亡霊
グランツは交渉の場に立ち会うことになったものの、身分は隠し、ただアクリオス側の同席者という立場を保つことにした。
「あなたが前に出ると、異国の人たちがっていうより、アクリオスの人たちが騒いで交渉どころじゃなくなるだろうから。フォスと同じく俺の護衛として、状況を見ててもらう」
そのシンの決断にグランツは従った。シンから借りたアクリオスの衣装を、日頃のシンと同じように着こなす。裾の長い、法衣に似た上衣のフードを目深に被って髪と目の色を隠し、マスクで面相を隠す。大人しくしていれば目立ちはすまい。グランツも自分が部外者なのは元より承知なので、無理に出しゃばるつもりもなかった。グランツが重要な交渉の場に出ること自体が、他のアクリオス人にすれば気に食わないことではあったろうが、シンの命令で護衛としてならば――と一応納得してくれたようだ。
シンとグランツ、フォスに、神殿の人間が五人ほど、異国人のために用意された宿舎の一室へ向かった。待ち構えていたのは現在アクリオスの港に商船を停泊させている、三つの国の使節たち。それぞれ二、三人ずつ、最初に口火を切ったのはヴルカーノの使節だという男だった。
その国の名を聞いても平静さを失わないよう、部屋の隅でフォスと並び大人しく控えながら、グランツは必死に自分へと言い聞かせた。
――コルノの命を受けた人間であろうと、軍人ではないだけ、マシのようだ。
ガローネという男のなりは、ヴルカーノ人の特徴そのままに大柄だが、細身で、立ち居振る舞いは戦闘向きではなく、おかげでグランツは思ったよりも随分と理性的でいられた。
シンはグランツの指示どおり、アクリオス側にかなり有利な条件を最初から強引に提示した。ガローネたちの顔が見る見る曇っていくが、構わず、ほぼ一方的に話を進めていく。
「……なるほど。ようやく話し合いの必要があるとご理解いただけたようで、何よりです」
ガローネたちが最後まで口を挟まずにシンの言葉を聞いていたのは、それでも先日までの『一切を受け入れない』という状況よりは、交渉の余地があるだけいいと思ったからだろう。
少々鼻白んでいるように見えるのは、おそらく今回もシンが異国人側の意見を突っぱねることを想定し、あちらはあちらで強攻策を採るつもりだったのだろうとグランツは推測する。
「すぐに結論を出せとは言いません、そちらはそちらで話し合う必要があるだろうから」
シンが微笑みかけると、ガローネたち、特にヴルカーノ人たちが苦々しい顔つきになる。北側諸島に船が集まっているのであれば、悠長に話し合いをしている暇など、本来はないのだろう。
だがヴルカーノ以外の国の者は、シンが書き上げた条約の草案に興味深そうに見入っている。彼らは性急にことを進めるよりも、確実に自国の有利になるようことを動かそうと慎重になっている様子だった。
「では本日は、この辺りでお開きにしましょうか」
草案をしたためた紙を前に考え込む異国人たちににこやかに告げると、シンは座していた大陸風の椅子から腰を上げた。
「いや、少し、待ってはもらえないか。また話し合いの場を持つのに何日も待たされるのでは困る」
ガローネがシンをすかさず呼び止める。前回の交渉から今日まで、数日が空いていた。空けていた、というべきか。
「他にもすべきことがあるので、草案について意見があるならぜひ次の機会に」
ヴルカーノ側が焦りを見せることは想定内だったので、シンは呼び止めるガローネの言葉をやんわりと撥ね付けた。
「しかし」
「まあまあ。これから長いつき合いになるかもしれないんだから、お互い慎重に――」
ガローネたちに笑いながら告げる途中で、不意に、シンの声が途切れた。
あまりに唐突にシンの顔色が変わるのを見て、ガローネたち大陸の者も、アクリオスの神官たちも、それにグランツも驚く。
「――シン殿?」
シンが背後を振り返り、宙を見上げるが、そこのは何もない。一体どうしてしまったのかと、グランツが思わず彼の方に足を踏み出しかけた時、真横でどさりと重たいものが床に落ちる音がした。
「え?」
音につられて今度はそちらを見遣ったグランツは、さらに驚愕した。
「フォ、フォス殿!?」
フォスが、横向きに床へと倒れている。貧血でも起こしたのかとグランツは慌ててそのそばに膝をつくが、フォスは特に苦悶に顔を歪めることもなく、いつもどおり無表情のまま、なぜかぽっかりと両目を見開いている。
だがその目は何かを見ている様子もなく、ただ体を弛緩させている。まるで糸の切れた操り人形だ。グランツは彼が死んでしまったのではないかと思い、さらに狼狽してフォスの胸に掌を当てようと腕を伸ばした。
「グランツさんは触らないで!」
それを阻んだのは、シンの鋭い声だった。
「え、な、なぜ」
「いいから離れて」
シンはグランツがフォスに触れることを制し、身振りで離れるよう示すと、今度は神殿の人間たちに向けアクリオスの言葉で矢継ぎ早の指示を告げた。
グランツ同様、ガローネたちも一体何が起きたのか把握できないようで、ただフォスが神殿の者たちに抱えられる様子を見ている。
「シン殿、フォス殿は……」
目を開けたままぐったりしているフォスの体は、すぐさまその場から外へと運び出された。戸惑うグランツのそばに、シンが素早い動きで近づいた。
「――今、クレオ様が完全に意識を失った」
グランツの耳許、聞き取るのが困難なほどの声で、シンが囁く。驚いて声を上げそうになるグランツの腕をシンが締め上げ、グランツは危ういところで口を噤む。
「俺はすぐ王宮に向かう。悪いけど、グランツさんは適当にこの場を終わらせて」
――いよいよ、その時が来たのだ。
軽口を叩く余裕もないシンの様子に、グランツは察した。ここ数ヵ月、床の上で夢うつつだったアクリオス王が、ただ深い眠りに就いたわけではなく、危篤状態に陥ったのだ。それをシンは、本人から離れた場所で察知した。おそらく神の力というやつで。
グランツの返事を待たず、シンも宿舎から出て行った。
あまりに慌ただしい雰囲気に、ガローネたちも、大きな異変が起こったことはわかっただろう。グランツはそれを問う隙を与えないよう、公用語で一方的に交渉の打ち切りを宣言した。
「説明はできないが、緊急の事態だ。状況は追って知らせる」
それだけ告げて、グランツもそそくさと宿舎をあとにした。
シンやクレオ、それにフォスの状態が気にはなるが、それこそグランツは部外者だ。できることもないだろうし、大人しくシンの家で彼らの帰りを待とうと決め、足早に港近くの宿舎から城塞に戻るため、借り受けていた騾馬のところへと向かう。
「――待たれよ」
異国人用の居住村、その柵累に繋いでいた騾馬の手綱を解いた時、グランツの背後から声がかかった。
振り返ると、ガローネと他に二人、ヴルカーノの男が立っている。グランツは嫌な予感を覚えた。
「急いでいる。話し合いは、また改めて」
シャリエ訛りに気をつけながら、マスク越しに公用語で答えたグランツに返ってきたのは、可笑しげなガローネの笑い声だった。
「まさかこんなところで、西方大陸一の騎士の姿を見るとは思わなかった」
ガローネは最初からグランツの正体を確信している口調で、言い切った。
「一体何のことか……」
「誤魔化さずとも結構。戦場で一度でも貴殿と見えた人間が、その姿を見間違うはずがないと、強く主張しているものでね」
ガローネは商人、あるいは文官であり、軍人ではない。
だが彼の背後に控えた二人は、明らかに日頃剣を持ち、馬を駆る側の人間だ。今も腰に剣を提げている。
グランツは自分の失態に頭を抱えたくなった。交渉の最中に必要とあらばロード・グランツの名を明かしてヴルカーノ人たちの不意を突いてやろうと思っていたのに、とっくに正体を見抜かれた上、交渉の場以外の場所で掴まってしまった。
「……私は貴殿らに用はない。失礼」
厄介なことにならないうちにと、そそくさ立ち去ろうとしたグランツの言葉を無視して、ガローネが大仰に声を張り上げた。
「祖国――いや、我が国から逃げ出したと思えば、こんな辺境の地にいらっしゃったとは」
グランツはガローネの言葉に既視感を覚える。シンについて村落の視察を行う途中に遭遇したヴルカーノ兵にも、同じように嘲笑された。彼らは今、城塞内のいずこかに捕らえられ、国との連絡を絶たれている状態のはずだ。ヴルカーノがアクリオスに干渉した明らかな証拠となる虜囚だが、グランツがシンに確かめたところ、彼らを材料にできるほどアクリオス側が交渉に長けているわけではないので、神殿の人間によりただ眠らせ続けている状況だという。それを聞いてグランツは安堵した。ヴルカーノのこれまでのやり方を考えれば、虜囚の解放を口実にして城塞に攻め入っても不思議はないのだ。
――村落の人々を殺し、土地を穢した罪は、シン殿一人が被った。
それを思うと、グランツの中にやりきれなさが湧いてくる。アクリオスの刑罰は、グランツの祖国とまるで違う、理解し難いものだ。
――ヴルカーノの兵どもなど、眠らせたりせず、切り刻んで殺してやればいい。
「それで、ロードグランツはシャリエの無能王から、この蛮族の王に鞍替えしたのかな」
手綱を持つ手を握り締めるグランツに、ガローネが再び嘲笑交じりの言葉を投げる。またしても既視感だ。捕らえたヴルカーノ兵よりも、ガローネの台詞の方が挑発的だった。
「……何だと?」
その挑発に、グランツは反射的に乗ってしまった。挑発だとわかっていても、どうしても聞き逃せなかった。
「臣下の寝返りにも気づけなかった愚かなノルベルトの次は、厄介事を子供に押しつけて逃げ回っている卑怯者のクレオに与したのかと聞いている」
「……」
深い怒りが、一瞬にしてグランツの目の前を赤く染め上げた。
「貴様如きがノルベルト様の御名を気安く口にするな」
無意識に、グランツの利き手が腰の剣を探る。柄を握り締めた。
ガローネはなお嘲笑をやめない。
「おやおや、忠誠心はまだ死人に寄せているのか。――強情を張らず、コルノ様の温情に従え、グランツ。我が主は味方には寛容な方だ。もし貴様がコルノ様に忠誠を誓うのであれば、それなりの立場でヴルカーノに迎え入れてくださるだろう」
ガローネの言葉を、グランツは最後まで聞かなかった。
何か思うより先に体が動く。赤く染まる視界の中で、グランツは鞘から抜き払われた自分の剣が、ガローネの首目がけて震われるのを見た。
だがその剣の閃きは、ガローネの喉頸に食い込む前に、彼のそばに付き従っていた兵の剣により止められる。
「……ッ、小賢しい!!」
さらなる怒りが湧いた。ガローネたちは、交渉を有利に進めるために『アクリオス側の人間がヴルカーノに手を出した』という状況が欲しかっただけだ。勝ち誇った顔のガローネがグランツを嗤う。その口が再び何かを言う前に、グランツはもう一度剣を振り上げると、ガローネの盾になった兵をその剣ごと後ろへと弾き飛ばした。
ガローネが愕然としたように目を見開く。
グランツが覚えているのはそこまでだった。
◇◇◇
目の前に血の海が拡がっている。
視界が血のような色に染まったわけではない。生々しく赤黒い血液が地面に拡がり、土に染み込む速さに間に合わず、血溜まりを作っている。
血溜まりの中にあるのは三人分の骸。
「……何、が……」
呟いた声が、まるで長い間咆哮を上げ続けたかのように嗄れている。グランツはのろのろと視線を動かし、血溜まりの中でぴくりとも動かない三人のヴルカーノ人から、自分の腕や脚や胴を見た。
すべて血に濡れている。
痛みは体のどこにも感じない。これは、ガローネたちの血だ。
「わ、私は……一体、何を……」
何も覚えていない。ガローネに呼び止められ、ノルベルトとこの国を侮辱され、怒りに任せて剣を握り締めたところまでが鮮明な記憶だった。
そのあとは何も覚えていない。
なのに剣を握り締めた手には人を斬った時の感触が、耳には男たちの悲鳴が、喉には怒りの言葉を撒き散らした震えの余韻が残っている。
――まるで、スフェラ近くの森の中で、ヴルカーノ兵たちを斬った時のようだ。
「……ひ……ひぃ……」
呆然と立ち尽くすグランツの耳に、怯えたか細い悲鳴が届いた。
ハッとして声の方を振り返ると、見覚えのある男が少し離れた場所でグランツと、その足許の惨状を見て蒼白になっている。交渉の場にいた、北側諸島にある国の使節だという男。
男はグランツと目が合うと、さらに甲高い悲鳴を上げ、公用語ではない言葉で何かを喚き散らしながら逃げ出した。
「待ってくれ!」
グランツは咄嗟に呼び止めるが、男はこけつまろびつしながら、宿舎の方へ逃げ帰っていく。
この姿で追いかければ事態が悪化するだけだということは辛うじて自覚し、グランツは絶望的な気分でその場に留まった。
「私がやったのか、これを……!」
シンに借りた服は、彼がいつも身につけているような暗い紺色の布地だったのに、それでも血の色がわかるほどに濡れている。
ただ相手の首を斬り払うだけなら、こうも血にまみれることなどないのだ。グランツは数多の戦場を潜り抜け、『効率よく』人から戦意を喪わせる方法を知っている。
なぶり殺しにしなければ、こうはならない。
「違う……」
よろめくように後退さり、血の海から逃れる。
フードとマスクをしてすら汚れた顔の血を洗い流すように、グランツの両目から涙が落ちた。
「こんなのは違う……!」
生々しい怒りの感情が、熾火のように体の中に残っている。血の色よりも、その怒りの存在が、グランツに自分の罪を思い知らせた。
――だが、そう、違う。
あまりに鮮明に憤怒の心が残っているのに、たしかにそれを身の内に感じるのに、それを味わう自分が自分ではない奇妙な感覚がする。
自分の怒りが――自分のものではないような。
そう考えて、グランツはハッとした。
唐突に腑に落ちる。
――そうだ、これは、私の怒りではない!
まるで外からねじ込まれ、奥深くに埋められて、それをまた無理矢理掘り起こされた。
そう気づいた瞬間、『それ』がグランツの中から解放された。
ずるりと音を立てるように、暗く重たい何かが出て行く。
「……ッ」
強烈な眩暈がした。思わずその場に片膝をつく。剣を取り落とし、その血塗られた手で額を押さえる。
「ぐ……」
血の臭いに噎せ返りそうになる。吐き気を堪えるグランツの間近に、誰かの足音が近づいた。
先刻の男が人を呼んだのか。混乱する頭で目を開けたグランツは、そこに予想外の人物を見つけて困惑した。
「フォス殿……?」
神殿の男たちに、いずこへか運ばれていったはずのシンの護衛。
茶褐色の短い髪と浅黒い肌、陰気な黒と灰色の装束をつけた姿はすでにグランツが見慣れたもののはずだったのに――グランツは自分の目を疑った。表情がいつもとまるで違う。何の感情も感じさせず、滅多に口を開かない青年が、今はグランツを見下ろし優しい顔で微笑んでいる。
そしてその笑い方に、グランツは見覚えがあった。
「そんな……そんな、まさか……!」
バイスで締め上げられたように痛む心臓を、グランツは必死に押さえながら声を上げた。
取り乱すグランツを、フォスがなお優しい微笑みで見下ろす。
「私だよ、グランツ」




