王と犠牲
フォスの体はシンの家に運び込まれ、グランツもそこにいるようシンから言われて従った。
フォスは目を開けたまま、やはり人形のように天井を見上げて身動ぎもしない。少し不安になって唇の上に掌を当てると息をしていなかった。
『死んでるわけじゃないから、大丈夫。っていうか生きていないんだよ、そもそも』
フォスを運び出す時にそれに気づき、狼狽したグランツにシンが言った。
『クレオ様の作った人形なんだ。……俺を見張るためにね』
以前にも、フォスは護衛ではなく監視なのだとシンが言っていた。そしてフォスが、『自分の主はシンではなくクレオである』と。
『き……君たちの魔術は、人間を作り出すことも可能なのか……』
『だから人間じゃなくて、人形。魂のないただの傀儡だ。感情もないし痛みも感じない。ただ俺をこの国から逃がさないための道具』
そう話しながらフォスの体を地面から起こそうとするシンの顔には、何か諦めに似た表情が浮かんでいた。
『君は……フォス殿を好いてはいないのか?』
『前は嫌いだったよ。一緒にいてもつまんないしさ。フォスの顔見てると、嫌なこと思い出すし』
『嫌なこと?』
『フォスの「材料」ね。俺が殺した人の魂なんだよね』
シンの言葉にグランツはぎょっとしたが、どこに重点を置いて驚くべきか、すぐには決めかねた。
グランツがまごついているうちに、シンにフォスを連れて戻るよう言われた。
自分がその場にいてはいけないことを、グランツは充分承知していたので、すぐにそれに頷いた。
今ごろシンは、グランツのしでかしたことの後始末に走り回っているのだろう。
グランツはあまり力の入らない体を、フォスのそばで持て余していた。自分のしたことが間違っていたとは思わない。ノルベルトを救う道はあれ以外になかった。
だからノルベルトに剣を向けたことを悔やみはしない。別れが悲しいだけだ。
そしてグランツは、ただ悲しんでばかりいるわけにもいかなかった。
「私は……私とノルベルト様は、とんでもない厄災をこの国に招いてしまった……」
ヴルカーノの人間を、殺した。
以前アクリオスに入り込んだ兵士を殺した時とは事情が違う。あれはアクリオス側に非があった。だが今回は、正式な使節として訪れた人間を殺してしまったのだ。ノルベルトに意識と体を奪われていた、などと言ったところでヴルカーノも、他の国の者も信じるわけがない。
今ごろ城塞の外は酷い騒ぎになっているだろう。ヴルカーノ人を殺したところを他国の者に見られた。すでに群島内にいる他のヴルカーノ人にも伝わっているだろうし、北側諸島に集めれたという軍船にも報せが向かっているはずだ。船はおそらく群島間近まで進んでいる。時間がない。
自分一人の首を差し出したところで問題は解決しないことは、グランツにも嫌と言うほどわかっている。グランツがシャリエの人間であり、アクリオスとは関わりがないと言い張ったところで、ヴルカーノは耳を貸さないだろう。理由はどうとでもつけられる。アクリオスの領土で、ヴルカーノ人が殺された。ヴルカーノにとってはそれで充分だ。
「軍隊を持たぬこの国で、一体どう身を守れと言うのだ……!」
グランツが握った拳を床に叩きつけた時、部屋にシンが戻ってきた。
「わっ、うるさいな」
現れたシンは、まるで深刻さとは縁遠い、軽い口調で言いながらまずフォスの様子を覗き込み、それからグランツの傍らに腰を下ろした。
「申し訳ない……!」
グランツは床に頭を擦りつけ、悔やんでも悔やみきれない思いで言った。
「今さら私の詫び言など無意味と知っているが、しかし、それでも――」
「遅かれ早かれだよ。ヴルカーノの船がアクリオスに来た時点で、こうなることは避けられなかった。あなたのせいじゃない。ノルベルトさんのせいでもね」
応えるシンの声には、やはり重さがない。
「しかし……もっと猶予があれば、状況が変わり、アクリオスが助かる道も……」
「俺たちにはどっちみち選択の余地がないんだよ。ヴルカーノを受け入れればアクソスの怒りを買って、受け入れなければヴルカーノに殺される。やってくるのがヴルカーノじゃなくて他の国でも同じことだ」
「……」
シンの言うことには、真実と慰めが混じっている。たしかに一度大陸の人間に目をつけられてしまえば、この国がこの国として生きていく道は閉ざされるしかないのだろう。
だがそれが今日明日か、それとも何百年先かでは、まるで話が違う。
「……やり過ごすこともできたはずなのに……」
やはり自分が火種になってしまったのだと、グランツは言いしれないほどの悔恨を味わった。
「そうだね。まあ、望みがあるとすればその辺だよね」
「望み?」
シンの言葉に驚いて、グランツは頭を上げて彼を見遣った。
「大陸の船が群島に辿り着くようになったのって、多分、クレオ様が弱ったせいなんだと思う。どれだけ船や航海術が発達しようと、神聖王の力が強ければ、異物を遠ざけることはできた」
「アクリオス王は、今……」
「フォスがまだ形を保ってるの見ればわかるだろ。まだしぶとく生きてる」
グランツは、相変わらず目を開けたままのフォスを見遣った。眼球が渇きはしないか心配なのと、少し空恐ろしくもあったので、たびたび瞼を閉じさせているのだが、結局また開いてしまう。
「クレオ様の命が尽きれば、新しい王が生まれる。病で死にかけの年寄りよりは、若くて元気な王の方が、随分力が強いと思うだろ?」
「……君か」
グランツの問いに、シンが目許だけで笑った。その表情で、グランツは彼に複雑な気分が手に取るようにわかってしまう。
シンは王になどなりたがっていない。彼はずっと普通の少年のように生きたいと思っていただろう。
だが今は、自らが王になること以外で、アクリオスが救われる道が見出せないのだ。
「ヴルカーノが大挙して押し寄せる前に俺が神聖王になれば、船が群島に近づけないようにできるかもしれない」
「そんなことが可能なのか?」
「これもその場凌ぎだけどね。俺だっていつか今のクレオ様と同じようになる。俺が王になったあと生まれるはずのウディヤが、次に同じことをする気になるかもわからないし。でもまあ、今は凌げるんだから、やらない手はない」
「……そうか……では、君やこの国の人々が助かる道は、まだあるのだな……!」
にわかに、グランツの胸に希望が満ちた。しかしそれは同時にこの国の王の死を願うことなのだと思い至って、慌てて顔から笑みを消した。
そんなグランツの内心を、おそらく魔術を使うまでもなく読み取って、シンがおかしそうに肩を揺らした。
「ヴルカーノ以外の港の船は、もう出港準備を始めてる。戦になるのはわかってるだろうから、巻き込まれないうちに逃げるみたいだ。そこに、ヴェロスたちと組んだヴルカーノ人を荷物にみせかけて放り込んでおくことにした」
「そうか……」
「それに、大陸に行きたい人たちも、一緒に連れていってもらうことにしたよ」
「え?」
驚くグランツに、シンが今度は微苦笑を浮かべた。
「ヴェロスに感化されてたような、アクソスの力を受け継ぐことのない若い人たちは、元々外に出たがってたからさ。希望があるとはいえ、クレオ様が……俺が王になるよりヴルカーノが攻めてくる方が早いかもしれないし、アクソスの庇護がなくなるよりも大陸で生きた方がマシって人は逃げた方がいいだろ。ヴルカーノに向けては、そういう人たちを捕らえてもうちでは交渉の材料にならないからってことは伝えておいた」
「……やむを得まい。戦場になるかもしれぬ場から民間人を逃がすのは、君主の勤めだ」
「うん。一度アクリオスを離れれば、神々にとっては余所者だ。二度と戻って来れなくなるけど、それを承知の上なら俺に止める義務も権利もないし。カレルも、いいよね?」
「え?」
「出てくなら今がいい機会だと思うけど、出て行かせないからね?」
「――当然だ」
力強く、グランツはシンに向けて頷いてみせた。
「私は生涯君のそばで生きると決めた。君がこの国の王になるのなら、私がアクリオスを離れる理由がない」
「……うん」
「騎士として剣はささげない、だが友として君を守る」
断言してから、グランツは横たわるフォスに視線を落とした。
「フォス殿も、君を守りたかっただろうに」
魔術の知識がまるでないグランツには呑み込みがたかったが、フォスを生み出したのがクレオで、そのクレオが死ねば彼の体は人としての『形を保って』いられなくなるのだろう。
グランツはフォスとほとんど言葉を交わしたことも、まともな意思の疎通もなかったが、しかしシンのそばにひっそりと控えていた姿が目に焼きついている。
「そんなわけがないよ。言ったろ、フォスにはそもそも魂がないんだ。自分の意志がない。すべて、クレオ様の思惑が動かしてただけで」
「だがフォス殿は魂で作られている、と言わなかったか? その、君が、殺めたという人の」
「魂は人形の殻になっただけで、心が宿ったわけじゃない。これも言っただろ、魂は別のものに移し替えたとしても、死ぬ前と同じ人間にはならない。ましてやフォスは……生まれて間もない子供だった。そもそも魂に心が定着してなかったし、だからこそ人形の材料として使うことができた。不純物が混じってないから」
やはりグランツには、シンのいうことの半分も理解できる気がしない。わかるのはただ、フォスの『殻』になっている魂の持ち主の死が、彼にとってひどく辛いものなのだということだけだ。そういう顔をしていた。
「フォス殿自身の思惑ではなかったとしても、ではアクリオス王の望みではあったということだろう。君を守るというのが」
「だからその目的は、ウディヤが国から逃げ出さないための監視。ほんっと、あなたは馬鹿みたいに人がいいよね。王様っていうものにちょっと夢を見すぎじゃないの」
呆れたように言うシンに、今度はグランツが苦笑する番だった。
その表情を見て、シンが少しだけはっとしたように、一瞬口を噤む。
「……ごめん……って、謝ったら駄目か」
片手で口許を押さえてシンが呟き、グランツは小さく首を横に振る。
「確かに私は、ノルベルト様に随分夢を見ていたのだろうな」
――まさか彼がこの世に恨みを残し、シンを殺し、この国を奪おうとするなど、想像もしていなかった。そんなことがグランツにできるはずもなかった。
ノルベルトは誰よりも高潔で気高い王だと信じていた。
そのことを、グランツは今、ひどく悔やんでいる。
「君は悲しむことはないと私に言ってくれたが……だが、後悔しているし、自分がひどく情けない。私は一体、あの御方の何を見ていたのだろう。一番御側にいた私がこんな為体では、きっとノルベルト様は……お寂しい思いをなさっていただろう……」
また涙が滲んでくる。もう思うまま泣いてもいいのだろうか。ノルベルトは消えてしまった。グランツの後悔が、もう彼をこの世に留める障害になることもない。
「魂が清らかだからすばらしい振る舞いをなさっていた、というわけではなかったのだ……あれほどの怨嗟を魂に秘めておきながら、それを律し続けた精神こそがすばらしかったのだ。きっと多大な努力が必要だっただろうに、だが私はそれに気づけなかった……騎士失格だ……」
「……グランツさん、じゃない、カレルってさー、ほんとに……」
シンがまた呆れた顔になる。グランツは込み上げる涙をきつく腕で擦った。
「私という枷から解放されて、きっとノルベルト様は神の御許で今度こそ安らかな眠りを迎えられたに違いない。……そうだろう?」
涙を拭い、問うように訊ねるグランツに、シンが首を傾げた。
「どうかな。俺は、シャリエの神様のことはわからないけど……でも少なくとももう、ノルベルトさんが苦しい思いをすることはないよ。俺にはもう見えないし」
「そうか……ならば、それでいい……」
「ついでにね。ノルベルトさんは、そりゃああなたのそばで結構しんどかったかもしれないけど、でもいい王様でいられたのは、あなたがそう信じてたからだと思うよ」
涙で濡れたグランツの手に、シンがそっと慰めるように触れる。
「あなたっていう枷は、シャリエの法律とか、宗教とかより、ノルベルトさんにとってはもっと大きいものだったんじゃないのかな。だってそんな馬鹿みたいに信じられたら、応えないわけにはいかないじゃない。だからノルベルトさんのそばにあなたがいたのは、ノルベルトさんにとっていいことだったんだよ。多分だけどさ」
「……シン殿」
「友達っていうなら、敬称っていらなくない?」
少しだけ照れたように、概ねは真面目に言ったシンに、グランツは顔を綻ばせる。
「ありがとう、シン」
多分シンは、人を慰めるのに向いていない。それでもどうにかグランツの悲しみを取り除こうとしているのがわかって、そのことにグランツは随分慰められた。
◇◇◇
ヴルカーノの軍船は、やはりアクリオスの存在する群島の間近にまで迫っていたようだ。
グランツの剣が使節たちの命を絶ってから七日目、それでも最初にアクリオスの港に訪れたのは、大量の兵士ではなく使者を乗せた船だった。勿論周囲に護衛船を伴っていたが、港に降り立ったのは使者数名と、護衛のための兵士数名だった。
予測どおり、ガローネと他二名の殺害についてヴルカーノ側は徹底的に糾弾する構えで、『ガローネらを殺した者とアクリオス王の首を差した上で、ヴルカーノが内政に介入する権利を与えるか、アクリオスの資源の六割を得る権利とあらゆる産業へ参加する権利を与えるか、どちらかを選ばせてやる』ということを丁寧で高圧的な態度で告げてきた。
王の代理として港で彼らを出迎えたシンの答えは決まっていた。もちろんどちらも否だ。
ヴルカーノ側も最初から答えを予測していたらしく、シンの返答を聞くと、アクリオスへの宣戦を布告し、すぐに船に戻り港を去った。
結局、シンの即位は間に合わなかった。
「一日経たずに軍船がやってくるだろうね」
使者を乗せた船とその周りを取り囲む護衛船を港で見送りながら、シンは傍らのグランツに向けて呟いた。
シンのそばにはグランツしかいない。本来なら供をするべき者、神殿で上位の位階を持つ者たちは、クレオを守るという名目で城塞内に引っ込んでいる。どうせいたところで言葉もわからないし、逆上してヴルカーノ人たちに飛びかかるよりはましだろうと思って、シンも好きにさせておいた。
「この港の規模では、ヴルカーノの軍船は港には入れまい。おそらく現れるとしたら夜、揚陸用の端艇が次々やってくるだろう」
シンの隣で、グランツは険しい顔をしている。シャリエには海がなかったので海戦の経験はないと言っていたが、ヴルカーノの戦艦の規模やその戦い方は承知しているという口ぶりだ。
「上陸したところを叩ければ、一番なのだが……無理だろうな」
「無理だね。投石機があるって言ってたろ。こっちに迎撃できるような武器も人もないし、城塞に引っ込んでるのが一番安全だよ」
「やはり籠城して、君が王になる時を待つしかないのだな」
「どのくらい保つと思う?」
港にはもう船の影がない。ヴルカーノの商船もすでに建ち、異国の商船が停泊していた時は人足で賑やかだった港はすっかり静まりかえり、波の音しかしない。
こんなに静かな港をシンが見るのは、随分と久しぶりだった。頻繁に異国の船が来るようになる前、ろくに港の整備も整わなかった頃は、ずっとこんな感じだったと思い出す。
「……騎馬での突撃や、弓や槍、戦斧を持った兵の攻撃であれば、あの城塞が陥落ちることはまずないだろう」
そう言いながら、グランツが背後を振り返った。城塞のある方角。
アクリオスの城塞は堅牢だ。高い壁と頑丈な門。人の力では勿論、馬や牛の力に頼ったところで、あの石積みの分厚く高い壁が落とされることはない。背後には峻険な山がそびえ、そちらに回り込むことも不可能だ。
だから今まで一度たりとも、群島内に点在する他の氏族たちに破れたことがない。
「だが、そう、ヴルカーノには投石機がある。それもただの石ではなく、火種を詰めた鉄の弾だ。十度に九度は台座が弾の重みに負けて失敗するという粗雑な道具だが、百度に十、千度に百、鉄の塊が壁に当たれば崩れもするだろう。ヴルカーノはそれを可能にする物資を持っている。兵が入り込める程度に城壁を崩すために、数日あれば充分だろう」
「……」
シンがちらりと見遣ると、グランツはひどく悔しげに歯軋りをしていた。
「勝機は、どうあっても水際で叩くことしかない。せめて……せめてあとひと月でも猶予があれば」
グランツは彼にできうる限りのことをしようと、神殿の兵たちにかけあっていた。ヴルカーノ軍が到着するまでに、迎撃のための武器を造り、城門や壁の強化をすべきだと訴えた。
だが言葉は通じず、ヴルカーノに攻め入られる原因はこの余所者だという噂は城塞中に広まっていたため、協力する者が出るはずもなかった。シンも自分の仕事の合間に、『グランツに危害を加えることは許さない』と人々を説得するのが精一杯だった。
「ここにいても仕方がないね。戻ろう」
シンが促すと、グランツが無念そうな顔で頷く。来た時と同じように騾馬に跨がり、シンはグランツとともに城塞に戻った。
自分の舎に辿り着くと、シンはグランツにここから出ないよう言い含めてから、自分は神殿へ向かった。
城塞内は静かだった。さほど混乱する気配はない。グランツの姿さえ見えなければ、人々は割合冷静だ。いつも通りの生活を送っている。他にすることもないのだ。
神殿では、神職者たちが交替で祈祷を行っている。アクソスの力を継ぐ者は、神々に祈りを捧げることだけを続けていた。外敵の襲来を避けるための話し合いなど、誰もしようとはしない。
シンは神殿の中を通り過ぎ、そのさらに奥深くにある王の宮に向かった。
宮殿もいつもどおりだ。静謐として、薄暗く、死の匂いが漂っている。あちこちから低く歌うような声が響いているのは、クレオの魂をこの世に留めるための呪文だ。
回廊のあちこちに配置された衛士たちはシンの姿を見ると無言で跪き、シンも彼らに声はかけず、クレオの寝室に入った。
嗅ぎ慣れた甘い腐臭に眩暈を覚えながらゆっくりと寝台に歩み、仰向けに横たわっている王のそばへと近づく。
かさかさに乾いた枯れ枝のような体を仰向けて、クレオは目を閉じ続けている。これで息があるのが不思議だ、とシンは毎度ながら思った。
「いい加減諦めが悪いなあ」
水分をまったく感じさせないクレオの頬に触れながら、シンは小さな声で呟いた。
そっとその内面を覗こうと試みるが、何も読み取れない。意識があった頃と同様、クレオの『中』は深い森のようだ。光のない夜の森。
「もういいから、さっさと俺にその座を明け渡してくださいよ、クレオ様。別に恨み言なんて言わないよ。眠ったまま苦しまずに死んでもさ」
クレオは非情な王だった。いや、王だからこそ非情だった。叶う願いと叶わない願いがあることを知っている。いくつ希望を持ち、いくつ破れてきたのか、クレオと同じ道を辿るシンには簡単に想像がついた。人々の望みを叶えたくなかったわけじゃない。叶えられず、そのたび罪悪感と無力感に責め苛まれ、一人で老いていく。唯人よりもずっと早く死ぬ定めを覆すこともできず。
クレオの中の森に閉じ込められているのは、きっと虚無なのだろう。光のない世界。
「民を守れない王に、何の意味があるんだろうね」
体は死者に等しく、魂の在処だけは感じ取れるが、目を開くことも、自分の意志で言葉を発することもない。ただここにいるだけのものなのに、クレオの心臓が動いているから、シンが王になることができない。
「俺は今だって王になんてなりたくないけどさ……ずっと嫌だったけど、でも、しょうがないだろ。俺だって死ぬ時に苦しんで、苦しんで、悔やみながら死んであげるからさ。俺を王にならせてよ」
クレオは何も応えない。かさかさに乾ききった唇に指で触れると、微かな呼気が当たる。まだ生きてる。
「まあ……仕方ないよね。運命なんてままならないって、俺たちが誰より知ってるんだ」
微かに笑い、もう一度クレオの頬を撫でてから、シンは彼から手を話した。
「俺は俺にできることをするよ。じゃあね」
聞こえるはずもないだろう言葉をクレオに向けてから、シンは宮を出て再び神殿に戻った。
神殿兵を統括する者も含め、位階の高い神官たちに、『ヴルカーノの船はおそらく今晩やってくる』ということを告げる。
「では、今からすべての者を祈祷に当たらせましょう。神殿に属さぬ者たちにも、全員祈りを神々に向けるよう、布令を出します」
「うん。俺は中を見回ったあと、一度舎に戻る。何があっても報せに来る必要はない。わかるから」
「はっ」
平伏する男たちに言うべきことを伝え、シンは宣言どおりに祈祷を捧げる神官たちの様子を見舞ってから、自分の舎へと戻った。
舎の中で大人しくしているよう言ったはずなのに、グランツは建物の外をうろうろしていた。宵闇が迫って薄暗い中で、森の獣のように歩き回るグランツの姿は、ちょっと可笑しい。
「駄目だって、外に出たら。どうせ死ぬならあなたを道連れにって考える人だっているんだよ」
舎の前で、乗っていた騾馬から降りてシンが告げると、グランツがシンの方へと駆け寄ってくる。
「なぜ誰も外へ出ようとしないのだろう」
シンの忠告に耳を貸さず、グランツが信じがたいという顔で訊ねた。
「勝てる見込みのない戦であれど、少しでも勝機を見出すために足掻く者がいるものかと思ったが……」
「みんな充分足掻いてるよ。神殿の人たちも、労働階級の人たちも、今はみんなアクソスに祈りを捧げてる」
「祈り? そんなもの……」
グランツの表情に困惑が浮かんだ。
「神に縋りたい気持ちはわかるが、しかし」
「――あ」
詰め寄ってくるグランツを片手で制し、シンは港のある方角へと首を巡らせた。
「思ったよりも早いな」
「……来たのか?」
顔色をなくして訊ねるグランツにシンは頷きを返し、グランツの緊張を敏感に察した騾馬が騒ぎ出すのを、胴を撫でて宥める。
「まだ着いてはいないけど、もう間近だ。すごい速さで近づいてる。先頭に三艘……その後も続々と」
神の目を借り、城塞に居ながらにして港、いやもっと沖の様子がシンにははっきりと見える。黒い船が近づいてくる。
「大勢の人と、馬と、鉄の匂い。あと火の……火薬ってやつかな? うーん、城塞で暮らす人の数よりも多い、かな」
「――」
シンの視界の端に、その場を駆け出すグランツの姿が映った。シンの乗ってきた騾馬に飛び乗ろうとするその腕を、シンはすぐに掴んで止める。
「どこに行くの」
「港だ。戦う。私にはそれしかない。端船から馬を下ろすにも投石機を運ぶにも手間がかかる。その隙にできる限り倒す。少しでもこの国の人たちが……君が、助かる希望に繋がるように」
「あなたがたとえどれほど強い騎士だとしても、何千って兵を相手にするのは無理だよ」
「では他にどんな手があるのだ! 自ら戦いもせず、祈るだけで、何が変わるというのか!」
グランツの上げた声には、憤りよりも悲痛が滲んでいる。
グランツの国の神は願いを聞き入れてくれなかった。どんなに祈ったところでノルベルトはグランツの目の前で二度死に、シャリエという国は失われてしまった。
だから彼が祈りを信じない気持ちが、シンにもわかる。
「再び同じことが起こるなど――目の前で大切な人間がみすみす殺されるなど、私には耐えられない!」
「残念ながら」
うっすらと涙を浮かべるグランツへと、シンは微笑んでみせた。
「この国では、祈るだけで変わることがあるんだよ」
グランツの腕から手を離し、代わりに腰に提げた剣に触れる。
その仕種で、グランツがハッとしたように大きく目を見開いた。
「まさか……儀式をするつもりなのか!?」
グランツが騾馬の手綱から手を離し、シンの肩を両手で掴む。
「君の魔術はアクリオスの人々以外に効くことがないと言ったではないか! 前の儀式の時も、荒れ狂う天候で港の船を沈めることはできなかったと!」
「船を沈めなかったのは俺じゃなくてアクソスたち。沈められなかったんじゃなくて、沈めるつもりがなかったからだよ。あの時神々の怒りは余所者じゃなく俺たちに向いていた。いつもどおりね」
青ざめるグランツの目を、シンはまっすぐに見返した。
――こんなふうに、誰かと間近で視線が交わせることなんて、自分の一生のうちにあると思わなかった。
「俺の魔術がアクリオスの人以外に影響するのは、あなたで証明されてるしさ」
低く、低く、歌うような声が遠くから響いている。
城塞内の人々すべてが、日常の仕事をやめ、ただ神に向けて祈り始めているのだ。
その唱文の声に気づいたグランツが、少しだけ戦く様子で辺りを見回した。それが可笑しくて、シンは小さく声を上げて笑った。その笑い声でグランツが我に返り、再びシンを必死の面持ちでみつめてくる。
「わ、笑っている場合ではない、それでもまだ王ではない君の力では、ヴルカーノを追い払える保障はないのだろう? いや、あいったとしても、私はもう君にあんな辛い思いをさせたくはないのだ」
グランツはディリティリオとヴェロスの罪をシンが被り、何日も苦痛に満ちた儀式を行う羽目になったのが、自分のせいだと思い悔い続けている。
「これが俺の運命なんだよ」
シンが笑うのは、これまでのような強がりでも、皮肉でもない。
「待ってくれ、私がどうにかする。少しでも敵を倒して」
「いいんだ」
きつく肩を掴むグランツの手に、シンはそっと触れる。
「俺はもう神に祈ることが嫌じゃない。怖くない」
もうじき港に最初の船が着く。
「俺が皆を――あなたを守るよ」
グランツが緩く首を振った。
「君は、はじめから、そのつもりで……」
「ごめんね。言えばカレルが辛い気分になるだろうってわかってたからさ」
自分が王になるよりもヴルカーノに攻め入られる方が早ければ、こうする他ないとわかっていた。神殿の者たちも、城塞で暮らす人々のすべてが理解していた。
「ありがとうカレル。俺はあなたを守れるんだと思えば、ウディヤとして生まれたことに、何の恨みも持てない。本当だよ」
「しかし!」
涙を振りまきながら、グランツがまた首を振る。
「俺を信じて」
まったく泣き虫な大人だと呆れながら、だがボロボロと涙をこぼして必死に自分を止めようとするグランツを愛しいと思いながら、シンは相手に笑いかける。
「私に……できることは何もないのか?」
「いてくれればそれでいいんだけどさ。じゃあ、もし俺の儀式をかいくぐって城塞に近づく兵がいれば、追い払って。大城門の物見櫓の上から港が見える」
「……承知した」
グランツがようやく頷いて、シンから手を離した。
「儀式で、君が死ぬことはないのだろう? ……外からの敵は私が倒す。たとえ何があろうと、君に指一本触れさせぬ」
「うん。信じてる」
シンも頷き返し、グランツから手を離すと、舎の中へ向かった。
一人で簡単に禊を住ませ、儀式のために白い法衣に着替える間も、今までにないくらい気持ちが落ち着いている。
これまで儀式の前は、いつも逃げ出したい気分で一杯だったのに。
支度を住ませて舎を出ると、グランツが先刻と同じ場所でシンを待っていた。
「それじゃあ、俺は神殿に戻る」
「……わかった」
短い挨拶だけを交わして、シンは騾馬に跨がり、神殿へと向かった。




