運命の騎士
声が違う。肌の色も瞳の色も相貌も違う。
なのにその呼び掛け、故国の言葉で告げられた声に、グランツはもう疑うことができなくなってしまった。
「……ノル……ベルト……様……」
そう、目の前にいるのは、グランツがこの世界で何よりも愛し、世界のすべてだと信じ続けたノルベルトだ。
混乱のあまり言葉もまともな思考も失い、ただ胸と頭を押さえることしかできないグランツの視界に、また新たな人物の姿が入ってきた。
単騎で騾馬を駆り、地面に広がる血黙りに眉を顰めながら、シンがグランツの真横までやってくる。乗り手が背中から降りると、騾馬は血の臭いか、あるいは別のものにか怯えたように首を振り、その場から駆け去って行った。
「シン殿……」
グランツの見上げた先で、シンは険しい表情で、グランツではなく自分の護衛の方に視線を向けている。
フォスは微笑みを絶やさず、グランツたちから少しだけ離れた場所に佇んでいる。ヴルカーノ人たちの血で長靴が汚れることも厭わず、男たちの死骸を片脚で踏み躙るように。
「……シャリエ王」
「!?」
シンの呟きを聞き、グランツは目を瞠った。
「わ、わかるのか」
「あなたはちっとも気づいてなかったけどね」
フォスから視線を動かさないまま、シンが呟くように言った。
「ずっとあなたのそばにいたんだよ。最初から、あの亡霊は」
「え……?」
亡霊、とシンは言った。
最初にアクリオスの『聖域』でシンと邂逅した時も、彼が自分に向けてそう呟いたことを、グランツは思い出す。
「あれは……私のことではなかったのか……?」
「あなたは亡霊って言うには生き生きし過ぎてたよ」
少しだけシンの唇の端が持ち上がるが、すぐにまた厳しい表情へと戻った。
「あの亡霊は、怒りと恨みと悲しみに濁った目を薄開きにしていた。――俺の舎、というかアクリオスの大抵の建物には、悪霊避けの呪いが施してある。でもあの人はそれをものもともしなかった」
「……」
「代わりに、俺たちアクリオスの者に何の手出しもしなかったから、放っておいたけどね。グランツさんはグランツさんで、馬鹿みたいに頑丈だから、悪霊に取り憑かれてるっていうのにそのせいで窶れも病みもしないし。普通はそんなにはっきりした悪霊が四六時中張りついてたんなら、一週間もしないうちに弱って死ぬだろうに。どれだけ丈夫なの、グランツさん」
フォス――フォスの『中』にいるノルベルトをじっとみつめながら言うシンに、グランツは答えるべき言葉を思いつけない。
「その人の目は何も見ていなかった。ただグランツさんの中の自分の対する想いに張りつくようにしてた。少なくとも、スフェラの近くでヴルカーノ人たちに会うまでは」
「あの時……」
「うん、あの時、ほとんど眠ってたようなノルベルトさんが目を覚ました。グランツさんはノルベルトさんの怒りと恨みに引っ張られて、体を乗っ取られそうになってたから、俺がぶん殴って正気に戻してあげただろ」
「……」
『しっかりして。いい大人がめそめそぐずぐずしない。つけ込まれるよ』
グランツの横っ面を張ったシンは、そう叱りつけてきた。
つけ込まれる、というのは、ヴルカーノ兵たちにではない。ノルベルトの感情にということだったのか。
「あの人は恨みだけの塊になって暴れ回っていたから、抑えるのに苦労した」
シンもグランツとノルベルトのことに気を取られていたせいで、アクリオスの神殿兵が、いきなり森の中へと攻め込んでしまったのだ。
そしてシンはディリティリオの呪いに倒れ、苦しむ羽目になった。
「わ、私が……私のせいで、君が怪我を……」
「そういうのは、あとでね」
混乱したまま呟くグランツを、シンが簡単な調子で諫める。
「フォスの体にノルベルトさんが落ち着く前に、止めないと。今はあの人も少し混乱してるからああやってじっとしてるけど、すぐに暴れ出す」
「ど、どう、すれば」
「グランツさんたちの国で、死者はどうなるの?」
訊ねられ、グランツはシャリエの信仰を必死で思い返した。
「信仰心のある者ならば、御使いが訪れて神の御許に運ばれる。やがて訪れる世界の終わりの時まで、静かな眠りに就く……」
「信仰心のない者は?」
「地の底にある暗く閉ざされた世界に落ちる」
それが地獄だ。神の教えに背き、贖罪のないまま死んだ人間が行き着く場所。
「なぜだ……なぜノルベルト様は、こんなところにいるのだ……」
地獄に落ちて長い苦しみを与えられたとしても、世界が終わる時には救われる。だが現世に残った魂は、神の許へも地獄にも行けず、悪霊として人々の敵になる。グランツはそう教えを受けた。
フォスは――ノルベルトは、微笑みを浮かべたまま、少し不思議そうに自分の腕や脚を見下ろした。自分がなぜここにいるのか、ノルベルト自身わかっていないのかもしれない。
「フォ、フォス殿は大丈夫なのか」
混乱のまま、グランツはシンに訊ねた。普通、亡霊に取り憑かれれば弱るというのならば、フォスの身が危険だ。
「――ま、壊れるかもしれないけどね」
シンの口調は、あまり心配そうなものではない。むしろ、冷淡にも聞こえてグランツは怪訝な心地になった。
「フォスのことは気にしなくていい。あれは、どうせ中身がないんだ」
「え?」
「ただの人形だから。それでノルベルトさんが簡単に入れたんだと思うよ、あなたの意識を奪って外から動かすより、中に入り込む方が自由に使えるからね」
「す、すまない、君が何を言っているのか、私には……」
「フォスの体は魔力の吹き溜まりだ。それにノルベルトさんの魂……っていうか妄執の塊が入り込んでる今、何が起きるのか正直俺にもわからない、こんなこと初めてだし」
ノルベルトはフォスの腰に提げられている長剣に気づき、ゆっくりとその柄に右手を触れている。
その体から、じわじわと黒い煙のようなものが染み出している気がして、グランツは強張った顔でフォスの体に目を凝らした。
「あれは……まるでケレイスで見たものと同じ……」
黒い瘴気は、呪いによって殺されたせいで、どこにも還ることのできないケレイスの人たちの魂。シンはそう言っていた。
だとすれば今フォスの肌を覆うように揺らいでいる瘴気は、天に向かうことのできないノルベルトの魂なのか。
微笑みを絶やさぬまま、ノルベルトがすらりとフォスの長剣を抜く。
「ノ……ノルベルト様――」
ノルベルトが握る剣の切っ先は、グランツたちを――いや、はっきりとシンの方を向いている。
「おまえの主は、私だけだ、グランツ」
声は違う。だが喋り方が、優しい響きを含む呼び掛けが、グランツにはノルベルトのもの以外に聞こえない。
「私の騎士。私は、国が欲しい」
「……!?」
「ヴルカーノを倒す。そのためには国が必要だ。私が王であるために」
「ノルベルト様……?」
ノルベルトが何を言っているのか、グランツには理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「この国の王の首級を挙げ、私に捧げよ」
ふわりと、フォスの体が浮いた――ように見えた。ノルベルトはガローネたちの死骸を足掛かりにしてシンの方へと跳び、一切の躊躇のない動きで剣を振り上げた。
グランツは何もできなかった。時が止まってしまったように、体も頭も動かず、ただ目を見開いてその場に立ち尽くしていた。
「……くっ」
苦痛の滲むシンの声が零れる。シンは飛びつくように近づいてきたノルベルトを避けることなく、繰り出された剣を、左腕で受け止めた。
「シン殿!」
「……痛ったいなあ、もー……」
きつく眉を顰めるシンの腕から、赤い血液が染み出している。フォスの剣はシンの骨に阻まれて止まったようだった。グランツはシンの顔が苦痛に歪んでいるのを見た瞬間、ほぼ無意識のうちに身を屈めると地に落とした剣を拾い上げた。
「ノルベルト様、ご無礼を!」
声を上げながら、グランツはシンの腕に食い込んだままの刀身を撥ね上げる。ノルベルトの手から剣が弾き飛ばされ、シンの腕からは堰を切ったように血が溢れ出した。
その血は、シンが傷口を押さえることですぐに止まる。治癒法を使ったのだ。
「やはりあの剣では、この国の王は斬れないか」
フォスの剣はグランツの一撃で刀身を歪ませて地面に落ち、ノルベルトは見る間に傷口が塞がれていくシンの腕を見遣っている。
「言っておくけどクレオ様はまだギリギリ生きてるからね。ほとんど死にかけだけど」
斬りつけられたことやその痛みよりも、王として扱われたことこそが不愉快だというように、渋い顔でシンが言った。
シンの言葉には答えず、ノルベルトが剣の代わりに、まっすぐ伸ばした右腕の人差し指でシンを示した。
「斬れ、グランツ」
「……ッ」
グランツは頷くことも首を振ることもできず、剣の柄を握り締めた。戦功を讃えられノルベルトより下賜された大切な剣。どんな宝よりも価値があり、何もかも失った今もこれだけは手放せずに生きてきた。
「グランツ、私の命令が聞けないのか?」
「……ノルベルト様……」
ボロボロと大粒の涙を両目から溢れさせながら、グランツはゆっくりと首を振った。
「なぜなのです……なぜ……あなたの魂は天上で、神の御許で、安らかな眠りに就かれているのではなかったのですか……」
神という言葉を聞いた刹那、フォスの顔から微笑みが消えた。
刺すように冷たい眼差しに、暗い光が宿ったように見えた。
「ヴルカーノ王とその民を、私を裏切ったシャリエの民を根絶やしにするまで、天上の神になど用はない」
「――」
グランツは言葉を失くした。
「薄汚い裏切り者たちを草の根を分けても探し出し、一人一人切り刻んでその血肉を獣に食ませるまでは、この恨みは晴れない」
涙が止まらない。誰よりも愛した主から、神より信じた王から、こんな言葉を聞く日が来るだなんて、グランツは一度たりとも思ったことがなかった。聡明さも高潔さも失い、あるのはただ暗く深い恨みの感情だけだ。それだけがノルベルトを動かしている。
「殺せ」
フォスの体を取り巻く瘴気が濃くなる。以前シンが言っていた。彼には自分に対する人の怖れが強すぎて、その怯えが黒い靄となって相手を覆い、親の顔すらまともに見えたことがないと。
グランツにも、ノルベルトの姿がよく見えない。
――一刻も早くノルベルトの許へ行くために、自決などして地獄に落ちては彼のいる天上に行けないからと、必死に死に場所を探してきた。
だが己の恨みを晴らすために、シンを殺してアクリオスを手に入れようとするノルベルトの姿に、グランツは絶望した。
命よりも大切だったはずの人に絶望する自分というものに、身動きすら取れなくなった。
――ノルベルト様が命じるのであれば、どんなことでも、疑いなく従うことこそが、騎士の誇りであり望みであったはずなのに。
「どうも俺の分野っぽいから言っておくけどさ、グランツさん」
泣くこと以外何もできないグランツに、その隣でじっとノルベルトをみつめるシンが言った。
「この世のどんな奇蹟でも、死んだ人を呼び戻すことはできない。一度体から離れた魂を、どんな器にもそのまま移し替えることはできない。あの人はあなたの王だったかもしれないけど、昔と同じノルベルトさんじゃない」
グランツはのろのろとシンの方へ視線を移した。視界が涙で滲んで、彼の姿もグランツにはよく見えない。
「魂を抑制するのは肉体と精神だ。精神は環境で培われる。殺しちゃいけない決まりがある国なら、大抵の人は殺さない」
ノルベルトをみつめるシンの紺色の瞳には、斬りかかられた怒りも、怯えもない。
ただ少しだけ、同情しているように見えた。
「亡霊は枷がなくなるから暴れる。シャリエ王っていう枷があった頃、ノルベルトさんはあなたにとっていい主だったんでしょう? ノルベルトさんはあなたに嘘をついてたわけじゃない。……悲しまなくていんだよ」
「どうした、早く殺せ、グランツ。おまえの剣は、私の与えた剣は、この国の王が斬れるのだろう」
ノルベルトの声はひどく理性的に聞こえる。生きていた頃と変わらない。だからグランツの心は揺らいでしまう。ノルベルトと過ごした時間があまりに長すぎた。
――だが。
「どうすればあの御方を救えるのだ、シン殿」
涙を拭わぬまま、もう一度ノルベルトの方へと視線を移し、グランツは傍らの少年に訊ねた。
「『正しい死が迎えられない』時、一体、どうすれば、あの御方を神の御許にお送りできるのだろうか」
「アクリオスの人以外の問題は、俺にはどうすることもできないんだ。体はともかく、アクソスの血を引かず、別の信仰しか知らない魂を、この国の神様の力では解放してあげられない……ごめん」
グランツは大きくかぶりを振る。シンが謝る必要など何もなかった。
「ノルベルト様は私がお救いする。それが私の、あの方の騎士としての最後の勤めだ」
呪いによって魂を地上に縫い止められた人々を解放するため、シンは自分の体を『犠牲』にしてその呪いを解いた。
もし自分が百度死ぬほどの苦しみを味わうことでノルベルトを解放できるのなら、グランツは喜んでこの身を捧げるつもりだった。
「何をすればいい」
「グランツさんには、多分、無理だと思うよ」
「何でもする。あの方のために私にできぬことなど何もない」
「……ノルベルトさんをこの世に止めているのは、あの人自身のヴルカーノや自分を裏切った国の人への恨みだけじゃない。あなたの忠誠心だ」
「――え?」
「グランツさん、主がいないと騎士でいられないって言ってたよね。王も同じことだ。騎士がいるから王であろうとする。だから……あなたがノルベルトさんへの未練を断ち切れば、あの人はこの世に留まっていられなくなる」
何でもする、と言ったそばから、グランツはうろたえた。
「あなたが心からノルベルトさんに失望した、王の資格がないから騎士をやめる、って宣言しない限り」
「そ……そんな」
自分にそんなことができるとは、グランツには到底思えなかった。たとえ今怨嗟と憤怒に凝り固まっているとしても、シャリエにいた頃のノルベルトがなかったことにはならない。シンがそう言ってくれたからこそ、グランツはどうやっても自分がノルベルトを救うべきだと思ったのだ。
だがその思いこそが、ノルベルトをこの世に引き留める原因になっているとは――。
「……私が原因?」
ハッとして、グランツは目を瞠った。
「では、私の存在そのものがなくなれば」
「駄目だよ」
まるでグランツの呟きを予測していたかのようなタイミングで、シンが言う。少し怒りの滲んだ声音だった。
「あなたは俺が死なせない。殺すのは俺にとって大事な人ができてからだって約束したんだ。それまでは俺があなたを守るって」
シンの憤った声に、グランツはまた動揺する。いつもは自分よりも十以上年下の少年とは思えないくらい落ち着いて、グランツをからかうことも窘めることもあるシンが、今はなぜか少しだけ、強情を張っている子供のように見えた。
――そうだ、私も、彼を守ると誓ったのだ。
それをグランツは思い出す。ノルベルトの魂をこの世から解き放つために自分が命を落とせば、この少年はまた一人になってしまう。
ノルベルトが恨みの塊になってこの世に留まり続けていることと同じくらい、それはグランツにとって耐えがたいことだった。
「では、私は、一体どうすれば……」
「……そうか、その子供が、おまえの枷か、グランツ」
低い呟きが聞こえる。フォスの声。グランツがシンから彼に目を移すと、冷たく刺すような眼差しとかち合う。見抜かれた、とグランツは察する。
ノルベルトに、シンに対する気持ちを見抜かれた。
主の他に、守りたい人間ができてしまったということを。
「ノ、ノルベルトさ」
その名を呼びきらぬうちに、グランツの視界が一瞬暗くなった。ドッと全身に衝撃を感じ、地面に尻餅をつく。
「グランツさん!」
シンの声。グランツは、自分の体が黒い瘴気――ノルベルトの魂に突き飛ばされたのだと気づく。
視界は一瞬で開けた。直後グランツの目に飛び込んできたのは、両手で剣を構えてシンの方へ突進するフォスの姿。
彼が握っているのはグランツの剣だ。ノルベルトに剣を奪われたのだ。
どんな傷でも治すシンの治癒法は、彼に力を与えた神々が嫌う鋼には通用しない。
その鋼の剣は、欠片の躊躇も見せない動きでシンの細い喉頸目がけて振り下ろされている。シンはなぜかまるで避ける素振りを見せなかった。
あの剣に首を斬り落とされれば、彼が『ウディヤ』と呼ばれる者であろうと、きっと助からない。
「――シン殿!」
叫ぶグランツをちらりと視線だけで見遣ったシンの口許は、わずかに笑っているように見えた。
その優しい微笑みを見た刹那、グランツは自分がなすべきことを理解した。自分がどうしたいのかを。
「……ッ」
きつくきつく奥歯を噛み締め、地面から立ち上がると、グランツはシンの体に覆い被さった。
背中に燃え上がるような熱さを感じる。
「グランツさん!」
痛みを痛みとして理解できないほどの深傷を、ノルベルトの振り下ろした剣から受けた。絶叫を上げたい衝動を堪える間に、耳許で歌うようなシンの囁きが届いた。呪文。いつもは清涼で心地よい響きに聞こえるのに、今は怒りで乱れている。怒りながら歌っているシンがなぜか微笑ましくて、グランツが泣きながら笑っているうち、背中に感じていた熱が消えた。シンの魔法で癒されたのだ。
「グランツさん」
シンが唱文をやめ、警戒するような声を発した。剣が再び振り上げられる気配を背後で感じる。グランツは笑うのを止めてもう一度歯を食い縛ると、シンの腰を探った。
「少し借りる!」
彼がいつも提げている小剣を抜き出し、振り返り様、襲いくる幅広剣を払い除ける。見越していたのか、今度はフォスの手から剣が離れることはない。
「主に剣を向けるのか、グランツ」
両手で剣を構えながら、無表情にノルベルトが問う。
「あなたはすでに、シャリエの王ではない」
身を斬られた時よりも手ひどい苦痛を堪えながら、グランツも剣を構え、かつての主に告げた。
「他国の王となるべき人を欲得だけで殺めようとする者を、王とは……私の王とは呼べぬ」
「……おまえも私を裏切るのか、グランツ」
「私は私の主をお救いする。あなたは私の愛したノルベルト様ではない」
「私と共に来るよりも、その子供の騎士として生きることを選ぶのか」
「……主は、生涯ただ一人だ」
血を吐く思いで告げてから、グランツは小さく啜り上げた。
「だが、そうだ。私はあなたよりも、彼と生きることを選ぶ」
グランツさん、と背後で小さなシンの声が聞こえた気がする。
グランツは振り返らず、涙で滲む目をかつての主へと向けて凝らした。
もうフォスの体は見えない。グランツの目に映るのは、猛烈な勢いで渦巻き人のような形を取る黒い瘴気だけだった。
「――ならばおまえも私と共に地獄へ堕ちろ!」
濁った怨嗟の声と共に、瘴気がグランツ目がけて嵐のように近づく。瘴気の中心で剣が煌めいている。
グランツはシンの剣を握り直し、咆哮を上げながら自分も瘴気に向けて走り出した。
◇◇◇
決着は一瞬だった。
グランツが黒い靄に向けて迷いなく剣を振るった瞬間、大地を揺るがすような低い唸り声が響き、それが途絶えた時には黒い靄も綺麗に消え去っていた。
「……」
――せめて、手応えがあればよかった。
そう思いながら、グランツは剣を握る手を下ろした。
黒い靄を、ノルベルトを斬った時、空を切るような感触しかしなかった。
頭上を見上げる。薄曇りの空が広がっているだけだ。あの向こうにノルベルトは行けたのか。それとも、もっと違う場所に行ってしまったのか。
グランツにはわからない。
「……馬鹿だな」
ぽつりと呟く声が、下の方から聞こえた。
のろのろと見下ろせば、地面に倒れ伏したフォスのそばに、シンが膝をついている。フォスは身動ぎもしていなかった。再び糸の切れた人形のように、ただ地面に転がっている。
「俺はあのままノルベルトさんに殺されたってよかったのに」
フォスの背中に触れながらシンがまた呟く。
「俺だって……この体と運命から逃れるために、死ぬことがずっと望みだったんだから」
「……」
グランツも、シンのそばに片膝をついた。
「俺はあなたの王にはなれないからね。自分が楽になるために、クレオ様が死にかけだっていうのに俺までいなくなればこの国がどうなるか誰より知ってたのに、全部見捨てて行こうとした」
シンは笑っている。こんなに寂しく笑う人を、グランツは初めて見た。
「騎士なんていらないよ、俺は――」
「死ぬなどと言わないでくれ」
小さな声で呟き続けるシンの言葉を遮り、グランツは少しだけ責める調子を乗せて、シンに言った。
シンがまた笑う。
「それ、グランツさんが言う?」
「君がいるから、私はノルベルト様のいなくなったこの世界でも生きたいと思う」
フォスの背中をみつめていたシンが、ゆっくりと顔を上げ、グランツを見遣った。
グランツはその視線に応えるように、小さく頷いてみせた。
「グランツの名は捨てる」
「え……」
「私はロード・グランツでもなく、ノルベルト様……シャリエ王より賜れたグランツ領の領主でもない、ただのカレルだ」
フォスの手に握られている自分の剣を、グランツはそっと引き抜いた。
「この名すら捨てて、ただ君のために、君のそばで生きたいと思う。君を守るために」
その剣の柄を一度だけ、きつく握り締める。
ノルベルトがシンを殺せと命じた時、グランツはどうしてもそれに従えない自分がいることを知った。
理由はとても簡単なものだった。
グランツは、ただ、この少年が好きなのだ。
彼の運命ごと、すべて。
「私は君を生涯かけて守る。騎士としてではなく、友として。だから、君に剣は捧げない」
「……」
剣を手放そうとした時、シンの伸ばした手が、グランツの手ごと鞘を握り締めてそれを止めた。
「……全部を捨てる必要はないよ。あなたがこの国に辿り着いた理由が、あなたのこれまでの生き方だっていうなら、俺は生まれて初めて運命ってやつに感謝する」
泣きそうな顔で、シンが笑った。
十六歳の少年らしい笑顔だった。
「あなたは俺の運命の人だよ――カレル」




