死にたい騎士の運命
「シ、シン様、恐れながら、謁見のお時間です。宮に、お戻りください」
息を切らして後ろを走り、呼び掛けてくる従者の言葉に、シンは振り返りもせず首を振った。
「やだ。面倒臭い」
シンは騾馬に乗っている。大きな川に分断された城塞内の、神殿がある側とない側、前者で騎乗したまま進むことを許されているのは、この国の王とウディヤだけだ。
ミラは泣きそうな顔で、シンの乗る騾馬の尻を必死に追っている。
「どうせ俺が決めなくてもいいことばっかり、また決めようとさせるんだろ。適当でいいよ。っていうかもうちょっとはおまえらの頭を使って考えなよって言っておいて」
「シン様……!」
「俺は訓練所にいるから、どうしても俺の手にしか負えないことが起きた時だけ呼んで」
ミラの半泣きの声を無視して、シンは騾馬の速度を上げた。
――あの子には可哀想だけど、まあ俺の弟なら、叱れる人もいないだろうし。
ようやく十四になったばかりだというのに、王の側近として働くミラに少しだけ同情して、でも反省することはなく、シンは騾馬を走らせる。
向かうのは、城塞内の片隅に作られた『訓練所』。
何の訓練かと言えば、槍や剣や、乗馬だ。
「あー、今日も、うるさい」
近づくほどに、暑苦しい男の叫び声が響いてきて、シンは眉を顰めた。だが口許は笑っている。
木の杭を円形に打ち立てただけのさほど広くはないその場所に辿り着くと、シンは騾馬から降り、円の隅で声を張り上げている男の方へと近づいた。
「もっと腰を落とせ! 剣は力任せに振るわず、体の芯で引っ張るように! 違う、遅い!」
真っ黒に日焼けした指南役が、円の中で木刀を振り合う十人ほどの若者に向けて叫び続けている。
指示の言葉は公用語ではなく、アクリオス語だ。
三十路を過ぎてなお暑苦しく――力に満ちたグランツは、シンの姿を見ると、厳しく吊り上げていた目許を和ませて笑った。
「君もまた訓練に参加するか?」
「いやー、もういいや。俺が向いてないっていうのは、この五年でカレルも嫌ってほどわかっただろ」
群島の空は晴れ渡っている。灰色の法衣、そのフードを頭からすっぽりと被り、マスクで口許を覆う姿は、夏向きではない。シンはグランツと共に木陰に移動して、フードとマスクを外した。
訓練所にいるのは、神殿兵の見習いばかりだ。今さらシンの姿を見ても、無闇に怯えたりはしない。訓練の手を休めないよういつも命じているので、シンの来訪には気づいているだろうが、剣の稽古から気を逸らさないままでいる。
シンが神聖王を名乗るようになってから、五年が経った。
クレオの死は彼が神の座に昇った祝いとして盛大に執り行われ、同時にシンの即位を祝い、何日も国を挙げての宴が続いた。
たった五年だが、シンには随分あっという間のことに感じる。
「カレル、上手くなったよね。この国の言葉」
「教師がよかったからな」
何となく呟いたシンの言葉に、即座にグランツの答えが返る。これもアクリオスの言葉だ。グランツにそれを教えたのはシンだった。グランツは結構物覚えがよくて、本人には言えないが、シンは少し驚いた。
「私がこの国の言葉を覚えるのは当然だが――彼らに公用語を教えてもいいのか?」
「うん。入ってくる人は止めざるを得ないけど、出て行く人を止めることはできないよ。したくないし」
ヴルカーノの軍船を退けて以来、今のところ異国の船がアクリオスの港に着くことはなかった。
それは同時に、アクリオスの人々も外海に出て行くのが不可能になったということだが――シンは公用語を覚えたいという人々の熱意を受け入れた。
まともに交流を持ったのはたった二年足らずだが、異国の商人たちがこの国にもたらしたものは大きい。それまでアクリオスしか知らなかった人は、大陸にある文化に憧れ、広い世界を夢見て、自分たちもいつかそこにいくのだと熱っぽく語るようになっている。
「俺はここに残るけどさ。小さな国でただ死んでいくより、アクソスの加護を捨てても外に行って、生きたいように生きるって、いいことなんじゃないかと思うよ」
「……そうか」
公用語の他に、グランツに剣を教えて欲しいと願い出たのは、アクソスに仕え、アクリオスの神殿で生涯をまっとうすることを誓った年若い聖職者たちだった。
外に行こうとする人たちとは対照的に、国を守るために強くなるべきだと決心した人たち。
――まあ半分以上、『ロード・グランツ』の強さに惚れ込んで、憧れてるだけって感じはするけど。
グランツそっくりな剣伎を見せる見習い兵士たちを眺めて、シンはこっそり笑う。五年前にいくつかの村落を巡回した時の戦いぶり、そしてヴルカーノが侵攻してきた時に港に乗り込んできた兵士たちを何十も一人で蹴散らした痕跡が、それはそれで若い男たちの気概を刺激したらしい。
そしてアクリオス語を覚えたグランツと話してみれば、実直で馬鹿みたいに優しい男だとわかって、今では個人的にグランツを慕い、心酔する者すら現れ始めている。
シンの王としての仕事は、大してなかった。
日々の祈りと、突発的に必要になった儀式と、定期的な祈祷式はきちんとこなす。それ以外、政治的なことに関しては、ほとんど口を出さなかった。グランツにシャリエや大陸の主立った国のやり方を聞いて、面倒なことは大人たちに任せて、神々の意に沿わない結果だけを変えさせた。やっていることはウディヤだった頃とそう変わりはない。
――どうせ最後の最後は神々が何とかしてくれるんだから、普段いい加減に過ごすくらい、いいだろ。
そのやり方でも、五年間、この国は平和だ。
空いた時間は、こうしてグランツの仕事を眺めて過ごす。
『カレル』は正式に城塞の名簿に登録されて、アクリオスの籍になった。彼を慕う者が増えつつあるとはいえ、未だに余所者が城塞内で暮らすことに反対する者も多い――むしろ反対する者の方が多いが、そこは神聖王の決定だという一言で、シンが黙らせている。役職は語学博士であり、剣の指南役であり、神殿の護衛だ。
年に数度、シンが城塞外の村落へ視察に向かう時は、グランツもついてくる。
そういう暮らしに、シンは安らぎを感じていた。
――まあ、たまにやらなきゃいけない儀式は嫌だし、面倒なことも多いけど。
「そういえば、北の山に登るのは、明日だったか?」
ふと思い出したようにグランツが訊ねてきた。
「明後日だってば。迎えを遣るから、カレルもちゃんと来てよね。あなたに祝福を受けるとやたら頑丈になるって迷信が広まっちゃってるんだ。形だけでも祈ってやって」
「形ばかりなんてとんでもない、私は全身全霊をかけて、新しいウディヤのために健康と幸せを祈る!」
「いいけど、一応神聖な儀式だから、あんまりうるさくしないでね」
シンの次のウディヤが生まれて、無事五年を迎えた祝いの儀式だ。
新しいウディヤは、神殿の中で乳母たちにより育てられている。
自分と同じ運命の子供を、シンはできる限り愛そうと思っていた。
「クレオ様は、孤独に慣れさせようと思ってたみたいだけど……」
クレオが神の許に向かう時、与えられた力ですべてわかった。
ウディヤとしての重たい運命を背負った子供の苦しみを誰よりもわかっていたクレオは、シンを守ろうと思っていた。人々に怖れられても傷つくことのない強い心を持つように。すべてを投げ出して神の怒りに触れることがないよう監視――護衛をつけて。
シンも同じことをすべきなのだろう。クレオだけではなく、歴代の神聖王は、すべてウディヤのためにそうして生きてきたのだ。
「……でもウディヤだったからって一人で死ぬわけじゃないって先例が、できちゃったわけだし。人に愛されて、愛することができるのは結構いいよって教えるのも、俺の役目かなとか……」
「うん? すまない、皆の掛け声がうるさくてよく聞き取れなかったのだが、何か言ったか?」
「何でもない」
はなからグランツに聞かせるためではなかった独り言だ。シンはいい加減に誤魔化し、グランツは軽く首を捻ったが、さほど気にする様子もない。
「しかし今日は、いい天気だな。午後になったら私は釣りにでも行こうと思うが」
「いいね、俺も行こう」
「よし、ではまたどちらが多く釣れるか、勝負だな」
グランツはやる気に満ちている。
この五年間、港に異国の船が訪れることもなく、海に釣り糸を垂らせば魚が釣れるようになった。
――その平和がいつまで保つのか、いつ破れるのか、シンにもわからない。神々に問うてもわからなかった。
「ま、クレオ様くらいの歳までは、頑張ってしぶとく生きよう……」
見た目は枯れ枝のような老人だったが、晩年のクレオはその容貌ほど歳を重ねてはいなかった。
自分もやはり同じ道を辿ることをシンは知っている。ウディヤとして生まれた者の一生は短い。
「カレル、早く新しい奥さんを見繕って、結婚しなね。宮殿じゃあなた、結構モテてるよ」
「んっ、そうなのか? アクリオスの女性は、私のような余所者を相手にしないと思っていたが……」
「うん、中には物好きもいるだろうし」
「……?」
「俺が先にいなくなって、一人ぼっちになったら可哀想だからさ」
「構わんよ。君が天寿を全うするところを見届けられるのなら、そのあとも私は孤独など感じずに生きていけると思う。……できれば私と同じくらい、生きていて欲しいと思うが」
グランツもウディヤの背負う運命については知っている。
すべてわかっていてシンを友と呼び、アクリオスに残り、シンのすべてを見届けると言ってくれた。
「君と生きるのが私の幸福だ。頑張って共に長生きをしよう」
拳を握り締めて力強く言うグランツに、シンは笑って頷いた。
いつかグランツを殺すと言った約束は、いつの間にか反故になってしまった。
代わりに新しい誓いがお互いの間にある。
死ぬまでは、頑張って、一緒に生きようと。
「あー、じゃあ嫌だけど、一旦戻って一仕事してから、ミラを連れて港に行くよ。またあとでね、カレル」
「ああ、今日は負けないからな」
続けて力強く、拳を握ったままのグランツが請け合う。
シンはそれに笑って手を振り、半泣きのミラの許に戻るため、繋いでおいた騾馬の方へ向かった。




