死にたい騎士は決意する
日暮れに近い頃、水が一杯に入った大きな樽を両腕にひとつずつ抱えてシンの家に戻ったカレル・グランツは、樽を抱えたまま家主の寝室をそっと覗き、目を瞠った。
「シン殿――」
訊ねようとした言葉は、喉に張りついたようになり続かない。
細身で小柄な体に先刻まで身につけていた部屋着を脱ぎ、護衛の青年、フォスの手を借りて、シンは白い法衣を身につけている。
部屋の入口で立ち尽くすグランツの掠れた呟きを聞き止め、着替え途中のシンが振り返った。
「それ、どっちか置けば?」
グランツの蒼白な顔色については言及せず、シンは何ということもない表情で口を開いた。
「ひとつは先に厨房に運べばいのに。というか、男が二人がかりでやっと一個運ぶ樽を一人でふたつとか意味わからないし、そもそもそういうのは竈番がやるからいいって言ってるのにさ」
シンはこの住処に護衛のフォスと二人で暮らしており、毎日の食事や掃除などは通いの女が担っている。甕に水を足したり薪を運ぶ男もたまに訪れるようだが、グランツはその男の代わりをここのところ務めていた。
ここのところ――シンと一度は袂を分かち、その後しばらく暮らしていた港町からこの家に世話になりはじめてから、ずっと。
「いや……私は居候だからな。労働くらいでしか、君に返せるものがない」
樽を担いで部屋の隅に置いてある甕の前に移動し、樽の水を軽々とその中に移しながら、グランツは答えた。
身ひとつで故国を飛び出し、異郷の地で暮らすグランツには、誰かからの厚意に返せるものがその『身』しかないのだ。
「……そう。好きにしたら、いいと思うけど」
シンの返答は少し、素っ気ない。グランツに思うところがあるというよりも、どういう態度を取るべきか決めかねているという風情に見えた。戸惑っている、というのか。
そしてそれはグランツの方も同様だった。
「出かけるのか?」
その戸惑いをどうにか振り払うように、グランツはシンに訊ねた。シンが軽い仕種で頷く。
「月に一度のお勤めにね。本来はクレオ様の仕事だけど、あの人はもう完全に自力では動けなくなってしまったから」
答える口調もごく軽いものだった。
だがその言葉の意味の重さをグランツは知っている。クレオはこの国アクリオスの王だ。神聖王と呼ばれる、アクリオスの人々にとっては神と等しい存在。その命が徐々に失われようとしている。そして神の代わりに、シンが祈祷の儀式へと駆り出される。
犠牲、と呼ばれる少年が。
定期的に行われる『祈祷式』は、神聖王を中心に神殿の聖職者たちが国の平安や民の健康や作物の実りを神々に祈願するだけの儀式で、シンの体に苦痛を与えるものではないらしい。
それでも、ほんの数日前までそれこそ自力で動くことも辛そうだったシンが、もう起きて動き回らなければならないという状況に、グランツは抵抗を感じた。
――だが、私が口を出すべきところではない。
そう自分に言い聞かせて、シンを引き留めたくなる心をどうにか抑える。せめて無理はするなと言いたかった。だがそれも言えない。
おそらくもうじき王を失うこの国の中で、民が頼るものが、神の他にはこの少年だけだと知っているから。
「何か他に、やっておくことはあるか? 掃除や、薪割りなど……」
グランツがシンに告げられるのは、その程度のことでしかない。
シンは困ったように、少し笑った。
「いいよ。グランツさんはここでだらだらしてれば。俺は明日の昼過ぎには戻るから、好きにしてて」
そう言い残し、シンはフォスと共に部屋を出ていく。
やはりかけるべき言葉も思いつかず、グランツはただシンの姿を見送った。
「……どうも、うまくないな」
一人きり残された部屋の中で、グランツの呟きだけがぽつりと響いた。
◇◇◇
ケレイス、パトゥサ、スフェラと、シンが三つの村落の視察を終えてから、月がひとつ巡った。
アクリオスの城塞は今のところ平穏に見える。
世界の中心をなす四大陸のうちのひとつ、西方大陸で生まれ育ったグランツにしてみれば、アクリオスはこの世の果てとも思われる場所だ。ここでは開闢以来一度も外敵の侵入を許したことがないという。
アクリオスの存在する群島はそもそも地図にも載っておらず、大陸の人間はその存在すら認識していなかった土地だった。他国と争う必要がないので、王の身を守る衛士や、治安維持のための番兵しか存在しない。しかもその全員が神殿に仕える聖職者で、武力というよりは神聖王クレオと神々の威光によって人々を従えさせているらしい。
だが船の発達により大陸の人間が群島に足を踏み入れるようになって、二年近くが経つという。
――ヴルカーノは確実にアクリオスへと近づいている。
グランツは確信に近く、それを感じ取っていた。
西方大陸の西に位置する軍事大国ヴルカーノ。グランツの故国シャリエを滅ぼし、グランツが誰よりも愛し尊んだ王ノルベルトを殺した国。
『北側諸島にヴルカーノの船が集まっています』
スフェラの村で出会った少年、ディリティリオはそう言っていた。
『先にもう少し兵を引き入れたあと、中と外から一度に攻める計画でした』
ヴルカーノ人の父を持ち、アクリオスではあり得ない容貌のせいで幼い頃から人々に迫害されていたというディリティリオは、自分の生まれ育った国をヴルカーノの国に売った。ヴルカーノの兵を手引きしてアクリオスに引き入れ、自らの『呪い』により大勢を殺し、この先も殺し続けようとした。
シンやグランツ、ディリティリオに与していた人間の裏切りにより、その企ては途中で潰えたものの。
――ヴルカーノは、来るだろう。
グランツはやはりそう確信を抱く。シャリエが滅んだ時と同じやり方だ。ヴルカーノは狙いを定めた国を内側から壊す。軍事力も抽んでているが、狡猾な王コルノの策略が何よりも怖ろしい武器だ。シャリエで王を守るべき高位貴族たち、将官たちが甘言に乗せられて寝返ったように、アクリオスではディリティリオや神聖王の息子であるヴェロスがヴルカーノに与した。
アクリオスの内側から支配する企みは潰えたとはいえ、コルノがこのまま身を引くとはとても思えない。アクリオスに軍隊がないことも、城塞以外に王を護る手段がないこともすでに知られているだろう。アクリオスの独特な資源や文化は大陸の人間にとって魅力だ。
だから必ずヴルカーノは来る。大陸よりもアクリオスに近い土地、北側諸島に軍船を集めているという情報をひと月以上前にディリティリオが正確に知り得ていたというのなら、すでに今日明日、それらがアクリオスに辿り着いても不思議はない。
――コルノ自らが、やってくるかもしれぬ。
そう考えて、グランツは小さく身震いした。アクリオスで最も強大な魔力を持つ者が王になるというように、ヴルカーノでは最も優れた軍人が王になる。王は何よりも強い『ヴルカーノの剣』でなくてはならない。形だけでも。コルノは前線は現れずとも、アクリオスへと進軍する船の中にいるだろう。
「……っ」
ノルベルトの首級を上げて傲然と自分を見下ろすコルノの姿を思い出し、グランツは再び背筋を震わせる。怒りや悲しみのせいではない。
快哉を叫びたくなるほどの歓喜が湧いている。
抑えがたい感情に気づいた途端、グランツはぎょっとした。その喜びが、まるで自分のものではないように思えたのだ。
この感じには覚えがある。シンについて村落の視察を行う途中、ヴルカーノの兵を見た時も、怒りで我を忘れ、奪わなくてもいい命を奪ってしまった。
それほどまでにヴルカーノに対する恨みが根深いのかと思えば、グランツは己の心にも戦慄した。
憎い仇であるのは当然だ。ヴルカーノは、コルノは、グランツのすべてだったものを奪ったのだ。
だが先に立つのはノルベルトを失った悲しみばかりで、仇敵に対する復讐心を自覚することはこれまでなかった。誰を殺しても、何を壊しても、ノルベルトは二度と還らない。だからこそ悲しい。
――なのに今、この手でコルノを屠る機会が訪れるかもしれないことに、身を震わせるほど喜びを感じるとは。
「私は……これほどまでに矮小な人間であったか……」
義なき殺戮をノルベルトは何より嫌った。コルノのやり方は卑怯ではあっただろうが、しかしそれが戦というものだ。シャリエは負けた。ヴルカーノが正しいか間違っているかは問題ではない。残るのはただ、グランツがノルベルトを守れなかったという事実だけだ。
その切っ掛けとなった裏切り者の諸公も、憎くないと言えば嘘になる。が、それ以上に悲しく、情けなかった。ヴルカーノに制圧されたシャリエにそのまま残り、逆賊を探し出し追い詰めて切り刻むことも、あるいはできたのかもしれない。しかしそれはノルベルトの魂を裏切ることになる。だからグランツは一人で故国を出た。ただ死にたくて、死にたくて、一刻も早くノルベルトのそばに行きたくて、アクリオスにまで流れ着いてしまった。
シャリエを離れた時点で、グランツはヴルカーノへ復讐する権利を失っている。グランツが殺してしまったヴルカーノ兵たちは、シャリエではなくアクリオスの敵だった。グランツはシンやアクリオスに雇われたわけではない。
だからあれは、ただの私憤だった。
「……ノルベルト様……」
久しく、声に出しては呼んでいなかった主の名をグランツは口にした。
「今の私に、果たしてノルベルト様の御許へ辿り着く権利があるのでしょうか……」
王の騎士は、誇り高く、正しくなくてはならない。だがすでにグランツは道を踏み外してしまった。
そしてもうひとつ、グランツを後ろめたくさせる事実がある。
水甕の前で馬鹿みたいに突っ立ったまま、グランツはきつく両手を握り締めた。
――シン殿を、守りたい。
主は生涯にたった一人ノルベルトだけだと誓っていたのに、ノルベルトを失えば生きていけるわけがないのに、今のグランツにはあの少年のそばを離れることができなかった。
「私は騎士だ……主なくしては、騎士ではいられない……」
握り締めた拳を開き、剣を握り続けたせいでゴツゴツしている自分の掌を見下ろす。
「己の生き方のために、私は生涯ただ一人と決めた主を裏切り、シン殿が望みもしない理想を押しつけようというのか……」
シンがグランツをそばに置くことで生まれる利益などひとつもない。
なのに彼はグランツがこの家に居座ることを許してくれる。
このままでいいのか、どうしたらいいのか、グランツにはわからない。一心に死ぬことだけを願ってシャリエを出た時は、迷うことなどなかったのに。
それでもたったひとつ、グランツの中ではっきりしていることはある。
「……そうだ、それでも私は……シン殿を守りたいのだ……」
確かに傲慢で、独りよがりな思いなのかもしれない。シンは自分がノルベルトの身代わりにされることなど一切望んでいないだろう。シンが憧れるのは、命を懸けて守られる立場ではない。自分こそが、命を懸けてでも守りたいと、その人のためになら死んでもいいと一途に思える相手に巡り会うことだ。
だがグランツがシンを守りたいと思う心は、どうしても消せなかった。いつもどれだけ迷っても、それだけは覆すことができない。
「だったら、もはや迷っても無駄だ」
ぐっと、グランツはもう一度拳を握り締める。
「理屈はあとからつければいい。たとえシン殿が嫌がろうと、迷惑がろうと、私は彼を守る」
口に出して勝手にそう宣言すると、揺れ続けて定まらなかった心が、随分とすっきりした。




