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死にたい騎士の不運  作者: eleki
過ぎ去りし日々の君よ

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7/27

神子は淡い望みと不安を抱く

 翌日の祈祷式は無事に終わった。

 空腹のせいで目が回りかけていたが、シンはクレオに式の終了を報告するため、神殿から少し離れたところに建つ王の宮に向かった。

 クレオに会いに行くことにはまったく気が進まなかったし、できればさっさと帰って食事を取りたかったが、王を無視するわけにもいかない。

 ふらふらしながら王宮の門に辿り着くと、シンは微かに息を吐き出した。棍を手にした門番の神殿兵たちがシンをみとめてサッと身を屈める。シンは彼らを無視して――どうせ微笑みかけたって相手は下を向いているから見えないし、声をかければ『勿体ない』と恐縮するので面倒臭い――空腹のせいだけではなく重たい足取りで敷地の中に入った。

 王宮は鬱蒼とした森に取り囲まれている。一歩門を過ぎると、夏だというのに不自然なくらいの冷気を感じた。衛士はそれなりの数いるはずなのに、まるで墓所のように静かだ。実際地下に霊廟がある。代々の王の墓。王は妻とも子とも別の墓に入り、直接は血の繋がりのない先王の隣に並べられる。冷たい棺に納められた元はウディヤだった男たちの、傷だらけの死体。クレオの隣には自分が並ぶことになるのだ、と想像すると、シンはますます憂鬱な心地になった。

 汗で湿ったフードを外しながら暗い廊下を歩き、建物の最奥にある王の私室へ向かうと、その扉から人影が出てくるのが見えた。ほっそりした肢体を持つ女性が身に纏うのは、女官の麻衣ではなく、柔らかい絹の衣装。

「――ファラーシャ」

 細い手首や足首に幾重も石の輪を填めているのは、彼女の身分が高い証だ。シンが呼びかけると、ファラーシャが気づき、微かに笑いかけてくる。

「クレオ様は、今御寝りになられたところよ」

 ファラーシャはクレオの部屋へ続く木戸を閉めてしまった。片手に飲み物と菓子の載った盆を持ち、足音を立てない歩きでシンの方へと近づいてくる。

 長い髪を丁寧に結い上げ、ひと束顔の脇に垂らした分にだけ、色のついた糸や磨き上げた石を巻きつけて飾っている。肌は青白く、彫りが深いせいと睫が長いせいで影の多い顔はあまり健康そうに見えなかったが、彼女くらい美しい人はアクリオス中を探したところでそうそういないだろう。

「大事な御用なら、後で私がお伝えしておくけれど」

「いえ……いつもの祈祷式が恙なく終わったっていうだけ。クレオ様はどうせ気にしてないだろうから、いいよ」

「そう」

 苦笑するシンを見て、ファラーシャがまた微笑んだ。

 ウディヤの顔を見て笑いかけるのは、おそらく、アクリオスの中でファラーシャだけだ。

 ただ、その微笑みはどこか虚ろで、中身がない。喜びの感情が彼女を笑わせているわけではないと、シンにはわかってしまう。わかりたくもないのに。

 ファラーシャはクレオの八番目の側妾だった。三十路をいくらか過ぎたばかりの、高齢のクレオに宛がわれるにしては若い女だったが、王宮に来たのが今のシンより幼い頃だったから、この暮らしも長い。最初の正妻はとうに死に、今はかつて側妾だった女が三番目の正妻の座につき、彼女とファラーシャを含めて四人の女がクレオの庇護を受けている。

 そして半年ほど前から臥せることの増えてきたクレオの世話をするのは、女官以外ではほとんどがこのファラーシャの役割だった。

「ファラーシャは、もう自分の舎に――」

 シンがもう一度口を開いたのと同時に、ぐうっと、酷い腹の虫が鳴いた。誤魔化しようにもないくらいの大きな音。気まずくて見る見る赤くなったシンに、ファラーシャが手にしていた盆を差し出してきた。

「クレオ様がお召し上がりにならなかったから」

 木皿の上に、甘い穀物を練ったものを長い時間かけて焼いた、普通の暮らしをしていれば決して手に入れることのできない高価な菓子が載っている。

 今すぐにでも何かしらの食べ物を口にしなければひっくり返りそうだったシンは、顔を赤らめたまま頷いた。ファラーシャの前で子供みたいに菓子に飛びつくのは恥ずかしかったが、腹が空きすぎて倒れるよりは、いくらかましだ。

 ばつの悪い気分でシンが手を伸ばすより先に、ファラーシャが菓子を摘み上げ、シンの手を取ると、その掌の上にそっと載せた。少しでも強く掴めばほろほろと崩れてしまう繊細な菓子で、木皿からシンの手に移す間に、もう端が壊れかけている。

 その菓子の感触よりも、ファラーシャの触れた指の柔らかさに、シンは何となく息を詰めた。鼻腔を掠ってシンを落ち着かせなくするのも、菓子ではなく、ファラーシャの髪や衣服や肌から湧き上がる甘い香りだ。

 ファラーシャの視線を感じながら、シンは少し俯いて、黙然と菓子を口に運んだ。甘すぎて頬の奥が痛い。そう言おうとした時、背後から人の気配と、小さくむずがる赤ん坊の声がした。シンが振り返ると、若い子守女が小さな赤ん坊を抱えて、それをあやしながら歩いてくるところだった。

「まあ、ラウフ」

 ファラーシャも子守女の方へ近づき、盆を相手に手渡すと、代わりに赤ん坊を自分の腕に受け取った。

「どうしたの、眠たいの?」

 ラウフは七ヵ月ほど前に産まれたファラーシャとクレオの息子だ。ファラーシャがクレオに仕え始めて二十年近く経ってからようやく授かった子供。ファラーシャがクレオの部屋にいる間、子守女が近くで面倒を見ていたのだろう。ラウフはぐずっていて、しきりに泣き声をあげたり、唸ったりしている。

「いい子ね、クレオ様がお休みになっていらっしゃるから、泣かないのよ」

 ラウフをあやすファラーシャの声音は優しく、虚ろだった眼差しと微笑みには温かな愛情が溢れ出した。

 彼女のその変化に、シンは言葉もなく目を奪われた。ファラーシャがラウフに向けるのは、見返りなどひとつも求めない、無償の愛情だ。そして磨き上げた黒曜石みたいなラウフの無垢な瞳は、母親しか映さない。

 ラウフにとっては今この瞬間、世界の神はアクソスではなく、王にして父でもあるクレオではなく、ましてやシンでもありえず、ただファラーシャであるのだろう。

(……いいなあ)

 畏れるものなど何ひとつなく、ファラーシャだけに信頼と愛情を傾け、同じ強さと純度の想いを彼女から与えられるラウフのことを、シンはひたすらに羨んだ。

 シンのじっとみつめる眼差しに気づいたのか、ラウフがふと瞳をシンの方に向けた。シンはなぜかぎくりとして、後退さりそうになる。ラウフはともかく、ファラーシャと、少し離れたところに控えた子守女の目があるので、どうにか堪えたが。

 シンを見ていたラウフが、不意に、顔をくしゃっと崩して笑った。無邪気な笑顔を浮かべながら、シンの方へと両手を伸ばし、まだ言葉にならない声を可愛らしく上げている。

 おそるおそると、シンはラウフの方へ近づいて、その顔を見下ろした。ラウフは玩具を欲しがるかのように、さらにシンの方へと小さな手を一杯に伸ばしている。

「……触れても?」

 シンはファラーシャに視線を移して、訊ねた。ラウフに触れるのは初めてではなかったが、そのたび、いちいち確かめずにはいられない。

「優しくね」

 声を潜めるようにしてファラーシャが応える。シンは頷くと、またおそるおそる、人差し指でラウフの手に触れた。途端、ラウフがその指を握り込む。嬉しそうな顔で、ラウフは何度もシンの指を握ったり、力を弱めたり、また握り込んだりと繰り返した。

 怯えなど欠片も見せずに自分に触れるラウフの様子が、シンの胸の奥に染み出すような嬉しさを生み出す。

 ラウフはまだこの世界のことを何も知らない。自分を取り巻くすべては優しく、あたりまえのように守ってくれるものばかりだ。だからシンを畏れない。ウディヤがどんな存在なのか、どれだけ簡単に自分を傷つけることのできる力を持つのかがわからないから、無垢で無知な笑顔をシンに向けられる。

 ファラーシャもシンに対して畏れを見せず、微笑みかけてくるが、その笑顔の質は息子とまったく違うものだった。

 まだ少女の頃にクレオに対する供物のような扱いで側妾に召し上げられた自分の運命を、ファラーシャはその瞬間から諦めているのだ。生きながらに死んでいるようなものだった。彼女は何も望まない。喜びも悲しみも怒りもない。心を覗ける現人神の前で暮らすために、思考を鎧うのではなく、感情をさらけだすのではなく、ただすべてを捨てた。ファラーシャが王やウディヤの前で笑えるのは、畏れていないからでも愛しているからでもない。何も感じないからだ。心はいつも麻痺している。

 それでも息子をみつめる時だけ、ファラーシャの微笑みは本物になった。鏡のように息子の無邪気さを映し出し、息子が目に入る時だけ、愛に満ちた心になる。

(ウディヤなんかに生まれたって、できないことが多すぎる)

 ファラーシャの全身を覆う淡く美しい光に似た愛情の気(ハーラ)をみつめながら、シンは息苦しいような、目の奥が微かに痛むような、妙な気分になった。

(クレオ様にも……人の心を操ることはできない。神々にも)

 シンだって最初から諦めていた。そのつもりだった。なのにファラーシャといると、彼女に心から笑いかけて欲しいと、それが無理なら嫌悪でもいいから本当の想いを自分に向けて欲しいと、そう願ってしまう。

 家族にすら抱いたことのない気持ちが抑えられずに、シンは困り果てて、そっとラウフから指を離した。

「……アクソスの恵みを」

 あとシンにできることはと言えば、決まり切った言葉でラウフに祝福を与えることだけだった。

 ファラーシャはまだ微笑んでいる。シンが踵を返すと、子守女が床に平伏している姿が見えた。フードを被り直し、ラウフの小さな笑い声を背中で聞きながら、シンはどこか寂しさのような感情を覚える。

 いっそファラーシャのようになれたら楽だろうと思った。

 そうしたら、こんなふうに簡単に揺らがずにすむ。

(何だか……頭が痛い)

 空腹が過ぎたのか、祈祷で疲れたのか、理由はわからないが、シンは頭の奥に不快な痛みを感じて眉を顰め、こめかみを指先で揉みながら、足早に王の宮を後にする。

 重たい心と体を引き摺り、クレオに会わなくてすんだのだけは幸いだと自分を慰めながら、シンはようやく自分の舎へと向かった。

 とにかく早く帰って、食事をして、ぐっすり眠って、とそればかりを考えていたシンは、道の向こうから、騾馬の手綱を引っ張りながらばたばたと慌ただしく走ってくる男をみとめて、溜息をつきそうになるのをようやく堪える。

 神職者、それもウディヤの前で無意味に騒ぎ立てて走り回る民はいない。だとしたら、あの血相を変えてこちらへ向かってくる男は、自分に用があるのだ。それも、走らなくてはならないくらい急ぎの、厄介な用事が。

 案の定、男はシンの前までやってくると、息を切らしながらその場に両膝をついた。

「シン様、港でまた、ヴェロスが騒ぎを……」

 言い辛そうに、男が簡単すぎる説明をする。数えるのもうんざりするほどの報せだ。詳しく聞かずとも、シンにはすぐに状況が理解できた。

「わかった」

 それだけ言って、シンは男の手から手綱を取り上げた。小柄な騾馬の鐙に足をかけ、鞍によじ登る。城塞の東側に住む者は城塞内での騎乗を禁じられているが、西側に住む上層階級の人間は許されている。シンは自分を呼びに来た男は放っておいて、城塞の中は並足で、門を出てからは駆け足で港へと向かった。

(ああもう、腹減った!)

 腹立ち紛れに、騾馬を無茶な速さで島の西へと走らせる。城塞から流れ出る川に沿い続く道はさほど広くはなく、シンが辿り着いた先の港も、小さな湾をそのまま使っただけの狭い場所だった。大きな帆船が一艘、岸から随分離れた沖の方に停泊している。港が小さすぎて近寄れないのだ。夕闇が迫る海を艀が行き来して荷物を運んでいる。岸辺では篝火が焚かれ、男たちが忙しく行き交っている。荷運びの掛け声と波の音に混じって、言い争うような怒声が聞こえてきた。

 シンは騾馬から降りると、数人の男たちが揉み合っている方へ静かに歩み寄った。

「だから勝手に持ってかれちゃ困るんだよ、代金を請求されるのは組合なんだぞ!」

「払えと言われたら払っておけばいいだろう、民に必要なものを選んで買うのがおまえら商船組合の仕事だ。おい、行くぞ」

「待つんだ!」

 争っているのは、二十歳前後の若い男が三人と、その倍の数のもっと年嵩の男たちだった。三人のうち、二人が肩に木箱を担ぎ上げて運び出そうとしていて、対する男たちがそれを阻もうと両手を広げ、怒りを顕わに声を荒らげている。

「おまえたち、自分が誰に命令をしてるかわかってるのか?」

 いかにも荒事を好むような逞しい体に木箱を担いだ男二人を左右に引き連れているのは、背は高いがどことはなし頼りない体つきと、人を見下す傲岸な眼差しを持つ、神経質そうな男だった。

「――誰に、だって?」

 いきり立って怒鳴り合っている男たちとは対照的に、シンは落ち着いた静かな声で呼びかける。

 全員が、ハッとした顔でシンのことを振り返った。年配の男たちが慌ててその場に膝をつく。木箱を担いだ二人の男は一瞬迷うような顔で目を見合わせたが跪くことはなく、真ん中の男は不快そうに顔を歪ませただけで、動く素振りも見せなかった。

「ここは商船用の港で、商船組合にも入っていないヴェロスが出入りしていい場所でも、ましてや勝手に契約前の積み荷を盗み出していい理由もないはずだけど」

 やんわりと諫めるように言った年下の少年に、ヴェロスが忌々しげに舌打ちの音を立てた。小声の呟きが零れる。

「またこの餓鬼か」

「ヴェロス! ウディヤに向かって何て口を……!」

 跪いた男たちが、夕闇でもわかるほど蒼白な顔色になると、厳しい語調でヴェロスを叱責する。

 ヴェロスがシンの方を憎しみのこもった視線で睨みつけた。だがその口許は嗤いに歪み、片手を胸の辺りに当てると、わざとらしいほど大仰な仕種で体を折って頭を下げた。アクリオスにはない、異国の挨拶のやり方だった。

「――これはこれは、ウディヤ様。港とも組合とも関わり合いにないあなたが、何の御用で?」

「荷を戻すんだ。そろそろクレオ様でもおまえの尻ぬぐいはできないよ」

 シンはヴェロスの挑発には乗らず、ヴェロスの方が、怒りと羞恥でサッと目許を赤く染めた。

「俺は俺の正統な権利を主張してるだけだ! この国に運ばれてきた荷を王の息子である俺が手に入れて何が悪い! この荷は盗んだわけでなく、異国の奴らが『王子に』と寄越してきたものだぞ!」

 喚くヴェロスに、商船組合の男たちが、跪いたまま困惑したような視線を交わし合っている。

 シンは呆れた気分を表に出さないよう自制した。腹が減っている上に、ヴェロスのこの馬鹿みたいな主張につき合わされるのは、正直なところ飽き飽きしていたが。

 ヴェロスはクレオと今の正妻の間に生まれた一人息子だ。彼の主張するとおり、確かに『王の息子』という存在だったが、アクリオスにおいて王の血を引くことに大した意味はない。王の後継者はウディヤだからだ。王の妻と妾たちは、王の個人的な財産を分け与えられるだけで、その他に何の特権も持たない。子供も同じだ。王の子供にウディヤが生まれる先例はなく、たとえ石工の子供が石工になったとしても、王の子供が王になることは絶対にあり得なかった。しかもヴェロスは『アクソスの祝福』を持たない唯人だ。神職に就く権利もないのに城塞の西側、しかも神殿に近い辺りに住んでいられる理由は、父親としてのクレオの情でしかない。

(なのに、誰に入れ知恵をされたんだか)

『王子』という言葉がアクリオスには存在しない。ヴェロスの口にした言葉の意味がわからなかったのだから、組合の男たちの困惑ももっともだ。

「相手が次のアクリオス王にと品物を渡してきたのなら、それは政治の話だよ、ヴェロス。異国の商船が運んできた荷に見返りのない品はない。無闇に受け取られては困る」

 なぜそんなこともわからないのかと、シンには理解できなかった。

 群島内の国や集落としか交易のなかったアクリオスに、遠い大陸からの商船がやってくるようになったのは、本当につい最近のことだ。シンが生まれる前にも何度か偶然島まで辿り着いたことはあるが、短い期間で繰り返しやってくるのはアクリオス史上初めてのことで、この港もそのために慌てて用意した場所だった。

 かつて異国の商船が置いていった古い荷を見たことのあるシンは、随分前から自分の住む土地の文化が『大陸』より遅れている――というより、特殊な方向に進んでいるのだということを知っていた。食べるものも着る服も住む建物も、何より神の存在を前提とした国の造りも。

 自分の暮らす国がある群島が、広い世界地図のほんの片隅にある点でしかないということは、実際に地図を見る前からわかっていた。それもウディヤとしての智慧だったのか、それ以外の感覚で得たものなのかはわからないが、とにかく大して驚きはしなかった。

 だがヴェロスは違ったらしい。

 彼は異国から少しずつもたらされる文化に衝撃を受け、情報に刺激され、傾倒していった。それまではどちらかと言うと内気で腺病質な男だったのが、アクリオスのあらゆる慣習を『時代後れ』と嘲笑い、大陸では国家の統治を世襲で行うことが多いと知るや、まるで自分が次の王であるかのごとくの振る舞いを見せるようになった。

 異国の商船が島に姿を見せるようになった頃、ちょうどクレオが臥せることの多くなったのは、間が悪かった。あるいは――『神聖王』の力が弱まったせいで、異国の船がこの島に入り込むようになったのか。

 どちらにせよ、ヴェロスは異国の風に逆上せ上がり、次の王の座を約束されているシンを目の敵にし始めた。

「餓鬼が、ウディヤなどと持ち上げられて大きな顔をするな! 信仰と政治を混同する国など、大陸ではあり得ない。国を統治するのは、神でも、その力を継ぐなどと自称する者ではなく、賢しい人間だ。俺のように、世界をみつめる目のある者だ! 祈祷やまじないだけで人を救える時代なんて、もう終わる!」

 ヴェロスが激昂して声を荒げるほどに、シンの方は冷めた心地になっていく。相手にする気も起きないシンの代わりに、跪いたままの男たちが小声で悪態をついた。

「おまえなど、クレオ様の子だというからそこそこの仕事を与えられているというのに、その義務も果たさず世迷い言ばかりを言いおって」

「――何だと!」

 ヴェロスが男たちの呟きを聞き止め、再び口論が始まる。

 まったく、何かと言えばこうやってヴェロスと他の者たちが諍いを始め、それを収めるためにいちいち駆り出されるのだから、シンにとってはたまったものではない。

(こんな仕事、俺のものじゃないのに)

 男たちはそれでも、クレオの不興を買うのが怖ろしくて、ヴェロスを力ずくで押さえることはできないのだ。

「ウディヤが次の王になるアクリオスの因習を否定するのならば」

 溜息混じりにシンが口を開くと、怒鳴り合っていた大人たちの声がぴたりと止んだ。

「クレオ様の息子であるという事実だって、おまえ自身を次の王に押し上げる理由にはならないんだよ、ヴェロス」

「……ッ」

 男たちが、たまりかねたように噴き出す。ヴェロスの顔が羞恥で灼けるように赤くなった。

 ヴェロスの主張は矛盾だらけだ。それを本人もわかっているのだろう。高齢のクレオはいずれ死に、シンが次の王になれば『王の息子』という飾りはヴェロスから喪われる。そうなる前に、アクリオスでの自分の立場を確かなものにしなければと焦り、必死なのだ。

(馬鹿な男だね)

 だが同情はする。神に仕えることができず、労働の義務を果たすこともしないヴェロスは、ウディヤの儀式をひとつも目の当たりにしたことがない。

 だからその力の途方もなさを知らない。

 その義務も。

(馬鹿な――許しがたいほど、羨ましい男だね)

 ヴェロスはシンと立場を代わりたいと切望しているだろう。

 シンだって、代われるものなら代わりたかった。

「とにかく荷物は置いていって、必要ならば組合経由で『王に』差し出すよう伝えるんだね。――通訳する?」

 訪れる異国の者たちは大陸で使われているという共通語を使うが、アクリオスにはそれをまともに聞き取れる者がシン以外にいなかった。皮肉なことに、異国の人間と話したい一心でヴェロスだけはそここ意思の疎通ができるようになっているが、勿論彼に商談を任せられるはずもない。

 だからシンの申し出に、組合の男たちがほっとした様子で頷く。

「ふざけるな、これは俺の荷だ!」

 ヴェロスはまだ反抗していたが、シンの許しを得た男たちがすぐ荷を取り上げてしまうだろう。シンは再び揉み合いを始める彼らの声を背に、帆船から艀に乗って岸へと近づいてくる異国の商人たちの方へ歩き出した。

艀からは、三人の男たちが陸に上がって来ようとするところだった。櫂で水を掻いていた二人は海の男らしく陽に焼けた頑丈そうな体をしているが、積み荷に寄りかかっていたもうひとりは色白で腕も細く、力自慢というよりは抜け目のない目つきで腕組みしている。この男が船と荷の持ち主だ。シンが姿を見るのはこれで二度目だった。シンは彼に商談はすべて組合の者と行うようにと共通語で告げ、了承させる。

「わかったよ、ありがとう、坊や」

 商人はシンに向けて、愛想よく笑っていた。シンもにっこりと笑顔を返す。相手の表情にははっきりとシンを子供だと侮る色があり、心を読めば、『外国からやってきた巨大な帆船と立派な積み荷と自分たちに怯み、年端もいかない子供を使いに立てる、極めて原始的な国だ』と嘲笑している。それがシンには可笑しかった。彼らはアクリオスについて何も知らない。言葉の通じるシンは教える気など起きなかったし、ヴェロスは神の力に関する知識も、共通語の語彙も少なすぎる。

「おお、ヴェロス王子!」

 商人はシンから視線を外し、その背後を見て手を上げた。片言だがアクリオスの言葉を使っている。シンはさり気なく立っていた場所から一歩退いた。今までシンがいた場所に、勢いよくヴェロスが割り込んでくる。シンを押し退けて商人と向かい合おうとしていたヴェロスは目論見が外れて肩透かしを食っただろうが、それでも勝ち誇った顔でシンを見下ろし鼻を鳴らしてから、熱っぽい目になって商人と挨拶を交わした。

 ヴェロスが話すたどたどしい共通語を商人が大仰に褒め立てる言葉を聞きつつ、シンはその場を離れた。やれやれ、という気分だった。

 商人は新しい販路を拓こうとヴェロス『王子』に取り入るつもりらしいが、それが徒労だと気づくのはいつの頃だろう。生まれて初めて他人に丁重な扱いを受けて舞い上がっているヴェロスが気の毒で、シンはその心を読む気にもなれなかった。

(何にせよ、きっとますます厄介事が増える……)

 空腹が頂点を超えすぎて、シンはむしろ胃が重たくなるような感触まで覚えながら、乗ってきた騾馬にまた跨がった。

 ちらりと沖の方へ視線をやると、商船の旗が海風にたなびいていた。家名の入った標旗がひとつ。もうひとつ、獰猛そうな鳥が大きく翼を広げている紋章は、西方大陸と呼ばれる土地にある国ヴルカーノのもの。

 異国からの帆船は、月が巡る間に少なくとも一度以上港を訪れるようになっている。クレオの命令で余所者は陸上で寝泊まりできないことになっているし、荷のやり取りに厳しい制約をつけているので、異国の文化が急激にアクリオスの内部に浸透する様子はまだない。

 それでも遅かれ早かれ、アクリオスは本格的な国交を大陸と持たなくてはならなくなるだろう。ヴルカーノの他にも、いくつかの国旗を掲げた船が群島に近づく機会は増えている。地形と潮の流れの問題で、アクリオスのある島にしか大きな船が近づくことはできない。群島内の人々との折衝も必要になってくるだろう。アクリオスの中では、余所者の存在を嫌って険悪な空気が流れ始めている。それをヴェロスとその取り巻きたちが逆撫でするから質が悪い。

(……でも、それでも)

 浮かび上がる気持ちが不安なのか、希望なのか、判別がつかないうちに、シンは自分に言い聞かせるように心で呟いた。

 ――それでも、きっと劇的な変化なんて、この時が止まってしまったような土地に訪れることはないのだ。

 因習は代わらない。神の力は絶対で永遠だ。ウディヤの役割も。

 どんな問題が起ころうと、結局は神々の力と、王と、ウディヤの力で治まって――治められてしまう。元どおりになってしまう。

(俺が死ぬまで、こうやって時間が廻っていくのか)

 すべてを壊してしまえるようなことなんて、何も起こらず、変わらず。

 どれだけ願っても、自分の望みが叶うことがないなんて、誰よりシン自身が知っていた。


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