交渉
まだ気怠さは残るが、しばらく自分の舎で休んだおかげで、随分体調は回復している。
あんなに長いこと舎に引き籠もっていたのは久しぶりだ。スフェラから戻って以来のひと月ほど、幸いアクリオスは平和で、ウディヤの儀式が必要になるほどの問題は起こらなかった。
月に一度の祈祷式は、夜明け前から昼までの長時間延々と祝詞を唱え続けなければならないが、跪いて座っていられるし、何より血を流す必要がない。シンにとっては、退屈だが、楽な作業だった。
城塞内の神殿、祈祷所でその勤めを終えたシンを、神殿の人間が呼び止めた。
「シン様、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか。クレオ様にご報告いたしたいことがあるのですが……」
シンの父親、いや祖父と言っても通じそうな年齢の男が、俯きがちに跪いてシンにそう請う。
そこそこ回復したとはいえ未だ万全とは言いがたい体調だったが、呼び止められたことに、シンは少しほっとした。
グランツのいる舎に戻ることが、どことなく煩わしい。
グランツ自身の存在が面倒なわけではない。まあ、すぐ泣きすぐ感じ入り、勘違いばかりで勝手に盛り上がるあの性格や、声の大きさは充分うるさく感じるが――今はそのうるささが鳴りをひそめ、こちらに対して遠慮がちになっているところが、シンにとっては煩わしかった。
いつもどおりでいいのに、と思う。
――そうしてくれれば、こっちまで釣られていろいろ考え込んでしまうことなんて、しなくてすむのに。
また考え込みそうになっていることに気づいて、シンは軽くかぶりを振った。
「わかった。着替えてから行く」
アクリオスの王クレオは、シンが城塞に戻った頃から、完全に床についてしまったようだ。これまでも寝たり起きたりを繰り返していたが、今はもう人の支えがあっても身を起こし続けることが難しく、喋ることすらままならない。おかげでシンは王の仕事すべてを請け負わなくてはならなかった。
クレオは数年前から病を得て、年齢のせいもあり、治ることはないだろうと誰もがわかっていた。
年齢のせい、と言っても、クレオはシンに声をかけた男よりは若い。神聖王――かつてのウディヤは唯人よりも早く老いるのだ。短命な上、死ぬ頃には枯れ木のような老人の姿に成り果てる。
「――さっさと死ねるなんて、羨ましいよ」
「は? その、何かおっしゃいましたか?」
シンの独り言を、男は自分への言葉だと思ったのか、おそるおそる問い返してきた。シンは何でもないと首を振り、自分の背後で無言のまま控えている護衛を振り返った。
「フォス、着替え手伝って」
やはり無言、無表情で頷くフォスを伴い、神殿の一室で儀式用の白い法衣からいつもと同じ濃紺の法衣に着替えをすませると、謁見用の広間に向かう。神殿に勤める聖職者たちが平伏している前、石の地面から数段高くなった王のための壇の上に腰を下ろした。肘をついて座れる坐臥具が用意されていたのはありがたい。こういう気が利くことをするのは弟かな、とシンは思う。少し年の離れた弟も神殿勤めだったが、この場に彼の姿はなかった。あるのは高位の神官の姿ばかりだ。フォスもこの場にはいない。広間の入口で待機している。
壇上でたった一人、あまり見苦しくならないよう坐臥具に凭れながら、シンは床に伏している男たちを見下ろした。
「で、何?」
いい加減なシンの呼び掛けに応じて、神殿で最も位の高い男が前に進み出ると、顔を伏せたまま口を開いた。
「異国人どもについてのご報告でございます」
この国では、誰もシンと目を合わせない。ウディヤの持つ力で本心を透かし見されることを怖れている。
ウディヤの目を通せば人の怖れは黒い靄となって視覚化し、だからシンはこの国の人たちの顔がよく見えない。今自分に向けて長々と『ご報告』をしている男がどんな顔をしているのか、そこそこ長いつき合いなのに、わからなかった。
「恥知らずにも、また宿舎の増設を訴えてきました。その上、港の拡張と、城塞まで艀船を渡せるように工事をしろと……」
男の声音は苦々しい。いくつかの国と正式な外交条約を交わしてから一年あまり、アクリオスの港を訪れる異国の商船は増える一方だ。アクリオスでは大陸にはない特別な石が採れるし、織布の技術が優れているため、その取り引きを強く求められている。代わりに異国人たちは、自国の保存食や、土木の技術などを売りつけようとしていた。港や川の拡張については、アクリオス側に工事をしろと求めているのではなく、技術ごと人員を買えとこの一年間強腰に求め続けている。
「勿論すべて突っぱねてはいるのですが、何しろヴェロスが組合にも無断でいくつか口約束を取りつけていたために、異国人たちも強気で……」
「ヴェロス『王子』、か。祟るなあ」
男の報告を聞きながら、シンは微かに溜息をついた。
クレオの正妻の息子、ヴェロス。異国の文化に傾倒し、王の息子であっても王位を継げないアクリオスの仕組みに不満を持って、ヴルカーノに利用された愚かな男。
今は追放されアクリオスを去っているが、異国人たちはヴェロスと交わした約束を盾にその実行を促し続けている。
異国人は、アクリオスに『世継ぎの王子』という存在がないことを知らずに、ヴェロスを持て囃しているのだろうと、シンですら思っていた。だがおそらく異国人――特にヴルカーノの者たちは、途中でそれに気づいていたのだろう。だが気づかないふりで、ヴェロスをおだて上げて、自分たちに都合のいい条件を呑ませる約束を取りつけた。クレオ王の息子ヴェロス、とサインのある書類を異国人から見せられた時は、正直頭痛が止まらなかった。
「交渉の場を何度も持ってはいますが、何しろろくに言葉が通じぬもので……あちらは我が国の言葉を一向に覚えようといたしませんし」
我が国、という男の言い回しに、シンは微かに口許を綻ばせた。口許が皮肉っぽく吊り上がらないように気をつけなければならなかった。
自国以外の国をろくに知らなかったアクリオスの民は、これまでわざわざ『我が国』などと勿体ぶって表現する必要がなかったのだ。今はそれほどまで、ヴルカーノを初めとする異国人たちの存在が脅威になっているのだろう。
「他にも、異国人どもは採掘場や各種工房の見学をしたいと申し出ています。クレオ様の御名の許に断り続けてはおりますが、クレオ様ご自身がお出ましになられないことを不満として、どうやら城塞まで押しかける意志を持ち始めているようです」
異国人たちは、クレオと直接会って交渉したいと考えているようだ。
王が体調不良で外交の場に出られないことは通達してあるはずだが、そうであれば代理の高官を寄越せと訴え続けていることは、シンも知っている。
クレオとヴェロスを除けば唯一大陸の公用語を使えるのは、アクリオスでシンだけだ。他の者は、読み書きがそれなりにできるようになってきたとはいえ、自由に会話することができない。だから交渉といえば、シンの作った書類を許に、神殿の者が『要求は受け入れられない、不満ならば出て行け』と片言の公用語で繰り返すばかりだ。異国人たちはさぞ苛立っていることだろうと、シンにも簡単に想像がつく。
ヴルカーノは大陸で次々版図を広げているようだ。シャリエのような大国を力ずくで手に入れると同時に、いくつもの小国を無血で支配下に置いている。大した資源もなく、ろくな軍備も持たない小国であれば、ヴルカーノの属国になることを厭わない場合もあるだろう。むしろ進んで庇護を望むことも。
――でもアクリオスでは無駄なことだ。
シンは皮肉っぽい気持ちで、内心呟く。
神々の国で、余所者が土地を穢すことを、許すはずがない。
この国に住む者も、神々自身も。
異国人たちが本来交渉すべきは、勿論ヴェロスなどではなく、神聖王ですらなく、神々なのだ。そして神々が自分たちの血族以外の利益など考慮するはずもない。
――っていうのを話して、わかってもらえるはずもないけどね。
シンは報告を終えて再び平伏している男を見下ろし、また億劫な気分になった。神殿の者たちは、本当に『報告』することだけが目的だ。アクリオスには議会が存在しない。民意も関係ない。ただ神の裁定を、それを告げる王やウディヤの言葉を待つだけ。
「では、俺が彼らと交渉する。まあ形ばかり数人、そこそこ威圧感のある者がついてきて」
シンの言葉に、その場にいた男たちは一様に安堵したようだった。
「……ま、これも無駄なことだろうけどね」
だから続く言葉を、シンは彼らに聞こえないようにこっそり呟いた。
厄介事は先に延ばすこともないと、シンはそのまま神殿の高官二名ほどを引き連れて、港に立てられた異国人用の村へと向かった。フォスはいつも通り、命じてもいないのに勝手にシンのあとをついてくる。
先遣により王の代理人の来訪を知り、村の施設の一室で待ち構えていた異国の男たちは、現れたシンの姿を見て露骨に呆れた顔になった。
「これはこれは……もしやヴェロス殿下の弟君でありますかな」
五人ほどが集まった中で、真っ先に口を開いた男の顔に、シンは見覚えがあった。ヴルカーノの商人。もっともヴェロスと親しかった男。
ヴェロスを懐柔したという点で、すでに彼がただの商人ではないことを、シンは理解している。
おそらく、ヴルカーノ王の命を受けて、アクリオスの中を探っている密偵だ。それが事実であることを、シンは相手の心を読み取り確認した。軍属の文官。名がガローネであることは商船組合に提出された書類で知っている。ガローネの方も、シンがクレオやヴェロスの血縁でないことは知っているだろう。
「シン・ウディヤ。私の言葉は王の言葉と思っていただいて結構です」
シンはガローネの問いには答えず、そう言って微笑んだ。
ガローネが、やれやれとばかりに肩を竦める。
「どうやら公用語はお上手のようだが……話しの通じない役人のあとは、こんな子供を寄越すとは。我々もこの国の人々には相当侮られているものだ」
アクリオスにおけるウディヤの役目や立場を、ガローネは理解していない。神々の力を認めていなかったヴェロスは、ガローネにアクリオスの仕組みを一切説明していなかったようだと、シンはその心を読み把握した。ガローネや、その他この場にいる異国人たち――全員がヴルカーノ人だった――のアクリオスに対する見解は『非文化的な蛮族の住む土地』だ。
「せめて、ヴェロス王子を出していただけないだろうか。彼がいなければ話にならない」
ヴェロスがアクリオスを追放されたことは、ガローネも知っているようだ。だがその理由まではわからず、苛立っているのがシンに伝わってくる。
「ヴェロスはすでにこの国の人間ではない。アクリオスで、彼はすでに死者と同等の扱いを受け、一切の権利を失っています。彼を丸め込んで有利な条件を得ようとしても、もう無理ですよ」
回りくどいやりとりを省いて、シンはきっぱりとガローネに告げた。駆け引きは無為だ。大陸の人間にアクリオスのやり方を理解させるのは不可能だろう。
単刀直入なシンの言葉に、男たちが驚きを隠せず、微かな動揺が広がる。ガローネも軽く眉を上げたが、露骨な驚愕を見せることはなく、またやれやれといった調子で緩く首を振った。
「外交の途中で、代理の者も立てずに追放ですか。まったく、文化的ではありませんな」
「アクリオスの文化には沿っていますよ、この上なくね」
ガローネの皮肉を流し、シンは本筋に入ることにした。どうせこの男は、そもそもヴェロスに何ひとつ決定権がなかったことなど、先刻承知している。説明するのはやはり時間の無駄だ。
「改めて、王の意向を伝えます」
正確には王ではなく神々の意向だが、それを告げる気もない。
ヴルカーノを中心とする、いくつかの国の使節がまとめた要望書に対し、シンはそのすべてを否とした。港や運河の工事、停泊日数の延長、宿舎の拡大、取り引きできる品物の追加、取り引きにかかる手数料の値下げなど、一切を、交渉の余地なく受け入れないと告げた時、さすがにガローネの顔が強張った。
「それは……あまりにも、一方過ぎる結論では?」
「船を港に受け入れ、いくつかの品を取り引きできるよう許可を出したこと自体が、アクリオスとしては最大の譲歩なんですよ。これ以上妥協することはありません」
「やはり子供が相手では話にならん。せめてそこの、君の後ろでこちらを睨みつけている大人を前に出してくれ」
「同じことです。クレオ様の決定は覆らない」
「ではその王と直接話をさせてもらおう。君が王の代理というのなら、私もヴルカーノ王の任命を受けてここにいる正式な使節だ。その謁見の申し出を断るのは国としてありえない。このままだと、我々の国の他、通商を結んだはずの三つの国も敵に回すことになるぞ」
恫喝に近い口調でガローネが言う。シンは相手の神経を逆撫ですることを承知で、ガローネに向けて微笑んだ。
「ろくな交渉も成立させられず、異国の資源を武力で奪い取る、ですか? それこそ文化的ではないですね、蛮族に等しい行いだ」
蛮族、と口に出して言ったことはないはずのヴルカーノのスラングが、その『蛮族』と内心で罵り続けた相手の口から出てきたことに、ガローネはぎょっとした様子だった。
だがすぐに体勢を立て直し、根気よくシンに対して通商の必要性や、アクリオスの得られる利益について演説を始める。
それにシンが頷くことはなく、長い時間をかけて、状況が変わらないままの交渉を終えた。
◇◇◇
「茶を淹れてみた、どうだろう」
心身ともに疲労して自分の舎に辿り着き、自室の床に転がったシンのところへ、グランツがいそいそと茶杯を運んできた。
「え、グランツさんが淹れたの?」
藁布団の上に俯せになっていたシンは、顔だけ上げて、枕許に座るグランツを見遣る。グランツが大きく頷いた。
「大体フォス殿がいつも淹れてくれるくらいの濃さにできたと思う。口に合えばいいのだが……」
図体の大きな男が、小さな茶杯を手に緊張した面持ちをしているのがおもしろくて、シンは少しだけ精神的な疲労を忘れる。
「ふーん、じゃ、もらおうかな」
いつも茶を淹れる役のフォスは、グランツのせいですることがなくなったので、部屋の隅でいつもどおり端座している。浅黒い肌と、黒や灰色の服を身につけているから、そうして部屋の端っこに黙っていると、存在すら忘れそうになる男だ。
シンは身を起こして、グランツから茶杯を受け取った。口に含むと、甘く、温かくて、おいしい。何だか無性にほっとした。
「――いいんじゃない?」
「そ、そうか」
シンの感想に、グランツはグランツで安堵した様子だ。
「実は密かに、淹れ方の研究をしていたのだ。湯の温度や、葉の抽出時間など、あれこれ試して……あ、無断で茶葉を使ったことは、すまない。淹れたものは、失敗したものを含めすべて私が飲み干して、無駄にはしなかったが」
「いいよ、この舎にあるものは何でも好きにしてって言ってあるだろ」
苦笑気味に、シンは答える。
これだから、グランツのいるところに帰るのが面倒だった。グランツはこの舎に居候を始めて以来――一度シンの許を離れ、再び戻ってきて以来、腫れ物を触るようにシンと接する。
そのくせ『シン殿の役に立たなければいけない』という決意が、心を読むまでもなく全身から滲み出ていて、本当に面倒だ。
グランツを追い払ったのはシンの方だ。勝手に期待され、勝手に失望されることにうんざりしていた。うんざりというよりも、シンも落胆していたのもしれない。グランツにではない。グランツに対して、自分も勝手に期待して、勝手に失望したことについて。
グランツがどうやって自分の味方につくことを決意したのかを、怖くて読むことができない自分の臆病さにも。
「……でも戻ってきてくれたんだから、別にもういいんだけどな」
グランツの真意はわからないが、彼が自分を裏切るはずがないということだけは、確信してしまっている。だからもう、グランツがここにいるという事実だけで充分な気がした。遠慮がちになんて接してほしくない。前みたいに、うるさくこっちの体調を心配したり、突然泣き出したり、そういう鬱陶しいグランツに戻ってほしい。
「って願う俺も、どうにかしてるよ……」
フォスが淹れるものよりも少し熱い茶を見下ろしながらシンが呟くと、横に座っているグランツが首を捻る気配がした。
「うん?」
「何でもない」
冷まし冷まし茶を飲む途中、シンはつい大きな溜息を漏らしてしまった。
そんなシンの様子を気懸かりそうにちらちらと見ていたグランツが、とうとう、我慢しかねたように口を開く。
「随分と疲れているようだが……やはり仕事が負担なのではないか?」
前のようになってほしいと願った矢先に、これだ。シンはつい笑いそうになるのを、どうにか堪えた。
昨日祈祷式に向かう前も、グランツはシンを止めたい、でも自分が止めてはならない、と葛藤している様子だった。本人はその内心を隠しているようだが、隠すだけ無駄だと気づかないところがすごい。シンが心を読む力を持っていることを忘れているのだろうし、自分が顔や態度に出やすい性質だということに気づいていないのだろう。
――駄目だ、この人やっぱり、おもしろい。
笑いたいような泣きたいような気分で、シンはグランツに首を振ってみせた。
「祈祷式のことなら、大した負担じゃないよ。もう慣れっこだし」
「だが、ぐったりしているように見えるぞ」
「どっちかっていうと精神的な疲労の方かな。大陸の人たちとの話し合いがまったく上手くいかないんだ。というか、向こうはその気でも、アクリオスには話し合いをするつもりがまったくないから」
「そうか……君は、通訳でもあるんだったか」
「確かに公用語は俺しかまともに使えないけど、それよりクレオ様が表に立てない今、すべての決定権が俺にあるんだよ。王の次に偉い人間を出せって言われたら俺が出ていくしかないんだけど、大陸の人たちにはまあ、理解できないんだろうね」
シンの説明に、なるほど、というようにグランツが頷いた。大陸では王制であっても議会があったり、共和制であることが普通らしい。アクリオスでは王の裁定、神の意志がすべてだ。
「まったく厄介だよ、アクソスもこういう時は役に立たない。この間の嵐で商船のひとつふたつ沈めてくれればよかったのに、大陸からここまで辿り着くような船じゃびくともしなかった」
「――交渉をしている相手は、ヴルカーノか?」
眉を顰めながら訊ねるグランツに、隠す理由もないのでシンは頷いた。
「そうか……」
グランツは自分の手許に目を落とし、少し考え込むような風情になったあと、もう一度シンを見遣った。
「よければ、交渉の内容を詳しく話してくれないだろうか。その、大陸やあの国のやり方は、おそらく君たちよりは私の方が知っているだろうから」
これも、シンが断る理由がない。シンも外交の経験がないので、情報が得られるのならありがたい。ヴルカーノを初めとした国交のある国々の求める条件と、アクリオスの反応、つまりすべてを突っぱねたことをシンはグランツに説明した。
「なるほど……気を悪くしないでほしいが、それは、うまくないな」
ひととおりシンの話を聞き終えたグランツが、難しい顔で相槌を打つ。
「勿論、君たち側に外国との交易をする意志がないのはわかる。この国の文化はあまりに大陸と違い過ぎて、互いによい影響だけを及ぼすとも思えない。が、一度船が港に入ってしまったのなら、それをなかったことにはできないぞ。それに……ヴルカーノの最終的な目的を、君は忘れていないだろう?」
重たい口調で言うグランツに、シンは頷いた。
北側諸島にヴルカーノの船が集められているという情報は、勿論グランツがシンにも伝えてある。
「まあね。他の国はともかく、ヴルカーノが欲しいのはアクリオスの資源じゃなくて、アクリオスそのものだ。だからこそ向こうの要求すべてを突っぱねないとならないだろ。余所者を引き入れればこの国は終わる。神々が許すはずがない」
「おそらくヴルカーノは、この国にいる使節の合図のようなものを待っているのだと思う。攻め入る隙を窺っている。コルノの予定では、ディリティリオ殿の魔術……呪い……? のせいでこの国が混乱したところに乗じてやってくる手筈だったのだろう。だがそれが潰えた今、別の機会を計るために、ヴルカーノは強引な交渉を試みているのではないだろうか」
「らしいね」
グランツの説明を聞くまでもなく、ガローネの心を読んだシンには、それがわかっていた。ガローネたちは最初から魔術など信じておらず、ディリティリオよりヴェロス『王子』をうまく利用するつもりだった。
だからヴェロスがいなくなった今、王に近い権力を持つ者を交渉の場に引き摺り出し、再び国を掻き回すための方法を探しているのだ。
「ヴルカーノが今最も求めているのは、情報、特にこの城塞の造りに関してだと思う。ヴェロス王子がどの辺りまで教えているのかはわからぬが、宿舎や城塞へ続く水路の拡張を訴えているのは、堂々と人員をこの国に送り込み、城塞への進路を押さえるためだろう。――君は以前、騎士の剣では神が斬れぬといい、城塞は落ちぬと言った。だがヴルカーノの持ち込んだ鉄で君はあれほどまでに苦しんだし、この城塞は立派だがやはり戦をしたことのない国がヴルカーノの攻めに最後まで耐えうるとは、私には思えぬ」
グランツの忠告に、シンは即座に答える言葉を持てなかった。
「先日港で労働してわかったが、この国の一部の人間は大陸から来た者とそれなりに友好的な関係を築いている。大陸から持ち込まれる品に心奪われている者も多いようだし、何より大陸からこの群島まで辿り着ける商船の立派な造りと航海術に圧倒されていた。流通の規制はできても、異国に憧れる民の心を止めることは難しい。城塞で安全に暮らしている者はともかく、港で力仕事をしている労働階級や、外で暮らしている氏族までを、君がすべて監督することはできないのだろう?」
「……そうだね」
苦い気分で、シンはしぶしぶ頷いた。実際、その『外の氏族』が起こした叛乱が、ディリティリオの一件だ。アクソスの力を継がずに城塞の外で暮らす人間は、城塞の人間ほど神々の意志や脅威を間近に感じていない。
「異国の船を受け入れた時点で、アクリオスの状況が変わることは覚悟してる。俺はね。でも神々はそうじゃない。自分たちを敬うことのない異国人が大挙して押しかけるようになれば、また怒り狂う。その時向かう怒りの鉾先は、土地を穢す異国人ではなく、それを止められなかった俺たちだ」
シンの言葉は、どうしても溜息交じりになってしまう。
「その許しを請うったって、限度がある。俺の儀式だけで神々が納得し続けるとは思えないし」
「……」
グランツの眉根がきつく寄った。本当にわかりやすい人だ、とシンは少し可笑しくなった。グランツはディリティリオとヴェロスの尻ぬぐいのために、シンが何日にも亘って『儀式』を行ったことを思い出しているのだろう。
グランツは深刻な顔で考え込んだあと、再び口を開いた。
「僭越な申し出だろうが、条件の設定も含め、具体的な交渉のやり方を私に助言させてもらえないだろうか。先刻も言ったが、君たちよりは、私の方がまだ大陸のやり方に精通している。幸いなのは、ヴルカーノがアクリオスの統治権を欲しているとしても、名を聞く限り他の三国は純粋に通商の利益を欲しているだけということだ。ヴルカーノとて、他国の目を前にして理由もなく暴虐な振る舞いはできまい。対外的に見ても順当な通商の条約を結ぶことができれば、それに対してヴルカーノが力を行使しようとした時、あちらが批難の的になる」
「なるほどね、それが国際社会ってものか」
自分を含め、外交を知らないアクリオスの人間よりは、たしかにグランツの方が的確なやり方を知っているのだろう。
「勿論アクリオスの、神々というものの意志に背くような約束を取りつけたりはしない。そこを含めて君たちが不利益を蒙らないよう、うまく交渉ができるよう手伝わせてほしい」
「……わかった」
気は進まないが、シンは頷いた。グランツの言うとおり、相手からの要望を突っぱね続けるには限度があるし、すべての国から反感を買えば後々の禍根になってしまうかもしれない。
グランツがほっとしたように頷いた。
「ありがとう。それと、何なら、交渉の場に私が直接姿を見せてもいい」
「え?」
「アクリオスが侮られているようだと君は言っていたな。だが、『ロード・グランツ』が背後についているとなれば、多少はったりを利かせることはできるだろう。私は、その、自分で言うのも何だが、大陸の者にとっては生きた伝説のような存在だから」
「……」
俯き、恥ずかしそうに言うグランツを、シンはついまじまじとみつめてしまった。
シンに見られて、グランツはますます居心地悪そうな様子になっている。
「ま、まず意表を突くことができるだろうし、うまくやれば交渉の場で主導権を握れる。だから――」
「……いいの? 『シャリエの英雄』の名は、グランツさんにとって重荷じゃないの?」
ロード・グランツと呼ばないで欲しいと、グランツは何度もシンに訴えていた。国を失くし、主を守れなかった自分に、英雄と呼ばれる資格はないと。
「いいんだ」
ある種の覚悟を宿した顔で、グランツはきっぱりと頷いた。
「この際、利用できるなら、私の名くらいどう使おうと。死に損なった亡国の騎士の名など、どれだけ効力があるかは実際のところわからぬが、アクリオスを蛮族の国よと侮る輩の目を覚まさせるには足るだろう」
グランツはあくまで潔い。
自分の誇りやわだかまりよりも、アクリオスの――シンのことを考え、できることなら何でもすると、揺るがない決意を持っている。
「……昨日まで、揺らぎまくってたくせに」
グランツには聞こえないよう、シンは口の中で小さく呟いた。
グランツの葛藤に、心を覗かずにいたシンだって気づいている。気づいているからこそ覗けなかった。シンを主の身代わりにしていいのか。自分のせいで、ディリティリオたちに変わって辛い儀式をする決心をつけさせてしまったのではないか。自分はシンのそばにいていいのか。
その迷いがグランツの態度にいつもとは別種の鬱陶しさを与えていたが、今はその揺らぎが綺麗に払拭されて、ただひとつの願いだけがあきらかになっている。
――シン殿を、守りたい。
その思いは、ウディヤの力を使うまでもなく、シンの中に射し込んでくる。
「グランツさん、俺やアクリオスの味方をすることに抵抗はないの? ディリティリオやヴェロスを追放した俺を、軽蔑してるんじゃないの?」
ガローネはヴェロスたちを追い出したことについて、文化的ではない、と表現した。大陸ではそういうやり方は好まれないのだろう。
だったらグランツにとっても、と思い訊ねたシンに、グランツが驚いたように両目を見開いた。
「まさか!」
耳が痛くなるほど大声の否定が返ってくる。
「代わりに儀式を行った君を軽蔑するはずがない。あの時、私はとても無責任なことを言った。君が自分の国の常識で見た『理想の王』から外れているからと、君の行動を認めなかった。……ひとつ訊きたいのだ。君が自ら儀式を行ったのは、私のあの無責任な言葉のせいか?」
「うわ、それ訊くんだ」
シンは思わず、寝藁の上に突っ伏したくなった。
正面切ってこういうことを訊かれるくらいなら、遠慮がちでいてくれた方がまだマシだと思ってしまう。
「……まあ、そうだよ」
グランツはじっとシンのことを見続け、何とか話を逸らせないものかと言葉を探ったが、結局見つからず、シンは嫌々ながらに頷いた。
何か、とても、恥ずかしい。
「あの流れでディリティリオとヴェロスを殺すってさ。俺すっごい悪者みたいじゃない? 一生後悔引き摺って、悔やむたびにグランツさんのことを思い出すくらいなら、死ねない苦痛が何日か続く方がマシな気がしたんだよ」
「……」
「ほら、何て言うか、神様宥めるのが俺の役目で、宥めるのは得意だからさ。ヴェロスたちを儀式に引っ張り出したとして、いっくら苦痛を長引かせるたって、俺ほどそれができるわけがない。だったらアクソスたちとしても、より苦しむ人間が儀式をやった方が、溜飲が下りやすいだろうし――って待って、待って、面倒臭いから泣かないで!」
シンが説明する途中で、グランツは滂沱と涙を流し始め、ついには床に突っ伏し、殺せない声を上げながら全身を震わせている。
「わ、私は、君から離れるべきではなかった……! あの場に残って、せめて、君の儀式を見守るべきだったのだ……!」
「いや見たところで何が変わるものでもないと思うけど。グランツさんが辛いだけだろ、あなたは人の痛みを自分の痛みのように感じる人だし」
「一人で辛い選択を、行動を取らせて、すまなかった! だがこれからは私がいる、君を守るという誓いを、今度こそ私は果たす!」
泣き濡れてぐしゃぐしゃになった顔を上げ、グランツは拳を握り締めて声も高らかに宣言した。
「でも俺は、あなたの主じゃないよ」
シンは困惑して、そんなグランツを見返す。
「ここが神々の国である限り、同じことが何度も起こる。大陸出のあなたには、理解できないことばかりだろうし」
「決めたのだ。私は君の運命の人がみつかるまでそばにいると誓ったのだから、その間は、この土地のルールに沿う」
濡れた顔を乱暴に腕で擦ってから、グランツがまたきっぱりした口調で言った。
「迷いは正直ある、主は生涯ノルベルト様お一人と決めておきながら、新たに命を捧げたいと思う相手が生まれるのは、あの方に対する裏切りではないかと。……だが私は、どうしても、君を守りたい。もう二度と悔やみたくないのだ。どうか、そばにいさせてくれ」
シンはまた、笑いたいような、泣き出してしまいそうな、相反する気持ちになりながら、結局両方を混ぜたような苦笑を浮かべた。
「あなたが俺のそばにいるのは、義務じゃないよ?」
アクリオスの流儀で言えば、神に立てる誓い以外には大した意味がない。口約束を簡単に覆すことも多いから、重要なことは神の前で誓う文化だ。グランツがシンに対して立てた誓いを破ったところで、シンはそれを責めるつもりもなかった。
「ああ、君が私をそばに置くことは、義務ではない。だが許してほしい」
シンの言葉を、グランツは少し違ったふうに捉えたようだった。
「……ノルベルトさんを守れなかった代わりに、俺でやり直そうとしてる?」
シンの問いに、グランツが一瞬言葉に詰まる。
「そう、なのかもしれぬ……いや、わからない。だが私が迷う間にヴルカーノがこの国を、君を、好きに踏み躙ると思えば、私には耐えられない。ただの私怨の延長かもしれぬ。私の中には、まるで私のものではない荒ぶる感情があり、ヴルカーノ憎さのあまりに、君たちを利用しているだけなのかもしれぬとも思う」
「……」
「だが信じてほしい、君を守りたいという心は本物だ。このひと月、考えに考えぬいたが、そこだけは揺らがなかった。だから私は、自分のその心だけは信じようと思う」
「……わかった」
食い入るように自分をみつめるグランツから一度目を逸らし、もう一度見遣ったあと、シンは小さく頷いた。
「それじゃ、交渉についての具体的な助言っていうの、聞かせてもらえる?」
「おお! 始めようか」
いそいそと身を乗り出すグランツに、シンも改めて寝藁の上で向き合った。




