死にたい騎士を捕獲、いや、保護
町を行く人々のシンを見る人々の目は心なしか冷たかった。
理由はわかっている。森から戻ってきたシンが、この城郭の中に、ボロ雑巾みたいに汚い男を連れて帰ったからだ。
男を自分の家に運んでから、市まで行って買い物をすませている間に、シンの行動はこの都市中に広まったかの様子だった。
だが非難がましい視線を遠巻きに浴びせてきても、直接苦情を訴えてくる者はいない。シンは気にせず、布包みの荷物を片手に抱え直した。
――細身の体を、金の縁取りや刺繍のついた濃紺の法衣で包んでいる。フードを頭からすっぽり被り、口許もマスクで隠しているので外から見えるのは目許くらいだが、形のいい涼しげな藍色の瞳と細い眉、通った鼻梁の一端だけでもその容姿の端正さが窺い知れる。
ローブの下は、この夏の時期にしては長く、ゆとりのある上着と下裾着。町を行く人たちが着ている服のように袖にも下裾着には膨らみがなく、流行りから言えば少し古めかし上に暑苦しいはずなのに、シンの佇まいはやけに涼しげに見える。
市の立つ西通りを町の中心部へと抜け、人工的に広げられた川を越えてさらに進むと、居住区の一つに出る。この城塞都市にいくつか存在する居住区の中で、シンの住居がある場所は市の喧噪からも、外敵が侵入する可能性が最も高い大城門からも離れていた。
重たい木戸を開けて家に入り、天井から壁を覆うように垂らされた布を腕で掻き分けながら奥の部屋へ進む。竈番や掃除婦を雇っているが、主人であるシンの前に彼女らが姿を見せることはない。
「フォス、どう?」
北向きで明かり取りもなく薄暗い部屋に入りながら訊ねたシンは、しくしくと、辛気臭い泣き声を耳にして怪訝な顔をした。
狭い部屋の中心には藁筵が敷かれ、そこで眠っていたはずの男が身を起こし、両手で顔を覆い噎び泣いている。
「うう……なぜだ、なぜ……」
「あれ、もう起きたのか。頑丈な人だなあ」
身も世もない、という風情の男を眺めて感心したように呟き、手にしていた荷物を床にどさりと投げ出すと、シンはフードとマスクを外して人心地着いた。軽く息を吐き出す。人前では涼しい顔をして見せていても、昼の熱が溜まった石畳の上を歩くのは結構な苦行だった。
ローブを適当に脱ぎ捨て、シンは藁筵のそばにある円座の上に腰を下ろして胡座をかいた。
シンの向かいにはもう一人青年がいたが、シンが入ってきてから一言も声を発していない。そのことをシンは気にしなかった。この男、フォスは滅多に喋らないし、口を開けばろくなことを言わないのだ。
「で、何が『なぜ』?」
自分のこともフォスのこともそっちのけで泣いてばかりいる男に、シンは訊ねた。
男は洗い晒しの麻布を縫い合わせただけの室内着を着ている。シンのものなので、大柄な男には袖も裾も寸足らずだったが、元着ていたものよりマシだ。綿布の肌着も革の胴巻きも胸当ても長靴も、細かい刺繍と絹の裏打ちのある上着も下裾着も、ものは随分高級そうに見えたが、何分汚れが酷かった。肌着の上の鎖帷子など、汗であちこち錆びて黒ずんでいたほどだ。それらはすべて男の体に馴染み、皮膚と解け合うようにぴったり吸着して、脱がせるのには苦労した。臭いもたまらなかった。何日とか、何週間とかじゃない、何ヵ月も沐浴をしていない者の有様だった。
シンは男のための着替えを揃えに市まで出向いたのだが、嘆くばかりの様子に、服を着たらどうかと促すタイミングが見当たらない。
「なぜ……助けられてしまったのだ……!」
嗚咽を漏らしながら男が言う。シンは呆れた。
「助けて文句を言われるとは思わなかったけど」
これでは町の人たちの険しい視線を浴びながらも、男を家につれてきた甲斐がない。
「私は死にたかったのだ! あの場で倒れ猿どもの餌にされたって構わなかったのに! あの信じがたく大きな蛇は、私を殺そうとしてくれたんじゃないのか!?」
殺そうとして『くれた』、という男の言い回しが奇妙に聞こえて、シンは小さく首を傾げた。
「殺そうとしたけじゃないよ、あなたは随分剣の腕が立つみたいだし、こっちの言うことに聞く耳持たないし、面倒臭いから死なない程度に痛めつけて動きを止めようとしただけで」
「ああ、私は一体幾晩を眠りこけていたのだ? あれほど酷い傷を受けたはずなのに、もう跡形もなく塞がっているとは……!」
「幾晩も何も、あなたが寝ていたのはほんの二時間くらいだよ。傷が治ってるのは治癒法のおかげ」
「イラ……、――?」
聞き慣れない単語を耳にしたせいか、男がようやく、自分のそばに座るシンの存在に気づいた様子で顔を上げた。
うわっ、と声を漏らすのを、シンはようやく堪える。眠っている時も酷かったが、今の男の顔も悲惨だ。明らかな栄養失調を示してげっそり窶れた顔の、目許だけ涙で腫れて厚ぼったい。泥や脂で汚れている割に肌はかさかさに乾いていて表皮が捲れ上がり、手入れもされていない髭が蔓延る様子は失意の老人という風情だ。
おそらく見た目よりは多少若いのだろうな、という見当を、シンはつけてはいるが。
「公用語では何と言うのかな。あなたの国にもあるかどうかはわからないけど、傷を治す魔術だよ」
「……魔術……?」
男はきつく眉を顰め、それから長さの足りない袖口から覗く自分の左腕を見下ろした。
「魔術だって? そんな、馬鹿な……」
自分の身に起きたことがまったく信じられないらしい。シンの国ではあたりまえのその言葉は、きっと男の生まれ育った場所ではお伽噺とか、悪い冗談として語られる類のものなのだろう。
そんなことに配慮してやることもなく、シンは続けた。
「意識がない時には呪文が届かなくて効かないから、目を覚ましたらもう一度試そうと思ってたんだけど、もう必要ないみたいだね。あなたの体、馬鹿みたいに魔法が効きやすい」
「……ここは……君は……一体……」
呆然とした表情で、男が自分の腕からシンへと視線を上げた。その緑の瞳が案外力を持っていることに、シンは興味深い心地になる。
「死にたい死にたいって言ってる割には、元気だなあ」
森で男を見つけた時、シンは困惑したものだ。殺せ、死にたい、と叫ぶ男の太刀筋は清々しいほどに鋭すぎた。
魔法を使って吹っ飛ばした時に、その顔から溢れ出たのがどう見ても絶望ではなく希望だったことで、シンの困惑は好奇心へと変化した。
「俺はシン、この国のウディヤ」
シンの言葉に、男がまた眉根を寄せている。
「ごめん、これも公用語でどう発音するのかわからないんだけど、ええと、神使……御子……巫……どれかな、神の言葉を聞ける者ってくらいに思ってくれればいい」
「聖職者……?」
「ああ、そうそう、それそれ。多分あなたの国とは意味合いが少し違ってるだろうけど。信仰も体系も違うだろうしね」
「魔術、だって?」
シンの説明を遮るようにもう一度先刻と同じことを呟き、信じがたい、という表情で男が自分の腕を見下ろした。
「疑るのなら残りの傷をこの場で治してあげてもいいよ。まあ折れた骨も裂けた肉もほとんど塞がって、もう治すような部分もないけど」
「何ということだ……!」
一声上げるなり、男が両手の拳で、座った自分の足を叩き始めた。
「今度こそ! 今度こそ死ねると思ったのに……! あの白蛇に襲われた時、今日こそあの御方の御許に辿り着くことができると思ったのに!」
魔術によって自分の命が危うくなり、魔術によって救われたことを、男は理屈ではなく感覚で理解したようだった。男の体には森でシンがつけた傷も、白猿がつけた傷も、一つとして残っていないのだから。
そして男は、キッとシンのことを見据えてくる。
「せっかく体の骨が砕けるほどの打撃を与えてくれたのに、なぜわざわざ治療などしてくれたのだ!?」
やはり、どうも、男の言葉遣いは妙な気がする。自分の公用語を聞き取る能力には自信があったので、シンは相手の言葉の選び方に問題があるのだろうと把握した。言葉遣いだけではなく、言っている内容だっておかしい。
男はシンの魔術が生み出した白蛇に襲われたことを恨みに思うより、魔術の存在を疑るより、ただ自分が死に損なったことばかりを悔やんでいるのだ。
それも、本心から。
「困るんだよなあ、神の使いを傷つけるのもそうだけど、神域を託宣のない人の血で穢されると、うちの神さまたちが御機嫌を損ねるから」
適当に応えつつ、シンはますます面白いものを見る目で、男のことを見遣った。
「とにかくあなたも、名前くらいは教えたら。俺は名乗ったんだしさ」
シンの言葉に、男がハッとしたように目を見開いた。そして素早く居住まいを正してシンに向き直って座り、深く頭を下げる。その反応がいちいち大袈裟で、シンにはやはり面白い。
「――失礼した、私は」
名乗る途中で、男が躊躇するように言葉を切った。
黙り込んだ後に小さく吐息を漏らし、やがて諦めた様子で再び言を継ぐ。
「私は、グランツ。カレル・グランツ。……半年前まで、そう呼ばれていた男だ」
「グランツ……」
その名にどこか聞き覚えがある気がして、シンはとんとんと細い頤を指先で叩いた。
あまり間を置かず、思い出す。
「もしかして、あの『誉れ高き英雄、西方大陸一の騎士、シャリエのグランツ卿』?」
シンの言葉を聞くと、グランツと名乗った男は恥じ入ったように項垂れる。
「爵位は捨てた。もとより、与えてくれた王も国もすでにない。君主を守れなかった騎士に誉れなどない」
「ははぁ、あなたが、あのロード・グランツねえ……」
やたら感心する心地で、シンはグランツ自身の言葉は無視して、繰り返した。
「荷物の中のマント留めも腰帯も、徽章があったらしき部分は千切られていたから、訳ありだろうとは思ってたけどさ。剣の印はシャリエ王国のものだったろ、確かに他国に攻め入られて乗っ取られたって噂は、この国にも何となく届いてるけど――」
「……ッ」
グランツは痙攣でも起こしたかのように大きく息を呑み込み、藁筵の上に突っ伏した。
「私が……! 私が非力で未熟なばかりに、あの国は……!」
「フォス、何だか長くなりそうだからお茶もらってきてくれない?」
泣き崩れるグランツをとりあえず放っておいて、シンはグランツの向こうに無言で端座し続けている青年に呼びかけた。
茶褐色の短い髪と浅黒い肌、陰気な黒と灰色の装束を身につけたフォスは、愛想の欠片もない顔でシンに頷き、立ち上がって部屋を出ていく。
「私は……騎士の家に生まれ、生を享けたその瞬間から、国のため……王のため……この命を捧ぐことを定められ……いや、それは祈りに等しく……」
さめざめと泣きながら、グランツはそんな身の上話を始めた。
同情気味の――というより面白半分という表現が近い気分で、シンはその話に、耳を傾けた。




