのに!」
シンが聞いたことのないような金切り声で、ファラーシャが叫んだ。
とにかく彼女を落ち着かせようと口を開きかけたシンは、一際黒ずんだ彼女の胸の辺り、その両腕が抱えているものが何なのかに気づいて、総毛立った。
(ラウフ)
ファラーシャを汚しているのは彼女自身の血ではない。
その息子のものだ。
「クレオ様は今目を覚ましていらっしゃるのよ! なのに私に出ていけと! ラウフのためにしてやることは何もないと!!」
「……ファラーシャ……」
シンはかける言葉を思いつけず、ただファラーシャの名前を呼んだ。
彼女が抱き締めるのは、頭も腕も脚も千切れ、元の形などとうになくして、明らかに生命を喪っていることがわかるもの。
シンはそんな凄惨な姿にではなく、そのかつてラウフであったものを大事そうに腕に抱くファラーシャの様子に、怯んだ。
「お願いよ、あなたでもいいの、お願いだからラウフを助けて! この子を治してあげて、早く治癒法を!!」
ファラーシャはシンに向き直り、血と肉の塊のようなラウフを捧げだしてくる。シンはまだ言葉も失く、ただ首を横に振った。
すでにラウフの魂は感じられない。
死に瀕した怪我人が相手であれば、シンも同等の痛みと傷を受けて、それを癒すことはできるかもしれないが――肉体と魂を繋ぐ糸の切れてしまったものは、たとえシンであっても、クレオであっても、神々ですら、どうすることもできないのだ。
(……俺が、その場に、いれば)
応えないシンをみつめるファラーシャの瞳から、わずかに残った希望の光が喪われ、絶望の色へと取って代わる。
(もし獣に襲われた直後にラウフを助けていれば……いや、獣が近づいた時点で気づいて、それを追い払うことも)
無駄なことを考えている、と思う。もう起きてしまったことだ。ラウフは死に、シンにその魂を取り戻す手立てはない。
「……あなたもラウフを見捨てるの、あの男と同じように……ッ」
ファラーシャの声が、低くなる。シンはハッとして彼女を見返した。
「違う、しないんじゃない、無理なんだ……できないんだよ、ファラーシャ」
たとえシンだって、どれほどそれを望んでいたとしても。
「おまえたちはどうして何もかも私から奪うの!」
ファラーシャはシンの言葉を聞かず、涙を散らしながら、いきなりシンに向けて足を踏み出した。
「何のための神の力か!! 何のためのウディヤか!!」
固唾を呑んで成り行きを見ていた衛士たちは唐突すぎるファラーシャの動きに対処できず、シンは彼女が自分に掴みかかろうとする様子を見て取って、咄嗟にその場を大きく飛び退いた。
「私の息子は救う価値もないものだと言うの!?」
いくらこんな状況で、彼女がクレオの側妾とはいえ、ウディヤを血の穢れがある体で触れ、傷つけでもしたら、ファラーシャはただではすまない。そう思って取った自分の行動もシンは言い訳できず、やはりただ首を横に振るしかなかった。
ラウフを片腕で抱いたままのファラーシャの反対の手が、空を切る。怒りと絶望に満ちた目が後退さるシンを睨み上げ、再び動こうとした彼女の体を、ようやく我に返った衛士たちが慌てて押さえつける。
「よせ、ファラーシャ! 気持ちはわかるが、もう仕方がないんだ!」
衛士たちも辛そうな顔で、ファラーシャを説き伏せようとしている。生まれたばかりのラウフのことを、王の宮の人々だって可愛がっていた。まだほんの少女でしかない時期にクレオの側妾に宛がわれたファラーシャのことを、哀れだと思っていた。
「ラウフもこのままでは可哀想だろう、とにかく、舎に連れて帰ってやろう」
衛士の言葉に、ファラーシャが抗おうとしていた力を失う。嗚咽を上げながらその場に崩れ落ちかけるのを、衛士たちが無理に引き上げるように支え、クレオの部屋とシンから引き離すように、その場から離れていった。
ファラーシャの泣き声と、慰める衛士の声が、ゆっくりと遠離っていく。
彼らの気配が完全に消えた頃、シンはのろのろと壁に背中をつけ、そのまま床に座り込んだ。
うまく呼吸ができない。吸うばかりで吐くことができず、胸が痛んだ。その痛む胸を片手できつく押さえ、無理に細い息を吐き出す。
――ファラーシャには、いつもの空虚な微笑み以外の表情で、自分を見て欲しいと思っていた。
(俺が過ぎた望みを抱いたから、罰を与えたっていうのか?)
思いついた自分のそんな考えに、シンはふと笑いそうになった。神様はそこまで親切じゃない。シンの望みになんて、気を留める理由もない。
「俺のせいじゃない……」
それもわかっている。ラウフとファラーシャからは、集落を襲った獣と同じ臭いがした。北山の方も、異国人の侵入のせいで気が乱れ、本来ならいるべきはずのない生き物が入り込むようになったのだろう。気づけなかったのはシンの責任ではない。ウディヤでさえ、この土地で起こるすべてのことに関知できるわけではない。
子供の祝いの儀式よりも死の穢れを祓う儀式の方が優先されるのは神殿の決まりで、命じたのはクレオだ。王の命令にウディヤは逆らえない。だからシンの責任じゃない。
死んだ人間を生き返らせる力を与えられなかったのは神であり、シンの責任じゃない。
(でも、じゃあ)
――何のためのウディヤかと、自分を詰るファラーシャの泣き声がシンの頭に蘇り、こびりついて離れなくなる。
なりたいなんて一度も望んでないし、その力を欲しいなんて思ったこともないのに。
何のためか、なんて。
「……そんなのは、俺が知りたいことだよ……」
呟きながらぼんやりと視線を廻らせ、シンはクレオの部屋の木戸に目を向けた。あんな騒ぎがあったのに、クレオは顔を出そうともしない。眠っているのか、関わりのないことだと無視しているのか。
どちらにせよ、クレオにもラウフは生き返らせることはできない。
クレオが何を考えているのか知りたかったが、そうしようとする力が湧いてこなかった。
「……」
しばらくシンがその場に座り込んでいると、やがて血で穢れた場を清めるために、神殿の者たちが集まってくる気配がした。
シンは手伝う気も起きず、立ち上がって宮を後にした。
ファラーシャの様子を見に行こうという考えすら浮かばずに、まっすぐ自分の舎に戻ると、体も清めず、食事も取らず、寝床に潜り込む。
その後の数日間、眠れないまま過ごした。
そしてそれ以来シンが神殿の仕事を放棄するようになったのと同じく、ラウフを喪ったファラーシャも完全に心を閉ざし、人前に姿を見せることをやめてしまった。




