ただ、祝福を
神殿の広間では、すべての支度が調っていた。
焚きしめられた、苦痛を和らげるための香。クレオの部屋と同じ匂い。
床に額を擦りつけながら呪文を歌いつづける神官たち。
その中心までローブの裾を引き摺って歩き、手にした髑髏を準備された台座に据える。クレオの前の王――ウディヤだった者の骨。
広間の中の空気が、陽炎のように揺らいでいる。燭台の上で揺らめく蝋燭の炎と混じるように、ねっとりとした熱を持って渦巻き始めている。
神官の――城塞内すべての人々の紡ぐ呪文が、祈りが、ゆっくりと力になってシンの許へと集約しつつあった。
神殿中の人間で行った儀式はあるが、城塞内のすべての人間が祈りを捧げる状態で行うのは、これが初めてだ。
「……すごいな。思ったよりも」
呟きながら、シンは儀式のための剣を鞘から抜き出した。
――これなら、大丈夫かもしれない。
グランツが研いでくれたなまくら剣の刀身を宙に翳し、人々の祈りがそこに向かうよう、シンも高らかに呪文を唱え始める。
神殿の中にいながらにして、シンの目は別の場所の様子も捉えていた。
アクリオスの港へ着々と近づくヴルカーノの軍船。
宮殿のクレオ。
城塞内の別の部屋にいる、クレオと同じ格好で寝台に横たわるフォス。
自分の舎で、庭で、道で、神官たちと同じように額を地に擦りつけて祈り続ける人々。
城門の物見櫓によじ登り、その影に目を凝らすようにしているグランツの姿。
近いようで遠く、遠いようで近い場所にいる神々の姿。
――これだけあなた方の子供が必死になってお願いしてるんだ。聞き入れてくれたっていいでしょう?
天井に向けていた小剣の切っ先を、シンは手首を返して自分の方へと向けた。いつものように。
そしていつもより澄んだ心で、何の怖れも怯えも怒りも恨みもなく、迷いなく剣を自らの左胸に突き立てた。
◇◇◇
猛烈な風が、城塞の北側にそびえる山の方から吹き降りてきた。
グランツはあやうく物見櫓から身を投げ出されそうになり、慌てて石壁へと身を寄せる。低く屈まなければ、大柄なグランツの体が紙切れのように飛ばされそうな強風だ。
「……シン?」
風は山から吹いているのかと思ったが、違う気がする。
これは多分、自然に起きた突風ではなく――シンの祈りが生み出した風だ。
数十メートルの高さから吹き飛ばされていれば、いくら頑丈なグランツでも無事ではすまなかっただろう。石壁の高さより上に身を出せば、頭がもぎ取れそうな強さだったのに、しかしグランツには、その風が心地よくすら感じられて不思議だった。
「護りの風だ……」
自然と、そんな言葉が口を衝いて出る。
この国の言葉で何と呼ぶのかは知らない。だがこの風はシンがアクリオスを、グランツを護るために呼び起こした風だ。
だからグランツには心地いい。泣きたいほどに。
「……彼を護ってくれ……」
どの神をも信じないグランツは、自然に両手を組み合わせて額に押し当て、櫓の床に突っ伏した。余所者の自分の祈りなど、何の足しにもならないかもしれないと思いつつ、そうせずにはいられなかった。
◇◇◇
港に近づこうとしていた船が、突風と大きな波に翻弄されて立ち往生している。
――このまま、余所からの船が、アクリオスに近づけないように。
激痛に耐えかねて床の血溜まりに膝をつきながら、シンは喉を引き絞るように唱文を続ける。
少しずつ、だが確実に、ヴルカーノの軍船が群島から遠離っていくのがわかった。
祈りが効いている。
シンたちが願うのは、余所者を追い払うことではない。ただ風を起こし、海を荒らして欲しいと、それだけを神々に頼み続ける。
シンは意識を失わないよう、胸に刺さったままの小剣の柄を必死に掴んだ。それを一気に引き抜く。激痛。もう一度、今度は少し場所をずらして同じように剣で胸を貫く。体の中が傷つき、逆流した温かい血液が唇から零れる。
神経が異様に研ぎ澄まされ、いつもよりもずっと遠く、様々な場所が明瞭に見える分、苦痛もいつもより酷かった。
だが手応えを感じる。
このままであれば、ヴルカーノの船を一隻も近づけることなく追い払い、当分近づけなくなるようできるかもしれない。
――でも。
もう一度剣を引き抜こうとするが、シンの指にはまったく力が入らない。
――ああこれは、何て言うか、こう、駄目かも。
消耗が激しすぎる。
体から暴力的に、根こそぎ、力が持って行かれている感じがする。
集まった力が大きすぎて、まるで制御できていない。
シンの中で、かつて味わったことのない死への予感が、ぽつりと浮かんだ。
指先ひとつ動かすこともできずに自分の作り出した血の池に横たわりながら味わうその予感は、とても甘くて、とても怖ろしい。
――俺が死んだら、グランツさん……カレルは泣くかな。
真っ先にそんなことが浮かんだ。
――泣くよね。
微かに笑うことができた。
――でも俺はあなたを守ることができて、本当に嬉しいんだよ。
死にたくない、と生まれて初めてシンは思った。いつもさっさとこんな運命から、一人ぼっちの世界から逃れて、自由になりたいと願っていたのに。
「……クソ……死にたく……ないなあ……」
声にならない声で呟く。だがこの祈りが神々に届かないことはわかっている。死にたくない。生きて、グランツと共に過ごしたい。
ふとその意識に捕らわれた瞬間、シンはきつく歯軋りした。
――風が弱まってしまった。
――まったくうちの神様ってやつは、底意地が悪い。
きっとウディヤが、余所者のグランツのことを、自分たちより強い気持ちで想ったことが気に喰わなかったのだろう。ヴルカーノの侵攻を許せば自分たちの国が滅びるというのに、そんな道理も通じない。
シンは懸命に頭の中からグランツの存在を追い払い、神々やアクリオスの人々のことを想おうとした。
――クレオ様……父さん、母さん、兄さんたち、ミラ……ファラーシャ……神官たち……。
今はそれも、シンの守りたい人たちだ。たった一人心から大切だと想う人ができただけで、この世界すべてが愛しくなるのだから、自分も調子がいいなと笑う。
――俺が死ねば、今ヴルカーノの手から逃れても、この国は王とウディヤを一遍に失くしてしまう……。
それは結局、アクリオスにとっての不幸だ。アクリオスは外敵を防ぐ手立てを失い、滅び行くだけだ。
「……たくない……死にたくない、死にたくない……ッ」
ヴルカーノの船が、再び動き出した。逆風に怒り狂ったかのように、さらに速度を上げる。揚陸用の端艇が海面に下ろされ始めた。城塞を破壊するための巨大な投石機と共に。
力を振り絞り、シンは床の上で身を起こし、唱文を続けた。神官たちも歌い続ける。風が吹き止んだわけではないのに、ヴルカーノの兵たちはそれをかいくぐり、とうとう港に兵と投石機を乗せた端艇が辿り着いてしまった。
シンは自分でも信じがたい力でもう一度剣を体から引き抜いた。なぜまだ動けるのかわからない。でももうそうするしかない。
――やっぱり、これで死ぬな、俺。
前に何日もかけて儀式をした時も、回復を待っては祈ることを繰り返しただけで、こう何度も一時に体を傷つけたりはしなかった。
だが他に道がない。
――せめて俺の次のウディヤが大きくなるまで、アクリオスの護りを。
神々に祈りながら、シンはまた小剣を自分の体に突き立てた。もう痛みもよくわからない。何も見えない。神殿の中も、外も、神々の姿も、グランツの姿も。
ただ、再び猛烈な風を受けて、ヴルカーノの端艇が転覆し、軍船が沖へと押し戻されていくことだけがわかる。
先刻よりももっと激しい風が海水を巻き上げ、船に向かって石つぶてのように降りそそいでいる。ヴルカーノ語の悪態や悲鳴がシンの頭の中で響く。統率が崩れた。あの国の王が撤退を叫んでいる。転覆した端艇や海に投げ出された兵を捨てて反転を始めた。
――助かった。
それと同時に、やっぱり自分は助からないのだと、シンは確信していた。
――ごめん、カレル、あなたを一人にして。
それだけが悲しい。泣いてばかりいるグランツを笑えない。急激に意識を失っていくシンの目から、止めどなく涙が溢れ続ける。
完全に意識が消えゆく瞬間、シンの頭の中で、虫が羽ばたくような音が響いた。
と同時に、やたら明瞭な、若い男の声が重なる。
「――では私が、最後の力を与えよう」
「……は?」
その声を聞いた刹那、シンの意識がまた急激に引き戻され、ふわりと、体中が温かい光に包まれる感覚が生まれた。
「……何?」
声に聞き覚えがある。シンはゆっくりと瞼を開いた。動く。体からは徐々に痛みが引いている。泣き濡れた目を指で擦り、何となくその指を見下ろすと、体中を浸していたはずの血の色が見当たらなかった。
「何、これ……」
「先に行く。あとは任せた」
再び、覚えのある声。シンが体を床に伏したまま顔だけ上げると、周囲には神殿の広間も神官たちの姿もなく、少し離れたところで、ぼんやりと輝くような光に包まれた男が佇んでいるのだけ見えた。
男はシンと目が合うと、にやっと、唇の端を曲げる少し捻くれた笑いを浮かべた。
「まあ、せいぜい、頑張れよ」
ぞんざいな口調。
神聖王としての威厳など欠片もなく、市や港を粋がって歩くただの若者のような。
「……ああ、そうなんだ」
シンも同じような表情で、笑い返す。涙だけまだ止まらなかった。
一年くらい前からずっと頭の中であった不快な異物の感触が、今は綺麗に消え去っている。
「そういうことなんだ……」
クレオはシンがもっと幼い子供だった頃に見たものと同じ姿をしていた。アクソスの許へ行くために、一番力のあった時代に戻ったのだ。
クレオの姿が光に包まれるように、緩やかに消えていく。
代わりにシンの体を、深い静かな森が包んでいった。
クレオの祈り。神々に向けたのではなく、シンに、次の王に向けられた餞の呪い。あるいは祝福。
このために、クレオはずっと眠りに就いていたのだ。シンに渡す魔力を溜めるために。それ以外のことに力を使わないために。
「こうやって受け継がれていくのか」
たった今、自分がこの国の王になったのだとシンは知った。
◇◇◇
グランツの見守る先で、三度目の突風が、港に近づく端艇のほとんどを横転させた。
だが何艘かは接岸に成功し、港から上陸を始めている。
グランツは櫓の壁を乗り越え、城壁を滑るように城塞の外へと降りた。
――誰一人城塞に近づけはしない。
城門のそばに繋いでおいた戦馬に跨がり、すぐに拍車でその腹を蹴りつける。仇の持っていた馬であろうと、利用することに抵抗などひとつもない。
主と祖国を奪われた憎しみや悲しみではなく、ただシンを守るために、グランツは戦馬を駆った。




