運命かもしれない騎士
「おお、すまない、起こしてしまったか」
驚いて目を瞠り、小さく身動ぎしたシンに気づいたのか、頭上から少し慌てたような声が降ってきた。
その声に返事を向ける余裕もなく、シンの視線は、目の前に置かれたものに釘付けになってしまう。
「この花……」
小さな花弁を持つ、黄色い花が一輪。
横たわった自分の枕許に置かれていることに、シンは驚いていた。
寝起きで霞む目を擦り、重たい体を無理に起こそうとすると、傍らに人が寄り添うように座ってそれを手伝ってくれた。
「気分が悪くはないか?」
心配そうに訊ねてくる声に適当な頷きを返しながら、シンは黄色い花を指先で摘み上げた。
(……違う)
気づいて、シンは小さく息を吐く。
これは、神域で取れるあの花とは――彼女の好きだった花とは、似た色と形の違うものだ。その辺りの川辺に咲いている、ごくありふれた植物。
「いい香りがするから、見舞いにと思って、摘んできたんだ」
照れ笑いの気配がするので、シンがようやく彼の方へ首をめぐらせると、声音のとおりどこか気恥ずかしげにした若い男の顔が近くにあった。彼自身も、自分に花など似合わないと承知しているのだろう。
西方大陸一と謳われた、ロード・グランツ。その名を呼ばれることを本人は嫌がるが、そのしなやかで逞しい体つきも、生気に溢れた明るい緑色の瞳も、彼が主を喪い騎士と貴族の称号を捨てた今もってなお、彼が英雄として語られるに相応しい男であると見る者にわからせる。
はずだ。
(でも何かどうも、間が抜けてるんだけど、この人)
シンはシンで、驚きを顕わにしてしまった照れ隠しに、わざと矯めつ眇めつして花を眺めてみたりする。
「男に花って、ねえ」
「だが君には似合うと思うぞ?」
「……」
むしゃくしゃしたので、摘んだ花をグランツの髪に挿してやった。グランツも驚いたように目を剥いて仰け反り、慌てて花を払おうとするので、シンはそれを制するように口を開く。
「それ、葉を煎じると、虫の毒で手脚の末端が痺れる症状を緩和させる薬になるんだ」
「お、おお、では、捨ててしまっては勿体ないな」
グランツはまた慌てて、花を大事そうに両手で握り締めた。
生真面目な顔で頷くグランツに笑いを漏らしてから、シンは今さらになって改めて、自分のおかれた状況を確認する。
(ああ……やっぱり、しばらく寝てたんだ)
ケレイスでの儀式を行い、気を失ってから一度目覚め、グランツと少しだけ話をして、また眠ってしまった。
その後も何度か夢うつつで目を覚まし、グランツと言葉を交わしたはずだ。
その間ずっと川縁に寝かされ続けていたらしい。そばで火が焚かれている。グランツの熾したものだろう。
太陽の位置から、今が朝方だということがわかった。夏の暑い時期なので野宿でも辛くはないし、グランツが柔らかい草の上に寝床を作ってくれたようだから、儀式のせい以外で体が辛いようなこともなかった。
「……」
この川縁で最初に目を覚ました時にグランツと交わした言葉の数々が急に胸の中に溢れかえってきて、シンは言葉には出さず、ひっそりと動揺した。
(俺が、は……恥ずかしい、とか)
いっそ苦痛に紛れて、妙な夢を見たのだと言い訳できればよかったが。
しかし自分が泣きながらグランツに訴えた言葉や――それに応えてくれたグランツの言葉は、まるでつい先刻交わしたもののように、シンの心に生々しく染みついている。
誰かに弱音を吐いて同情されたことも初めてなら、人に泣き顔を見せたのだって、生まれて初めて経験だ。
「どうした、シン殿。やはりどこか酷く傷むか?」
赤くなりつつある顔を片手で押さえ、溜息をつくシンの仕種に気づいて、グランツが心から案じる調子で訊ねてくる。
まったくこの男くらい、ウディヤの力で本音を読むのが馬鹿馬鹿しい相手もいないと、シンは頭に昇った血を押さえようと努めながら、思う。
グランツは思ったことしか言わないし、言ったことしか思わないから、誰が相手だって嘘をつくのは至難の業だろう。
「俺、何日眠ってた?」
どうにか気を取り直し、シンはグランツに訊ねる。グランツがすぐに応えた。
「儀式から、今日で二日目だ」
「――よかった。他の人たちもまだケレイスにいるでしょう? 出かける支度をしないと」
「そうか……」
グランツはまだ懸念に満ちた、物言いたげな顔をしていたが、何も言わずに頷き、立ち上がるシンに再び手を貸してくれた。
「着替えは君の弟君が持ってきて、そこにある。手伝おう」
「え、いいよ、ひとりでできるよ」
「しかしその傷では腕を回すことも辛いだろう」
グランツはてきぱきとシンの身につけていた服を剥ぎ、有無を言わせず、替えの服を着せてくれた。
「手慣れてるなあ」
少し意外な心地でシンは呟く。シャリエでは貴族だったというグランツが、他人の着替えを手伝うことに慣れているふうなのが不思議だった。
「鎧を着せるのはもっと上手いぞ。従騎士の時に散々やったからな」
どうやらグランツの故国では、ある程度身分の高い人間であろうと、人の世話をすることは珍しくないらしい。アクリオスでは貴人の身の回りの世話は端女の仕事だ。西側に住む人間が、東側に住む少女の中から、眉目のいい者を連れてくる。シンは怯える相手に自分の体を触れられたくないので、着替えまでを他人に任せることはなかったが。
(グランツさんは俺に触るのを嫌がらないし……俺も、グランツにさんに面倒見られるの、別に嫌じゃないみたいだ)
「食料を分けてもらったから、シャリエ風だが、粥を作ってみた。シャリエ風というか、戦場風というか……味付けが合うといいんだが。また騾馬に乗るなら、体力をつけないといけない」
グランツは料理までやってのけるらしい。シンの粥の基準からすればやたら塩が濃くて脂っ気の多い食べ物だったが、疲れた体には染みいるように美味しくて、胃に入れるたびに少しずつ力が湧いてくる感じがする。
「手当してくれたのもグランツさんだよね」
火を囲んでふたりで料理を食べながら、シンはグランツに訊ねた。
少し離れた木のそばで、いつの間にかフォスが突っ立っていることに気づいたが、どうせ呼んでもフォスが自分と一緒に食事を取るようなことがないのはわかっているので、気づかなかったふりで目を逸らす。
二年近くも一緒に暮らしているのに、フォスとシンの間には意思の疎通がないままだった。
それなりの単語を覚えたはずのフォスは、一度もシンの望む台詞を口にしてくれたことがない。
それをわかっていながら、飽きもせずフォスに言葉や行儀作法を教え続けた日々の最後の方は、もう惰性とか暇潰しとかしか表現しようがなかった。
「ああ、こんなことなら、手当の道具を持たせておいてもらえばよかった。薬も包帯も、天幕にいる人たちから半ば奪うようにもらってきてしまった」
フォスの存在には気づいていないらしいグランツが、悔やむようにそう言う。
シンが儀式のために自分で傷つけた手首や胸には、清潔な包帯がぴったりと、几帳面に巻かれていた。緩くもきつくもない、見事な巻きっぷり。
「どうせそろそろ傷はくっつくし、放っといても治るんだから、よかったのに」
木の匙で粥を口に運びながら言ったシンに、グランツが大きく眉根を寄せた。
「傷は清潔にしないと、塞がったとしても感染症にでもなったら、君が辛い思いをするんだぞ」
シンはグランツには応えず、ただ曖昧に笑って肩を竦めると、空になった器におかわりを要求した。
そう、傷が塞がったとしても、悪い菌が入れば感染症になって、苦しみはする。だが苦しいだけで、その菌も人より早く死滅してしまうし、傷が悪化したところで死にはしない。
普通の怪我の時とは違って、儀式の傷は治癒法で治せないから、本当にただ、苦しいだけだ。
いつもなら誰もシンの手当なんてしない。ウディヤに触れることを畏れる人たちが、わざわざその怯えや禁忌を押してまで治療してくれることなど、あるわけがない。
「グランツさんが俺の手当をするって言ったら、すごく反対されなかった? あの人たち、あなたが俺に……ウディヤに触れるなんてとんでもないって、怒ったと思うんだけど」
畏れ以外の理由でも、ウディヤに唯人が触れれば穢れが移ると、近づくことすら禁じられているのだ。余所者であるグランツがシンの手当をする素振りなど見たら、神殿兵たちも、ミラも、烈火の如く怒り狂ったことだろう。シンが二度としないよう命じたから、グランツを殺そうとすることまではできないだろうが。
その時の様子を想像しながら訊ねたシンに、今度は、グランツが肩を竦めて見せる番だった。
「私には君の国の言葉がわからないからな」
シンは少し、首を傾げた。
シンを見返し、なぜか胸を張って、グランツが続ける。
「彼らの言っていることは通じないながらもわからないでもない気がしたが、知るか! と一喝して強奪してきた」
「……知るか、って……」
威張って言うグランツの様子がおかしくて、シンは思わず、声を上げて笑ってしまった。
釣られたようにグランツも笑い出す。
笑うグランツは、出会った最初の印象よりも、その後に髭を剃ってやった時の雰囲気よりもさらに若々しく、くすんでいたはずのその金髪が、シンにはやたら綺麗に、光のように輝いて見えた。
眩しくて、少し目を細めるシンの表情に気づき、グランツが不思議そうに首を捻っている。
「うん?」
「何でもないよ」
シンは笑ったまま応えて、グランツの作ってくれた粥を、麦の一粒まで平らげた。
腹一杯になると、シンはグランツと一緒に野営の跡を片づけ始めた。体の傷はほとんど塞がりかけ、痛みは残るが、我慢できないほどではない。我慢なら生まれてこの方慣れている。
それよりも辛いのが体の重さで、休み休み片付けをしているシンを見て、グランツがまた心配そうな顔になっている。
「行かなくてはならないのはわかるが、せめてあと一日くらい休んだって」
「無理。ケレイスの惨状、グランツさんだって見ただろ。ああいう場所がまた生まれてるかもって思うのに、じっとしてるわけにはいかないよ」
強がりではなく、シンは本心から、そう答えた。
答えるしかなかった。
ウディヤの運命と役割から逃れることはできないのだ。腹立たしいことに――ケレイスに旅立つ前、クレオが言ったとおり。
あの集落の有様を、人々の骸を、穢された神獣の姿を見た瞬間、これを放っておくわけにはいかないと、強く思ってしまった。
ウディヤであるというのは、結局、そういうことなのだ。
力でも、群れの中の立場でもない。
ただ、心のありようが。
(俺がそうであることはなぜかというのは、どうしても、別として)
二年近く以前のあの夜、たとえクレオの邪魔が入らなかったとしても、きっと自分はこの島を出ることができなかっただろう。
今さらになって、シンはそれがわかった。
「そうか……」
グランツもまた、それ以上シンに言い募ることはなかった。
うるさいことを言わない代わりに、シンのそばに付き従って、助けになることを決意しているのがありありとわかる。
その気持ちがシンには嬉しいが、口に出すのは何となく悔しくて、黙っておいた。
野営の跡を綺麗に片づけ終え、ケレイスで気を揉んでいるであろう神殿兵たちのところへ戻る途中、グランツがふと思い出したように懐から何かを取り出してシンに示した。
「そうだ、君に頼まれたものを、言われたとおり集めておいたが――」
手渡そうとしてくるグランツに、シンは慌てて掌を向けてそれを制する。
「グランツさんが持ってて、俺、それに触れないから」
「ん? わかった」
グランツは元どおり、自分の懐にそれを戻す。意識を失うように眠っていた合間、何度か浅く目を覚ました時、ケレイスに落ちていたあるものを拾ってきてほしいと、グランツに頼んでおいたのだ。
グランツはシンがまともに目を覚ましてから、うるさいことをあれこれと言わなくなった。
あれだけ連呼していた亡き主の名すらも。
(俺に気を遣ってるのかなあ)
そう思うとシンは少し据わりの悪い心地になったが、自分からノルベルトの名前を蒸し返す気も起きず、黙っておいた。
「フォス!」
片付けをしている間も、終始離れたところで突っ立っていたフォスにシンが声をかけると、やっとその存在に気づいたグランツが驚いたように目を瞠る。
「い、いつからいたんだ、まったく気配に気づかなかったぞ……!」
驚くと同時に、グランツはささやかながらに武人としての自信が揺らいだような様子でもあった。人がひとりじっと自分たちの方に視線を向けていたのに、察することができなかったんて。
「グランツさんと分けて、荷物持って」
フォスにそう指示を下し、シンは儀式で使った小剣を腰に差した。
剣を見ながら、グランツがやたら遠慮がちに、何度も迷う素振りを見せながらも、おずおずと口を開く。
「……シン殿、そのう、しつこいようだが、やはりその剣を、一度私に預けてもらえないだろうか……」
「え、何で? 敵を斬るものじゃないし、俺が斬れればいいだけだよ?」
答えたシンに、グランツはビクッと怯える顔になった。
怯んだグランツの表情で、シンはやはり彼もウディヤという立場に畏れを抱いたのかと、一瞬、落胆しかけた。
「だ、だから、もしあれが君にとってて避けられないものだとして、だとしたら、そんな刃こぼれしたようなものを使うのは……より痛みが増すじゃないか……!」
「……」
だがグランツは、まるでその痛みを自分が味わっているかのごとく、腕で自らの体を抱き締め、身悶えして、涙まで浮かべながら叫んだ。
どうやら彼なりに、多分誰よりも、シンのことを心配した挙句の提案らしい。
儀式について納得はしていないが、でもよりマシな方にと、葛藤が溢れて見えるような雰囲気で。
「あー、うん……じゃあ、頼もうかな……」
「よし、任せてくれ!」
ひったくるように、グランツがシンの小剣を奪い去った。
儀式で使う神聖な剣を余所者のグランツが触れたりしたらアクソスの怒りに触れるのではないかと思ったが、グランツは何の罰を得た感じもなく、まだ想像の痛みを味わっている様子で、奪い去った小剣を自分の腰に差している。まるでシンの側にその剣があるのも嫌だという素早さだった。
(儀式の時じゃなくても、それ持ってないと、大きい力を使うのが面倒なんだけどなあ)
ミラたちがシンの剣をグランツが差していることに気づけば、またもう一悶着あるだろうから、まあその時に取り戻せばいいやととりあえず諦める。
シンは少し笑って、一度大きく息を吐き出した。
薄々――本当に薄々と、もしかしたら、グランツが、自分がずっと望んでいたものなんじゃないかという予感は、シンの中に浮かび上がってきてはいたが。
運命の人、という言葉が浮かんだ瞬間、シンはちょっとだけげんなりした気分を味わった。
だが概ねは悪い気分ではない。
「じゃあ、行こうか」
呼びかけると、グランツが気を引き締めた様子で、フォスがいつもの無表情のまま、頷く。
シンは彼らと共に、ひとまず連れの待つケレイスの集落へ向かって、歩き出した。




