少年神子は騎士を欲す
城塞の奥深くにある宮殿は、夏だというのに暑さとは縁遠い。建物の周辺を深い森が覆って陽射しを遮り、地下深くに掘られた墓所から冷気が立ちのぼってくるからだ。
アクリオス王クレオは一日のほとんどをこの宮で過ごし、公務の時だけ隣に建つ別の宮に移る。王との謁見は決まった日と時刻と場所と人数に制限され、許可が下りるまでに何人もの役人の間を経由しなくてはならず、時間がかかる。
だがこの国で唯一、シンだけが先触れのない伺候、直接王の私室にさえ足を踏み入れることが許されていた。
「まだお休みになってらっしゃったんですか」
幾重にも紗を垂らした天蓋付きの寝台に、枯れ枝のような四肢を持つ老人が仰向けに横たわっている。蝋燭も灯されない部屋は広く薄暗く、外から聞こえる葉擦れの音や鳥の鳴き声以外に物音もない。部屋の四隅に置かれた卓香炉から流れる甘い香りが強すぎて、シンはいつものようにその匂いを嗅いだ瞬間、眩暈を堪えるような顔をした。
揺れる頭を宥めてフードとマスクを外しながら、シンが寝台のそばまで近づいて見下ろすと、クレオが目を閉じているわけではなく、凝然と瞼を開いているのがわかる。
「――シンか」
「おはようございます、クレオ様」
嗄れた声に対して愛想よく微笑んで応えると、シンは宙に差し出されたクレオの細い手を取った。頼りない見た目を裏切って、クレオの指がぐっとシンの腕に食い込む。痛みを感じてシンは微かに眉根を寄せたが、口に出しては何も言わなかった。
クレオが寝台の上に半身を起こし、シンは片腕をクレオに捕らわれたまま、片手でそばにある水差しを取り上げた。水差しを差し出すと、クレオがようやくシンから手を離し、それを受け取る。ごくごくと音を鳴らして動く、やはり枯れ枝のようなクレオの喉頸を眺めながら、シンはその乱れた髪をそっと直した。かつてはシンと同じく青みがかった黒色をしていた髪は、老いのせいですっかり灰色に変わっている。瞳も年齢と病のせいで白く濁り始めていたが、クレオにとっては目に見えるものなどさほど意味がないことをシンは知っている。
「余所者を連れ込んだか」
そしてクレオに対し、仰々しい挨拶や冗長な説明が必要がないことも。
「シャリエからのお客人だそうですよ。ロード・グランツ、ご存じです?」
「神域を荒らした」
「そう、それで、彼の命乞いにまいりました」
クレオが空になった水差しをシンの胸に押しつけ、シンはそれを受け取ると元あった卓の上に戻した。
「あれの命を俺に下さい。飽きるまでは手許に置いておきたい。いいでしょう?」
アクリオスに一歩足を踏み入れれば、そのすべての命は神の直系と言われる神聖王の所有物となる。人も動物も植物も、余所者も。王の機嫌一つで運命が左右される。
拒まれることなど念頭にもないという口調で言ったシンに、王が咳くように笑った。
「相変わらずの驕慢よ。おまえでなければ縊り殺している」
「できもしないのに言わないことですよ。こんなつまらない理由で俺を殺しては、俺の無駄遣いです」
クレオがもう一度笑う。
笑いながら、その濁った目に侮蔑の色が滲んだ。
「放蕩もほどほどにせよ。神事に携わることなく、修練を行うこともなく、ほしいままな振る舞いばかりの神使に民がついてくると思うてか」
終わりの方は吐き捨てるように言ったクレオに対し、シンも隠すことなく不快感を表す口調になる。
「神域を荒らす不埒者を捕らえたのだから、義理は充分果たしていますよ。大体俺に修練なんて必要ない。それを一番ご存じなのはあなたでしょう、神聖王」
「ケレイスの集落からの連絡が途絶えたと聞く」
含みを込めて呼びかけたシンの挑発に、クレオは乗らなかった。唐突に思えた話題の変換に、シンは小さく首を傾げた。
「夏前に移動しただけじゃなく?」
「不吉の香りがする。様子を見てまいれ」
命令の口調で言うクレオの意図を察して、シンは再び不快な気分で目を細める。
「交換条件、というわけか。俺は割といい子でいるでしょう? 監視までつけておいて、この上何を望むんですか? 服従? まさかね!」
知らず、声が荒らげられていく。笑おうとしたシンは、自分を凝視するクレオの顔を見て、そのまま表情を歪めた。
「運命と役割から逃れることはできぬぞ、シン」
「――黙れ」
平静を保とうとしても、シンの腹の底から不愉快なざわめきが迫り上がって止められない。王に対して最低限示そうとしていた礼節など塵のように吹き飛んだ。どうせ意味のないものだ。なぜならクレオはシンの心の中などすべて見抜いている。老いて視力を失いかけた瞳で。本心など隠すだけ無駄だ。
「うるさい……うるさい、黙れ!」
部屋のあちこちから漂ってくる甘い香りが鼻をついて苛立つ。甘い果実が腐る匂い。鼻腔から脳へと侵入する感覚。シンはぐらつく頭の中身を抑えるように、拳で目許を覆った。脳の奥まで達した腐臭は、そこに眠っていた不愉快な異物を目覚めさせる。異物の声が聴覚を通さず、直接シンの頭に何かを囁く。囁きはいつもうまく聞き取れない。
「殺してやる」
頭の中を這い回る異物に対してか、目の前にクレオに対してか、シンは自分でもわからないまま低い声で吐き捨てた。
「神殺しは大罪ぞ」
嘲笑するクレオの声で、シンはようやく我に返る。額に――体中にびっしりと汗を浮かべたまま、寝台の上のクレオを見下ろして笑う。
「――知ってます。だから所詮、あなたも俺を殺せない」
シンの返答に、クレオも嗄れ声で笑いを返した。
「ケレイス行きには神殿の兵と雑役をつけてやる」
クレオの言葉に何か言い返しかけてから、シンはそれを呑み込んで、別のことを口にした。
「遠慮なく借り受けます。どうせそう遠くない未来には俺のものになる道具だ」
「明日には出立せよ」
「ではしばらくは拝謁も叶いませんが、御身、御大切に」
それまでの態度を翻し、仰々しいほど慇懃な態度になって、シンは深々と頭を下げ、クレオの片手を取ってその甲に口づけた。枯れ枝の指を握ったまま、目を上げてクレオを見遣る。
「俺が戻ってくるまで勝手に死なないでくださいね。この暑さでぽっくり逝かれてもつまらない」
「下がれ」
クレオに命じられるまでもなく、シンはその手を離すと、寝台のそばで踵を返した。
王の寝室から人影のない広い廊下に出ても、あの甘い腐臭が自分を追ってくる気がして、シンは知らず早足になった。腕の辺りの匂いを嗅いで、それがすでに染みついていることを確かめると、不快な心地で布を払う。不快感はそのまま嘔吐感に変わり、建物を出たところでシンは軽く身を屈めると地面に吐瀉物を撒き散らした。クレオと会った後はいつもこうだ。気がすむまで胃の中のものを吐き戻し、目許と口許を乱暴に法衣の袖で拭うと、立ち上がって大きく息をつく。
フードとマスクで顔を覆い、そのまま何ごともなかったかのように歩き出す。神殿を囲む外構えの門を出ると、門番がシンの姿に気づいてその場に素早く跪く。シンは足許を這う虫に対するよりも無関心な顔でそのそばを通り過ぎた。
シンが神殿から町の通りに出るまで、何人もの神官や祭司や巫女とすれ違い、そのたび彼らは仕事の手を止めて跪くが、シンはそれらすべてに目もくれない。町に出れば、聖職者たちのように跪きはしないものの、シンとは血の関わりがない民たちが目と頭を伏せて、規範に従い礼を示す。
立場も態度も違えど、シンを見る者の表情は皆一様だ。尊敬と畏れと嫌悪。そんな眼差しを他人から向けられることに、シンはすでに慣れきっている。だから視線をくれてやる気も起きない。
たかが十六歳にしかならない自分に対し、大人たちが跪き、頭を垂れる姿を視覚ではなく感覚で味わいながら、シンは喉の奥で小さく笑い声を漏らした。
「おまえらじゃないんだよ、俺が欲しいのは……」
いささか品のない、下層階級の若者のような言葉遣いで、呟く。何を勘違いしたのか、そばにいた老女がありがたそうに額の前で両手を組み合わせるのを見て、シンはつい彼女の方へ目を向けてしまった。さらに拝まれたので、ついでに慈悲深い微笑みを向けてやった。
「主神アクソスの恵みがありますように」
「おお……!」
声をかけられ、感激したように涙を浮かべる老女やその周囲にいる者たちをあとは無視して、シンは自分の住処へと戻った。
奥の部屋に足を向けると、例の異国の英雄はシンが出ていった時と同じような格好で、まだしつこく顔中を涙で濡らしていた。フォスもそのそばで、馬鹿みたいに同じ体勢で座ったままだ。
泣き続けているグランツの瞼はさらに腫れ上がり、目が糸筋のようになっている。シンは呆れて溜息を漏らし、口の中でアクソスの祝詞を呟きながらグランツのそばに膝をついた。
シンに気づいたグランツが、聞き慣れない言葉を聞いてその意味を問おうとするより先に、シンは彼の腫れ上がった醜い目許に、マスクを外した唇をつけた。
「!?」
ぎょっとして、グランツが後退さろうとする。だがシンが指先で頤を押さえる仕種一つで、その動きが止まる。グランツはますます驚愕した顔で、間近のシンの姿を見ていた。
「うぇっ」
グランツの両目の際を唇でなぞってから、シンは顔を顰めて身を退いた。口の中一杯に苦くて、なのにどこか甘い味が拡がっている。反射的に出してしまった舌に指で触れ、シンはそれを味わうように目を閉じ、一人で頷いた。
「……成程、こういう味か」
「なっ、な、な、一体、何を、君は……ッ」
「目の腫れ、治ったでしょう?」
見苦しいほど狼狽するグランツに向け、シンは微笑んで見せた。グランツは一瞬きょとんとしてから、また驚きに目を見開く。すでにその目は糸筋ではない。赤く血走っていた白眼も、元の色を取り戻していた。
「これは……」
「これが治癒法。あなた本当に効きやすいよね」
シンはへどもどしている騎士から、フォスの方へと視線を移した。
「明日早朝にケレイスに向かう。支度を」
フォスはシンの短い言葉だけで、何もかもを心得た様子で頷いた。無愛想な顔で立ち上がるフォスを、わずかに口許を歪める笑いで見遣ってから、シンはすぐに明るい笑顔を作り直してグランツに目を戻した。
「あなたも連れていくから、そのつもりでね、グランツさん」
「連れていく……どこへ?」
グランツは上機嫌に見えるシンの顔と、仏頂面で部屋を出ていくフォスの背中を交互に見遣って問い返している。
「毒蛇の巣穴、かな」
「?」
「勿論馬には乗れるよね。って言ってもきっとあなたがシャリエで乗っていたような軍馬じゃなくて、騾馬だけど。装備は全部調えてあげるから安心して、簡単に死ねない程度にね」
「まさか……私を戦場にでも駆り出す気か? ならすまないがそれはできない相談だ。単独の旅ならともかく、私はノルベルト様以外のために剣を取る気などもう」
「何言ってるの、あなたは荷物」
「荷物番?」
「違う、俺の所有物。何なら騾馬の引く荷台に括りつけてあげてもいいよ。置いていったら、勝手に殺されるか殺されようとするかのどっちかだろうから、持っていくんだよ」
「……」
困惑気味に、グランツの視線が宙を彷徨う。シャリエの英雄は、まさか自分を荷物扱いする年下の少年がいるなんて、思いもかけなかったことだろう。
「喜んで、ケレイスは多分とても危険な場所だから。それに行き道で他国の敵に遭遇するかもしれないし」
シンの言葉をグランツは把握しきれないようだったが、『危険な場所』と聞いた時にはその瞳が期待に輝いた。唇の中で失った主の名を呼んだようにも見える。
そんなグランツの様子に、シンは無邪気な――少なくとも相手にはそう見えるであろう――笑みを零した。
「でもたとえグランツさんの首が胴体から切り離されても、俺がくっつけてあげるからね」
もう一度、グランツが先刻よりはっきりした声、違うニュアンスでノルベルトの名を口にした。神の名を呼ぶように。
の情けない顔を見た時、王宮から延々と引き摺っていたむしゃくしゃした気分が急に晴れ、シンは明るい笑い声を立ててしまった。
八つ当たりしたことはちょっと悪かったなと思いつつも、シンがこんなに爽快な気分になったのは、随分と久しぶりのことだった。




