在りし日の神子はまだ揺らぐ
シンは周囲の人々に気づかれないよう、こっそりと溜息を吐いた。
「シン・ウディヤ」
背後から――少し遠いところから――呼びかけられ、振り返らずに小さく頷いて応える。
「動かすのは無理だね。血で随分穢れてしまったし」
目の前を大きな岩が塞いでいる。小柄なシンにはもちろん、その後ろに立ち並ぶ男たちにもその頂辺が見えないほど。
峡谷の半ばだった。左右を高い崖に挟まれ、道とも呼べない岩だらけの地面が長く続いている。
元々は小さな集落でしかなかったアクリオスの民が城塞を造り、国と呼べるほどの規模になってから長い長い年月を重ねているが、この島には未開の土地がまだ数多くあった。城塞周辺の森のいくつかは、アクリオスの主神アクソスとその一族、神々の使いである白毛の獣が棲むとされ、狩りや伐採のために立ち入ることは禁じられている。狩りを許された森や、川や海での漁、城塞内の田畑で充分な糧を得ることはできるが、平和で恵まれた土地に人口はじわじわと増え続ける一方で、数年に一度は狩り場を増やす必要があった。
王の命令を受けた男たちが開拓のための隊を組み、新たな土地と、城塞からそこを繋ぐ経路を探していたが、この大岩に阻まれた。
男のほとんどは城塞の東側に住む者たちだった。城塞の背後を守る山から流れる川に分断された――もちろん、行き来するための橋は架けられているが――土地の、『神殿のない方』。労働階級の人間だ。これから本格的な夏が始まろうというこの時期、彼らは作業のために丈夫な革製の手甲や脛巾、陽射し避けの布を頭に巻いているが、身につけている衣服は薄手の涼しげなもの。中には下裾着だけの者もいる。誰も彼も日々の労働で鍛え上げられた体と、陽に焼けて健康そうな肌色を持っていた。
その中で、踝や指先まで隠れるゆったりした法衣を身につけ、頭からすっぽりとローブを被っているシンの姿は、異端としか言い様がなかった。
(余計な手出しをせずに、さっさと報せに戻ってくればよかったのに)
岩の周辺に散る黒ずんだ汚点を見遣り、シンは微かに眉を顰める。神々の森を大きく迂回した先に未踏の峡谷をみとめ、喜び勇んだ男たちは邪魔な岩を無計画に木呂で動かそうとして、怪我をした。その血が土地を穢し、それまでは時間をかけて少しずつ木呂で運ぶことのできた岩は、彼らがどれだけ力を籠めてもぴくりとすら動かなくなってしまったのだ。
(あっちは、もう使い物にならないかもしれないな)
岩と地面に巻き込まれたという男の脚は、酷い有様だった。大勢の子を持つ父親だったが、この先大変だろうと、シンは頭の上っ面だけで考える。同情する気にはならなかった。この峡谷は『神の依る土地』だ。本来ならば未開の地を探索する時には聖職者を連れ、そこが唯人の踏み入れていい領域なのか判断してから進むべきだった。なのに狩り場を拓いた者がその権利の一部を得るという掟のせいで、功を逸った愚かな男に、アクソスが罰を与えたのだ。
神の怒りに触れて与えられた障りならば、神の力で治療するわけにもいかない。跡形もなく潰れた後ではどっちみち間に合いもしないだろう。それよりも問題なのは、男のせいで生まれた穢れの方だ。
(この程度なら、俺だけの力でどうにか処理できるから、いいけど)
苛立つのは、男たちの迂闊さではなく、暑さのせいだ。シンが法衣の大きなフードで顔を隠しているのは、聖職者だからではない。人前で素顔を晒すことに抵抗があるからだった。
『ウディヤ』と呼ばれる、アクリオスでたったひとつの存在。神への贄。まだたった十四歳の少年に向ける人々の視線には崇敬と畏怖が入り交じり、畏怖の中には嫌悪の念が混じっている。人ならぬ力を持つ子供を誰も彼もが遠巻きにして、自分や仲間たちに神の障りが降りかからないよう身を縮めている。片手だけでシンの細い首をへし折れそうな、力自慢の男でさえ。
彼らには、ウディヤが他の十四歳の子供と同じ格好をしているより、こうして全身を布で隠してしまう方が、落ち着くらしい。
だからシンは誰に言われずとも外に出る時は自分の姿を人目に晒さないよう心懸けていた。人が自分を見て怯えるのも――そういう人間の態度に自分がいちいち嫌な気分になるのも、面倒だった。
(……どうして慣れないんだろう)
母親の腹にいた頃の記憶を持っているとなど言えば、人は余計に遠ざかるだろう。そう簡単に予測できるから誰にも教えたことはないが、シンは産まれる前から、自分が周囲の人々にとってどんな存在なのかを知っていた。
知っていても慣れない。
誰からも敬われ、畏れられ、忌避されることに。
「我等は離れておりましょうか」
じっと岩の方へと視線を向けたまま動かないシンに、組頭の男がおずおずと問いかけてきた。シンは一度だけ首を横に振る。
「すぐにすむ。でも、ここはもう無理だね。完全に閉じてしまった」
岩はもう二度と動かないだろう。この先の森には豊富な果実とそれに集る鳥や獣がいるようだが、人の身で通ることもできまい。
この場で穏やかに暮らしていた神々が――あるいはそう呼ばれる形なき強大な力の吹き溜まりが――、人の穢れで神経を尖らせているのが、シンには嫌というほどわかった。
「俺が穢れを祓うから、おまえたちは神祇官に願い出て、向こう三年この場に在す方々をお祀りするように。清い水と水気の多い果実を絶やさず、必ず組頭が伏して許しを請うこと。それから、怪我をした男の従兄弟までの血族はこの地に近づいてはいけない」
淀みなく指示するシンに、組頭がぎょっとしたように息を呑み、慌てて振り返ると後ろで不安そうにしている仲間たちに声をかけた。どうやら怪我人の身内がこの場にいるらしい。
動揺している男たちは放っておいて、シンは血の穢れを取り巻くようにわだかまっている黒い靄を見下ろした。おそらくこの場ではシンにしか見えていないもの。血の量の割にその靄が少ないのは、怪我をした男が深酒をしたり葉巻を吸ったりせず、そこそこまともな暮らしをしていたからだろう。不幸中の幸い、というやつだ。
シンはその靄に絞っていた焦点を、ふっと散らした。
「ヒッ」
小さく悲鳴が聞こえたのは、男たちの中に多少なりとも濃くアクソスの血を引く者がいたのかもしれない。
シンの体から、音も立てずに白い靄が噴き出し、それがうねりながら岩の方へ近づく様が見えたのだろう。靄はまるで大人の男の腕ほどの長さを持つ白蛇のように見えたに違いない。白蛇は血を吸って黒ずんでいる岩と地面の辺りに這い寄ると、腹でそれを撫でるように身をくねらせた。
途端、黒い靄がひとつの残滓もなくかき消える。蛇もするりと身を翻し、白い体を靄に変えると、シンの全身に吸い込まれるように消えてしまった。
瞬きを三度もしないうちにことは済んだ。白蛇を認識することができなかった者も、血の痕がその場から一切消え去った様子は見えただろう。
シンが振り返った時、男たちはひとり残らず地面に膝をつき、シンに向けて額ずく姿勢を取っていた。口々に、禍避けの短い言葉を繰り返している。
男たちの不始末を処理してやったのに、感謝ではなく、まるで穢れを祓ったシンに怯えるような態度だ。
「おしまい。おまえたちの組は二年間不必要な狩りと祝いごとをしてはいけないし、新しい狩り場を探せないよ。いいね?」
シンの言葉に、男たちは地面に頭をぶつけるようにしてこくこくと頷いている。これで男たちとその家族は二年もの間、苦しい倹約を強いられることになり、嫁取りも新たに子を成すことも禁じられてしまった。
だが誰も不平を訴える者はいない。シンの忠告を無視すれば神の怒りに触れ、二年どころかこの先の人生すべてが台無しになるとわかっているからだ。
「では戻ろう」
声に出して不満は言わないものの、悔しげに歯軋りし、怒りと失望に目を潤ませている男たちを見ないように、シンはその場から離れた。男たちが後に続くことはなく、シンは一人で帰途につく。
渓谷の壁を這い上り、騾馬で長い時間をかけてアクリオスの城塞まで戻ったシンは、自分の住まいの前に、薄青の法衣を着た男が数名立っているのに気づくと、きつく眉を寄せた。
気づかれないうちにどこかけ逃げてしまおうかと思ったが、疲れて騾馬に乗りっぱなしだったのが災いして、石畳の上に響く蹄の音で彼らにみつかってしまった。
「シン様、王の命によりお迎えに上がりました」
若い男が二人と、その後ろには若いというよりも、まだ幼い子供が一人。シンが騾馬を降りる間にサッと地面に片膝をつき、頭を垂れている。組の男たちよりもう少しは洗練された動きなのは、彼らの方がウディヤと接する機会が多いからだ。
この神殿の祭司たちの目的――王の命令の内容はわかっている。月に一度、夜明け前から神殿内で行われる祈祷式へ、出席するようにということだろう。その支度のために呼ばれている。これで三度目だ。本来なら祈祷は王を中心に行うものだが、半年ほど前からシンが代わりを務めることがあるようになった。高齢の王が、たびたび体調を崩すようになったせいだ。
「わかった、すぐに行く」
まったく気乗りしない内心を表には出さず、暑苦しいフードを頭から外しながら、シンは渋々と頷いて見せるしかない。
日常の生活すら思い通りにできない自分の『ウディヤ』という立場を心の底から煩わしく感じ、不平不満は溢れそうなくらい持っているが、シンはそれを口にすることはできなかった。
(これで儀式の終わる明日の昼過ぎまで、何も食べられやしない)
儀式のために潔斎が必要になる。峡谷での事故を報されたのが今日の朝餉を取ろうとする直前で、ようやくそれを口にできると思って帰ってきたのに。
おかげで眩暈がしそうなほど空腹だったが、さらにこの上、冷たい清水を頭から被って、身を清めなければならない。腹一杯食事をした後は、汗だくの服を脱ぎ捨てて、熱い湯に浸かってさっぱりしようという計画も、台無しだ。
「シ、シン様、私が、お手伝いいたします」
シンの返答に男二人は頷いて立ち上がり、去ってったが、子供がひとり平伏した格好のまま、緊張に震える細い声でそう言った。
自分よりもさらに幼い少年の声を聞いて、シンは彼が誰なのかに気づく。神殿で神に仕える者なんて、普段はまるで気に留めず、相手の名前を覚える努力すらしたことがないのに。
「――ミラ?」
シンが優しい声で呼びかけると、少年のパッと顔が上がる。ウディヤに声をかけられた誇りと喜びと感激に満ちた瞳は、それでもシンを直接見ることはなく、地面に落とされていた。
「は、はい、三日前より、寮に入ることを許されました。神々と、王と、シン様――ウディヤに心からお仕えいたします。何なりと、お申し付けください」
ミラは三つ離れたシンの弟だ。シンは産まれてすぐに神殿で乳母たちに育てられるため親許から離されて、両親とも、兄や姉たちとも、ミラを含めた三人の弟たちとも、一緒に暮らしたことはない。ミラが神殿に出入りするようになったので、姿だけは遠目に見たことはあるが、間近で言葉を交わすのもこれが初めてだ。
触れたこともない弟と自分の面差しが似ていることが、シンには何だか不思議だった。
「では、騾馬を繋いで、水と飼葉を与えておいて。俺は着替えを取ってくるから」
「はい!」
ミラの声は相変わらず震えているが、ウディヤの力を畏れているわけではないらしい。その気持ちも勿論あるようだが、それよりも、シンに対する憧れと、神殿で位階を得るための修行者になったのだという気負いの方が強い。それは、別にシンがウディヤの力、面と向かった相手の心を読み取る能力を持たずしても、簡単に伝わってくるほど素直で剥き出しの思いだった。
熱っぽいミラの視線を背中に感じながら、シンは自分の舎へと入った。成人も迎えていない少年一人が暮らすには贅沢な広さを持つ石積みの建物。周囲の木々が影を作ってくれているせいで、中は少しひんやりしている。人の気配はない。雇っている竈番や掃除婦は外から来る通いの者で、自分の仕事を終えて帰っているのだろう。シンが彼女らと直接顔を合わせることはまったくと言っていいほどなかった。シンがそうして欲しいと頼まなくても、十二の歳でこの住居を与えられて以来、雇われ女は進んでウディヤである子供に近づきたがろうとすることがない。
天井から垂らされている布を腕で掻き分けながら居室に入り、儀式に使う白い法衣と、肌着や浴布などを適当に選んで櫃から取り出す。
何となく、灯りもつけず薄暗い部屋で奇妙に光沢が目につく純白の法衣を見下ろしたシンは、急激にうんざりした気分になると、それを床に放り投げて、自分も仰向けに寝転がった。
「面倒臭ぇ……」
周囲に誰もいないのをいいことに、つい、本音を口から零してしまう。
まったく、どうしようもなく、面倒で面倒で仕方のない気分だった。
毎日毎日、儀式、儀式、儀式。朝な夕なに神に祈り、月に一度は大掛かりな祈祷、季節ごとの祭りに、やれ水害だの、干魃だの、病が出ただの家畜が死んだだの、神の土地を侵しただの、ことあるごとに呼び出されて穢れを祓い――
「もーやだもーめんどくさい、もーやだやだやだやだやだやだ……」
寝返りを打って俯せになり、低い声で藁敷きの地面にぶつぶつと呟き続ける。大声で喚きたいが、そうもいかなかった。壁の向こうにはミラがいる。神に聞かれて不興を買うのは怖くなかったが、自分を尊敬する弟に聞かれて失望を味わわせるのに抵抗があった。
「……でも、やだって言ったって、どーしようもないしなー……」
ひとしきり呻いた後は、そう言って、溜息を吐き出す。
そう、どうしようもないということは、嫌と言うほどわかっている。
シンは誰に説明されなくても、自分が『何』で『何のために』存在しているのか、生を享けたその瞬間から理解していた。
(ついでに、迷わない意志もつけてくれたらよかったのに)
ウディヤの力はアクリオスの人々にとってなくてはならないものだ。たとえシン自身がそんな立場を、力を、どれほど疎ましく思っていたとしても。
神殿にいる高位の神官ですら知らない。神が土地と人々を守ることが『誓約』のせいであるという事実を。シンと、それにかつてのウディヤであり今の王であるクレオだけが知っていることだ。
アクソスは土地とそこに産まれる自分の子供たちを守る誓いの許に、アクリオスを手に入れた。土地を手に入れてから長い年月が経つ間に、人と交わった神の血は薄れ、たった百年足らずの寿命しか持たない人間ばかりが増えるようになった。
人は非力で智慧もなく、ただ神よりは繁殖力が強い。神が千年生きる間に、人はその何十倍と死んで、そのさらに何倍か生まれる。増え続けた人々の大半は自然に抗う力を持たず、ただ祈ることしかできない。そして神はその祈りに応え、自分の子供たちを守らなくてはいけない。
そうするうちに、神の血が薄れたから神の声が遠くなったのか、神の声が遠くなったから神の血が薄れたのか。
(どっちでも同じだ)
要するに、神々も面倒になってしまったのだろう。
人間たちに、自分の力をちょっとしたことで頼りにされるのが。
――全部押しつけられてしまったのだと、シンは思う。
取るに足らない願いを叶えてやっても、人は平然と神域を侵し、土地を穢し、また神に尻ぬぐいをさせる。罰を当てても懲りない。だから神たちはいちいち自分が呼び出されずにすむように、自分の力を無造作に人間に分け与えるようになった。それがウディヤだ。ウディヤが選ばれる根拠なんてない。前の王が死にウディヤが新たな王になれば、健康で丈夫な女の腹に自分の子を植え付ける。
(だから俺とミラは、本当の意味で血が近いわけじゃないのに、どうして顔貌は似ているんだろう?)
ミラのことを思い出すと、物思いに耽っていたシンは我に返り、嫌々ながらに起き上がった。
随分長い間、不貞腐れて床に転がっていた。ミラが外でやきもきしているだろう。
(人の女の腹じゃなくて、その辺の牛とか騾馬とか、いっそ木の実とか岩にでも植えつければよかったんだ)
床に散らばった衣服を拾い上げながら、シンはぎゅっと眉を寄せる。
(……そうすれば、自分の父さんと母さんの顔が俺には見えないなんてこと、なかったのに)
シンは人の識別をほとんどその姿形ではつけない。つけられない、という方が正しいかもしれない。その人の持つ外貌よりも、強い意志や感情を先に感覚が捉えてしまう。
だから産まれる前から息子がウディヤであると神託により知っていた両親の姿が、シンには一度も人の形として見えたことがなかった。
自分に対する怯えと嫌悪の感情が、あまりに強すぎて。
(でもミラは――ちゃんと見える)
ミラの気は澄んでいる。唯人よりも、神の声を聞くことのできる神職者の方が、シンの目にはきちんと映った。ウディヤに対する知識をある程度持っているので、闇雲に畏れたりしないせいだ。神から与えられた力に対する畏怖は唯人よりも強くはあるが、その怒りに触れさえしなければ、ウディヤが人を傷つけられないことを知っている。
ウディヤの使命は、神の代わりに人を守ることだから。
「ミラ、待たせたね」
布でひとくくりにまとめた荷物を手に外へ出ると、ミラが騾馬のそばで所在なさげにしゃがみ込んでいた。
「いえっ」
ミラが慌てて立ち上がり、シンのそばまで駆け寄ると、その場に跪いた。頭上に掲げたミラの両手に、シンは自分の荷物を預ける。ミラがその荷物を大事そうに抱えて立ち上がる前に、シンは神殿に向かって歩き始めた。
ミラはシンの少し後ろをついてくる。夕刻になろうとする陽射しが斜めに射し、ちょうどシンの影がミラのいる方へと長く伸びる。ミラがそれを踏まないよう、注意深く距離を取っているのがわかった。
(ミラと、いろいろ話してみたいけど……)
でもそれは無理だろうと、試して見る前からシンは諦めていた。ミラにとって自分は兄ではなくウディヤだ。一度も視線の交わらない兄弟なんてあるはずがない。
ミラが神官勤めになったことが、シンには少しだけ恨めしかった。離れて暮らしていれば、家族のことなんてそうそう考えないようにできる。でも、目の前にミラがいれば、どうしても考えてしまう。
(……何で俺なんだろう)
ウディヤの選別に意味なんてない。分かれ道で倒した棒の向きに進むくらい、無作為なものだ。
誰よりもそれを知っているのに、どうしてもそう考えてしまう自分が、シンは嫌で嫌で仕方がなかった。




