死にたい騎士の悔恨
久しぶりに、目を覚ました時に窓から見える空が晴れ渡っていた。
朝陽が容赦なく照りつける粗末な小屋の中、グランツはその眩しさのせいで目を覚ました。
起き上がると、床からはいくつもの盛大ないびきが響き渡っている。
狭い部屋の中に、十人以上の屈強な体軀を持つ男たちが、布一枚をその体にかけて転がり、眠っている。
グランツは彼らを起こさないようその体をそっとまたぎ、戸口から外に出た。
強い潮の香りが流れてくる。しばらく歩くと港に出た。すでに働いている男たちの姿が見える。荷を運んだり、積み上げたり、艀に下ろしたり。
沖に停泊しているのは、中央大陸にある商業都市国家の貿易船だ。船首に掲げられた明るい青色の旗が、今は風にたなびくこともなく垂れ下がっている。
「……海が……凪いでいる……」
白く泡立つこともない緩やかな波頭を眺めて、グランツはぼんやり呟いた。
こんなに穏やかな海を見たのは、グランツが港で寝起きし始めてからこの三日目の朝で初めてのことだった。
ここはアクリオスの港だ。
昨日の夜までは海が荒れ狂い、沖の貿易船が転覆しないのが不思議なくらいの嵐が続いていた。
――ならば、『儀式』は上手くいったのだろう。
グランツは何とも言えない心地で凪いだ海をみつめながら、思う。
ディリティリオとヴェロス王子の命は、何日にも亘る苦痛の末に、この国の神々に捧げられたのだろう。
「シン殿は……どうしているだろう」
誰かに答えてもらえる宛てもない呟きを、グランツは海に向けた。
シンと別れて集落を出た後、グランツは夜を徹して農耕馬を駆り、途中岩場や木蔭でずぶ濡れのまま野営をし、雨水を口にしながら、六日ほどかけて城塞の方へと戻った。ひどい道程で、馬の方がやせ衰えていたが、グランツの体には何の支障もなく、目的の場所まで辿り着いた。放浪と漂流には慣れている。
アクリオスに出るのなら船が必要だ。城塞の近くに港があったのを覚えていた。
辿り着いた港では、荒れ狂う波から荷や建屋を守るために男たちが必死に働いていた。
グランツはそれを見捨てておけず、頼まれもせずに手伝った。嵐の夜だ、グランツが異国人の容姿をしていることも、言葉が通じないことも、男たちは気づかない様子で声を張り上げ合っていた。
途中でさすがに差配らしき男が気づいて声をかけてきたので、相手の片言の公用語と交渉して、労働を提供する代わりに寝床と食事、それに少しばかりの報酬を得ることに成功した。
「おい、あんた」
ぼうっと突っ立って海をみつめているグランツに、その差配の男が声をかけてきた。
「船、話した。働き手なら、乗せると」
男が沖の船を指差しながら言った。どうやらあの貿易船の乗り手と交渉して、グランツが船で働くなら乗せてやると、約束を取りつけてきてくれたようだ。
グランツが船に乗って国を出たいことは男に告げてあった。男にしてみれば、異国人が自分の仕事場をうろついているよりも、さっさと消えてくれた方が気が休まるのだろう、その手配をしてくれたのだ。
「ありがとう」
男に礼を言いながら、しかしグランツはまだ心を決めかねていた。
十日も前の夜に相手から離れてなお、グランツはシンのことばかりを考え続けている。
儀式のたび、平然と振る舞おうとしながらも青ざめていたその顔を思い出す。
どうしたら自分に愛する人ができるのかと泣いていた姿を。
グランツが求めているのは、グランツにとって正しい者だけだと告げた声を。
――私は今、彼から離れて、いいのか?
シンは一人でも生きていけると言った。グランツがそばを離れれば、彼はたった一人になるということだ。自分の護衛すら信用せず、実の弟とすら親しく触れ合うことのないシンが、この先どんな思いで過ごして行くのか。グランツには想像もつかない。
シンはグランツに守ってほしいわけではないと言った。
それから、自分は誰に守られることもなく一人で生きていけてしまうとも言っていた。
その言葉について、どう考えればいいのか、グランツには答えが出せない。
それからさらに十日ほど過ぎた頃、差配の男から、港の船が今日の昼にも出航予定であることを知らされた。
「発つ前に、報酬を、取りに来いよ」
港で荷運びをしていたグランツの背を叩き、男が言った。
「あんた、働き者だ。力もある」
始めの頃は胡散臭い者を見る目をしていた男が、今は少しだけ好意的な口調をグランツに向けている。
他の人足たちは未だにグランツを薄気味悪そうに見るし、同じ小屋で寝起きをすることや同じものを食べることにすら抵抗がある様子で、遠巻きにしていた。意味はわからないが、おそらくひどい言葉で罵倒されたことも何度もあった。ミラや神殿兵たちの態度よりも、港の男たちの方が露骨な蔑みをグランツに向けた。
それでも人並み以上の働きを見せれば、褒めてもらえるし、こうして背を叩いてもらえる。調子としては、よく働く馬や言うことを聞く猟犬を褒める感じだが。
――それすらもないのだ、あの少年は。
「いや……そんなこと、望みはしないのか」
呟くグランツに怪訝そうな眼差しを残して、差配の男が自分の仕事に戻っていく。
最後の仕事に戻りながらも、グランツは延々とシンのことを考え続けた。
◇◇◇
陽が高くなり、貿易船の出航を控えて、港が慌ただしい様子になっていった。
朝から港と船の間を艀が何度も往復している。外国の商船と縁遠かったアクリオスの港は、大きな帆船が停泊できるほど広くはないから、こうして艀を使って人や荷を運ばなくてはならない。
船に乗るのなら、自分もあの艀で移動をしなくてはいけない。
そう思うのにまだ決心をつけかねて港に立ち竦むグランツの視界に、予想外のものが飛び込んできた。
漕ぎ手の手を借り、艀のひとつに乗り込もうとする人影。まるで周りの目を憚るように頭からフードを被った小柄な少年と、同じような格好の男の姿。
「――ディリティリオ殿……!?」
ちらりと見えた横顔は、グランツに見覚えのあるものだった。
唖然とその名を口にしてから、グランツは艀の方へと駆け出す。
「ディリティリオ殿、なぜ……」
駆け寄るグランツに気づいたディリティリオが、艀に下りようとする動きを止めた。グランツを見上げて、皮肉っぽい――どこかシンに似たやり方の――笑顔を浮かべる。
「なぜ僕が生きてるのか、お聞きになりたいですか」
先に艀に乗り込んだフードの男も、グランツには見間違いようがない。ヴェロス王子だ。
「治癒法で……助かったのか?」
ヴェロス王子を見下ろしながらグランツは訊ねる。ヴェロスの様子に少し違和感を覚えた。顔立ちは間違いなく森で捕らえた王の息子のものだが、表情がらしくない。ひと目見ただけで見て取れた傲岸さも、小心さも、神経質さもまったく消え失せ、惚けた顔で虚空をみつめているのだ。
「いいえ。僕もヴェロス王子も、儀式は行いませんでしたから」
そしてディリティリオの返答を聞いて、グランツは愕然と彼の方に視線を移した。
「行ったのはシン・ウディヤですよ。祈祷の合間に繰り返すあの儀式での姿を、僕はただ見せられていました」
「――」
グランツは言葉を失った。十日間荒れ狂っていた天候。やっと凪いだ海。
シンはあの儀式を、延々と続けていたというのか。
「な、なぜ……」
顔色を失くすグランツから、ディリティリオが少し視線を逸らした。
「さあ。僕は僕の罪を甘んじて受けるつもりでしたけど。ウディヤがどうして僕とヴェロス王子の命乞いを神々にしてくれる気になったのかはわかりません。儀式を行う代わりに、国を出るよう申し渡されました。この人を連れて」
ディリティリオが、虚ろな眼差しで身動ぎもしないヴェロスを見下ろす。
「路銀を持つことも許されず、こんなお荷物と一緒に見知らぬ土地へ放り出されることになったことくらい、罰のうちに入りませんけど――そんなことより、ウディヤの儀式を見続けなければならない方が」
呟くディリティリオの声が途中で掠れ、潰えた。ディリティリオも青ざめている。
「……死ぬまで夢に見るでしょうね」
「……」
震える声でもう一度呟いたディリティリオに、グランツには答える言葉を思いつかなかった。
艀の漕ぎ手が急かすようにディリティリオに声をかけ、ディリティリオが頷いてグランツに背を向けかけてから、思い直した様子で身を寄せてきた。
「北側諸島にヴルカーノの船が集まっています」
目を見開いて、グランツはディリティリオを見下ろす。
「先にもう少し兵を引き入れたあと、中と外から一度に攻める計画でした。中の方はあなたのせいで頓挫しそうですが、ヴルカーノが手土産もなしに戻るとも思えない。あの国にとって、軍隊も持たないこの国を侵略することくらい、手慰みのようなものですよ」
公用語で、周囲の男たちに聞こえないよう小声で囁いてから、グランツの反応を待たずにディリティリオが艀に乗り込んだ。
「シ……シン殿は……」
「ご自分の舎に戻られたはずです」
ディリティリオとヴェロスを乗せた艀は、すぐに商船に向けて漕ぎ出していく。
「……行かなくては……」
グランツは振り返ることもないディリティリオの背を見ながら我知らず呟き、きつく拳を握り締めると、その場から身を翻した。
◇◇◇
グランツの姿を見たシンは、彼らしくもなく、驚きを一切隠しもせずに、ぽかんと口を開けていた。
城塞内の彼の家、その寝室で、フォスの手を借りて起き上がり、水差しの水を飲んでいたところだった。
「何、やってんの?」
港から全力で駆けてきて全身汗まみれ、肩でぜいぜいと息をするグランツを見て、シンは呆れ返った口調で呟いている。
「港で――船に乗り込もうとするディリティリオ殿とヴェロス王子を……」
「……」
グランツの言葉で事情を察したらしいシンは、口を閉じると、無言のままグランツから顔を背けた。
強張った表情に見えた。
「す、すまない、シン殿、私は……」
「……俺は誰がいてもいなくても、ウディヤとしての責任を全うするだけだよ」
言い訳を捜してしどろもどろに話すグランツを遮るように、素っ気ない口調でシンが言う。
「あなたも自分の道を行けばいいんじゃない」
自分の方を見ようともしないシンの様子に、グランツはこれ以上ないというほど悔恨の念を抱いた。
先にシンから目を逸らし、手を離したのは自分の方だと、思い知らされる。
「私の手は……もう取り返しがつかないほど血で汚れている」
考えるより先に、言葉が口を衝いて出た。
「正しいことができなかったのは君ではない、私だ。初めから――ノルベルト様を守れず、挙句恨みに任せて剣をふるった。主を亡くしてもはや騎士ではないと口ではいいながら、騎士であろうと心のどこかで思っていた。なのにそれが果たせず君だけを責めた。私は……」
シンがどんな思いでディリティリオやヴェロスの罪を肩代わりしたのか、グランツには想像することしかできない。
シン自身に何の咎もないのに、死んだ方がマシだとしか思えないような苦痛を、何日も何日も味わい続けた彼の心の裡を。
「今までも、すべてノルベルト様の御為と思い、悔やんでもこなかった。人の命を奪っておいて……殺したのは私も同じなのに……公平さを求めて、君たちにその責任を押しつけていた」
シンはグランツに何も応えてくれない。
グランツは自分が彼に何を伝えたいのかわからないまま、必死に言葉を連ねる。
「それでもわたしは騎士だ。どうしようもなく騎士だ。君がウディヤであるように、私も騎士としてしか生きられない」
グランツはシンの方へ歩み寄り、その間近に膝をついた。
「もう少し、この国で君を見ていたい」
守りたい、ともう口にすることはできなかった。そばにいて助けたいと言うことも。自分にその力があるのか、グランツは自分を信じられない。
ただ、二度とシンから目を逸らしてはならないと、それだけを思う。
「――俺が、あなたの主に足る人間であるかを見極めるため?」
少しおかしげなシンの声がした。
グランツの方を振り返った時、シンは「仕方ないな」というような顔で笑っている。
「あなたはつくづく、傲慢な人だなあ。神を品定めしようっていうのか」
「そ、そうではない、私は」
「……いいよ」
シンはまたグランツから目を逸らし、俯いてしまった。
その表情が泣きそうに歪んでいるのを見て、グランツは先刻以上に、彼の元から一度でも離れた自分を悔やんだ。
「好きにしたらいい、約束は約束だし。全然そんな未来が訪れる気がしないけど、俺に運命の恋人ができるまでは守ってもらうって話だったしね。忘れてたけど」
「シン殿……」
「俺は寝るよ。さっき帰ってきたばっかりで疲れてるんだ。起きたら、国のこと色々考えなくちゃいけないし、もう本当、めんどくさい……」
ぶつぶつと呟きながら、シンはグランツに背を向けて寝床に横たわった。
終始無言で座っていたフォスが、空になった水差しを持って立ち上がる。
グランツはシンのそばに座り直し、相手が自分を見ていないことは承知で、深々と頭を下げた。
そして静かな寝息が聞こえてくるまで、その様子を見守り続けた。




