神子の問いに答えは返らず
クレオの寝室に漂う甘い香りが、シンは嫌いで嫌いで仕方がなかった。
香が焚かれるようになったのは、この半年ほどだ。
シンも儀式の時に使う、感覚を――苦痛を麻痺させる香り。これがきつくなるほどに、クレオの体調が悪くなっているのだとわかる。
(……吐き気がする)
思ったことを、別に口に出したってよかった。目の前で寝台に横たわるクレオにとっては同じことだからだ。
意識のあるクレオの前で、どんな者でも、たとえウディヤでも、本心を隠すことはできない。この男はすべてがわかっている。
シンが今、どれほど相手を憎んでいるのか、その深さも。
(なのにあなたの心がわからないのは、不公平だよ)
クレオに会った最初の頃、その中身はもっと澄んでいた。他の人の心よりも、苦もなくクレオの感情や思考が読み取れるほどだった。
だが今は、クレオの内心がシンにはわからない。見えるのにうまく読み取れない。特に床に臥すことが増えだしてからは、クレオの深いところにある心は、まるでゆうべのような新月、闇夜の森のようだ。暗く、鬱蒼と茂る木々。水の音も鳥の声も響かない枯れかけた森。
あるいは神職者であっても入ることのできない、王とウディヤにしか足を踏み入れることの許されていない、神々の森――この王の宮の地下深くに掘られた、霊廟のような。
「ここを出たい」
隠しても無駄なので、シンははっきりと、自分の思いをクレオに向けた。
ゆうべ神官たちに連れ戻され、舎に帰った後は一睡もできず、夜が明けると共に、こうしてクレオの寝室を訪っている。
クレオに訴えたところでそれが叶うわけもないと知りながら、シンはどうしても、彼に面と向かってそう言いたかった。
「ウディヤでいるのは嫌だ。王にもなりたくない。俺をここから解放して。もう嫌だ」
「……」
寝台で仰向けになり、シンの顔を見上げていたクレオは、シンの呟くような言葉に返事をしなかった。
どうせ期待もしていなかったので、シンは落胆を覚えることもない。
「――異国の者らには、納めた荷に応じ、港にて寝床と食事を与えることにした」
クレオが口にした、自分の願いとは何の関わりもない話題に、シンはただ小さく肩を竦めて応える。
「勝手にうろつかれるよりは、まあ、その方が賢明じゃないかな。どうせ放っておいたって、あなたの馬鹿な息子が手引きして、誘い入れてしまうだろうし」
獣が自分の巣を離れるほどに気が乱れたのは異国人が陸地に上がったせいで、それを許したのは、おそらくヴェロスだ。
シンの中でそれは確信に近かったが、彼を咎めようという気も起きなかった。
そんなことをしても何も変わらない。
ラウフの命も、ファラーシャの壊れた心も戻りはしない。
せいぜい、今までのように、王とウディヤの権限でできる手を打っておくことしかできないのだ。
「そのために、この先、余所者が土地をうろつくことになる。おまえに、護衛をつける」
「護衛……?」
続いたクレオの言葉が意外で、シンは微かに眉を顰めた。
「いりませんよ、そんなもの。神殿兵なんかそばにいたって、俺より役に立つとは……」
反駁しかけた言葉を、シンは途中で呑み込む。
広いクレオの寝室に、自分と部屋の主しかいないはずが、いつの間にかもうひとつの人影が現れ、足音のない動きで寝台の方へ歩み寄る姿が、唐突に目に入ったのだ。
アクリオスでは珍しい茶褐色の髪、薄暗い寝室に溶けてしまいそうに浅黒い肌。青年と呼べるだろう、シンよりは年上に見える男は、衛士の服も、神職に当たるどの装束も身につけていない。
飾りのまったくない、陰気な黒と灰色の服を纏い、笑いもせず、じっとシンのことを見ている。
「フォスという」
クレオが青年の名を口にした。
「フォス……」
シンも彼、フォスのことを見返した。
瞳の色は、磨き上げた黒曜石のような色だった。異国の船が運んできた硝子玉にも似ている。
フォスはシンをみつめているだけで、何も言わない。
シンはふと小さく笑みを零した。
「もうちょっと、愛想があるのにできなかったんですか」
笑いながら言うシンにクレオは応えず、少し疲れたように瞼を下ろした。
シンは笑わずにはいられなかった。
(何が護衛だ)
フォスが自分を守るためではなく、監視のために宛がわれたのだと、シンはわかっているし、それをクレオも承知している。
(この虫と同じだ)
笑ったまま、シンはこめかみの髪を掻き上げ、そのままぎゅっと握り締めた。曖昧な頭痛がずっと続いている。どんな薬を煎じても、治癒法を使っても、それが取れないとわかっている。
「……あなたが死んだら、俺が王になる時期が早まるだけだけど」
こめかみから手を離し、シンは代わりに、クレオの皺だらけの顔にそっと指先で触れた。クレオは眠っているわけではないようだが、瞼を閉じたまま何の反応も示さない。
「でも俺は、俺の目の前であなたが死ぬ姿が見たいな」
クレオの唇はかさかさに乾いている。これでもシンが初めてクレオと会った時、彼はまだ相貌にも体つきにも若さを残した男だった。
(可哀想な、俺の成れの果て)
ウディヤであること以上に、より神に近い王の方がどれだけ厳しい日々を生きるのか、シンにはまだ想像がつかない。
王になる者が唯人よりも早い老いと短い寿命を持つのは、多分神々なりの慈悲なのだろう。
「クレオ様が死ぬ時は、ラウフの分も、ファラーシャの分も、俺の分も、苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて、悔やみながら死んでくださいね」
シンはクレオの頬から、水気も脂気もない白い髪に指先を移した。
「……俺も必ずそうやって死ぬから」
クレオの唇が、微かに歪むように動いた。
それは少しだけ笑っている表情に見えた。
「――じゃ、行こうか、フォス」
クレオから手を離し、シンはフォスに呼びかけた。
フォスは特別返事らしき声も仕種も返さなかったが、クレオの寝室を出ていくシンの後ろを、大人しくついてきた。
◇◇◇
それからもシンは、日々の祈祷やささいな儀式に呼ばれても、すべて無視し続けた。
どうしてもウディヤの力が必要な時だけ――それはシンにとって辛く、でも避けることのできない方法で――人々を守るために儀式を行った。
その必要がない時は、ぶらぶらと城塞の中や外を歩き回るか、気が乗らなければ舎に閉じ籠もって何もせず過ごすか。
「おまえは本当に、馬鹿だなあ」
部屋の石壁に寄りかかり、行儀悪く足を開いて座りながら、シンは部屋の真ん中でじっと膝を揃えて座っているフォスに呼びかけた。
「諾、と、否、しかないのか」
「諾」
フォスが表情のない顔で答えて、首を縦に振る。
「目障りだから、どっか行っちゃえばいいのに」
「否」
「お茶くらい淹れられないの?」
「否」
「……」
部屋の片隅では、火を入れた焜炉の上で湯が煮立っている。
シンは立ち上がって湯の入った器を取り上げると、フォスのそばに近づき、頭からその湯を浴びせた。
フォスは驚いて飛び退ったり、熱さに悲鳴を上げたり、怒り出したりもしない。
ただ髪の先から湯を滴らせ、何の感情もない目でシンを見上げるだけだ。
シンはいい加減な仕種で肩を竦めて、空の器を床に転がした。自分にも湯がかかって、熱い思いをしただけ、馬鹿を見た。
フォスが転がる器を目で追い、手を伸ばして拾い上げると、焜炉に戻した。
「水を入れるんだよ」
少し怪訝な顔になって、フォスがシンを見る。シンは元いた場所に座り直しながら、部屋の片隅にある、木の蓋のついた大きな甕を指さした。
「水は甕にある」
フォスが器を持って立ち上がり、甕に近づく。蓋を床に払い落とし、そのまま甕の中に器を突っ込もうとするので、シンは壁を拳で叩いてフォスの注意を引いた。
「水は柄杓で掬う。床に落ちた、長い、木の、棒。先に丸い入れ物が、ついた」
単語を並べて説明すると、フォスが小さく「諾」と呟き、柄杓を拾い、それを水瓶の中に入れた。
「床に落ちたんだから、洗うんだよー……」
途中で面倒になって、シンはもうそれ以上の説明は諦め、床に転がった。
フォスは真面目な顔で器に溢れるほど柄杓の水を移し、焜炉まで運んでいる。水を零さなかったのだから大したものだ。湯が沸騰すれば、どうせ溢れてしまうだろうが。
「俺の名前は覚えた?」
シンが訊ねると、フォスも元の場所で背筋を伸ばして座り直しながら、「諾」と頷いた。
「シン」
「そう、シン・ウディヤ」
「ソウ・シン・ウディヤ」
「『そう』はいらない、馬鹿」
「……」
シンの叱責が理解できなかったのか、フォスは応えなかった。シンは気にせず続ける。
「シン・ウディヤ」
「シン・ウディヤ」
「おまえは、フォス」
「私は、フォス」
フォスは言葉を覚える鳥のように、シンの言ったことをそのまま口に出して返す。
フォスが覚える単語が増えるごとに、シンの中の虚しさがゆっくりと膨らんでいくようだった。
「なーんで、おまえなんかと一緒にいなくちゃいけないんだろうなあ、フォス」
呟いたシンの言葉は長すぎて覚えきれなかったのか、またフォスが止まってしまった。
「せめて可愛い女の子とか……クレオ様は全然気が回らない、自分はあんなに女好きの好色ジジィのくせに」
「……」
「俺にはさ、せめて……せめて、別に愛情なんて返してくれなくたっていいから、俺が一方的に好きになるのでもいいから、一緒にいるだけで嬉しいとか、楽しいとか、守りたいとか……そういう、大事な人が、できたりしないのかなあ……」
「……」
「……ま、無理だよなあ……」
黙りっぱなしのフォスを眺めて独り言を言う自分の目から、ゆっくりと零れ落ちて頬を伝うものがあるような気がしたけれど、シンはそれを拭いはしない。
指で触れればそれが何だかわかってしまう。泣いてなんかいない。
(自分が大事に思えるような人もできっこないのに……たったひとりでもいいから、自分に心を捧げてくれる人が欲しいとか、そういうこと考えるのは……フォスがいくら俺の言葉が理解できないような馬鹿だって、口に出すのは、みっともないよな)
でもどこかにそんな人がいないかと、シンは考えてしまう。
自分がまだそれを諦めていないことに、驚きながら。
「人間って、欲深いよなあ、フォス……」
でもそれを望まないことには、シンがこの土地で生き続けることは、無理な相談だ。
「聞いてるのかよ、フォス」
息が詰まりそうに切望するものの手に入れ方なんてまったく思いつかないまま、シンは返事のできないフォスにまた、しつこく呼びかけた。




