死にたい騎士のどうしようもない不運
カレル・グランツは死にたかった。
彼は彼の恭順すべき主を亡くした。それも考え得る限り最悪の状況で。
(俺は最低の騎士だ。いや、もう騎士ではない。死にたい)
主のいないこの地上で、一秒だって生きていたくはなかった。
だが彼自身の立てた誓いが、自ら命を絶つことを許さなかった。
「どうか、私を殺してくれ――!」
悲痛な叫びを上げながら、剣をふるう。主から賜った幅広剣。紋章の入った長い柄を握り締め、あらん限りの力で目の前に襲いくるいくつもの爪や牙を薙ぎ払う。
甲高く耳障りな悲鳴。獣の声。グランツの体に後から後から飛びかかってくるのは、巨大な白い猿。立ち上がり天に向けて両手を伸ばせばグランツの身丈を超すほど。
金属的な鳴き声を発しながら剥き出す牙の色も白。
グランツは十を超える数のそれらを剣で切り刻むのではなく、片端から平打ちにしていった。
のべつ幕なしに自分に向かってくる白い猿たちを切り刻むのではなく、とにかく、払う。
殺したいわけではない。
殺してほしいのだ。
だがグランツは俊敏に猿たちの爪を払い、牙を躱し、致命的な傷を受けることがない。
「なぜだ!」
踊るようになめらかな動きで剣を振り、グランツは再び悲愴な泣き声を上げる。
「なぜ私はこんなに強いのだ!」
聞く者があればその滑稽さに噴き出すであろう問いを、グランツは真剣に、悲劇的な響きを滲ませた声で、誰にともなく向けた。
陽に焼け、泥や煤や脂に塗れて薄汚れた顔はナイフで肉を削いだように窶れ、頬骨が浮き上がり、目の辺りは落ち窪んで暗い影を落としている。
悲しみと絶望に満ちた緑の瞳は、かつてあった生気も覇気も失い、ただ歪なガラス玉のように鈍い光を放っている。
瞳が光るのは止めどなく涙を落としているからだ。
涙は髪と同じく手入れされずに伸びっぱなしになった藁色の髭に飲み込まれていく。
翻るマントはあちこち破れ綻び色褪せ、元の色などわからない襤褸切れにすら見えるのに、剣を振るうごとそれは優雅に風に舞い、白い猿と打ち合うグランツの姿は酷く美しい。
鬱蒼たる森の中、木々の持つ分厚い葉の隙間から真昼の光が煌めき落ちる。光はグランツの剣に落ち、涙に落ち、きらきらと輝きをあちこちに振り撒いていた。
「殺せ――殺せ、殺してくれ!」
グランツが咆哮に似た声を上げた時。
「好き放題剣を振り回しておきながら、殺せとは」
呆れたような声が、グランツの耳に入り込む。
澄んだ、まだ少し甘さの残る少年の声だった。
「それとも俺の聞き違いかな、フォス」
横合いから鋭く振り下ろされる猿の爪を両手剣の長い刃根元で受け止めながら、グランツは不思議そうに呟く声の主の方へと視線を走らせた。
相手は思いのほかグランツから離れた場所にいた。やはり少年。青みがかった黒髪と、細い体を覆う裾の長いたっぷりした服――法衣?――が、まずグランツの印象に残った。
少年の少し後ろにはもう一人、二十歳前後に見える青年が立っている。少年が明るい陽射しを浴びているようなのに、青年の印象は影のように暗い。
少しの間その二人組に視線を奪われていたグランツは、頬に鋭い痛みを感じて、意識を目の前の白猿に戻した。
「……くッ……」
低く呻き、歯を喰い縛り、グランツは両手剣を握る手に力を籠め直す。いつの間にか腕に酷い裂け目が出来、鮮血が噴き出ていた。二人に気を取られている間にやられたらしい。
だがこんな傷ではまだ死ねない。
「亡霊……?」
少年の怪訝げに呟く声が、グランツの耳に再び届く。
そう、亡霊だ。自分は紛れもない亡霊だ。いつまでも安らかに眠ることのできない、いつまでも浅ましく悔恨をこの世に残し続ける死した魂だ。
泣きながら、グランツは剣をふるう。
「――神獣の森で流血っていうのは困るんだよね」
グランツに打ち据えられた白い獣は、一匹、また一匹と地面に昏倒している。目を開けているものは、グランツの腕から流れ出る血の臭いに惹かれるように甲高い声を上げ、執拗にその傷口を狙う。
「どうもやめる気はないようだから、力ずくで止めさせてもらう。悪く思わないでくれよ」
少年がどうやら自分に向けて語りかけているらしいことに、再び戦いに集中し始めたグランツは思い至らなかった。ただその声の響きは清涼で、音楽的で、聞いていると心地よく、内容に関わりなくグランツの頭に、体に、染みこんでくる。
「――、――、――」
それまで明瞭に聞こえていた少年の声が、不意にグランツの聞いたことのない言葉へと変わった。囁きのような、歌のような、どちらとも判別つかない不思議な抑揚がついた音。
その声を耳にした猿たちが、唐突にグランツへと襲いかかる動きを止めた。
あまりに突然静まった様子に、グランツも驚き、再び少年の方へと顔を向けた時。
「……ッ!?」
空気を切り裂く勢いで、白く長いものが自分目がけて近づくのが見えた。
長さはグランツの背の優に三倍以上。不吉な赤色に光る目玉の大きさは人の頭と同じくらい。
(蛇……!?)
身をくねらせて地を這い、威嚇音を立てながら突進してくる白いものが、蛇というには巨大すぎる、だがやはり蛇でしかあり得ない生き物だと認めた刹那、グランツの体は宙に舞っていた。
同時に半分意識を失いかけていたので、『少年が放った白蛇に弾き飛ばされた』という状況が、グランツには理解できなかった。
ただ全身の骨が砕け、皮膚が切り裂かれ、頭から爪先まで血が沸騰したかのような感覚と同時に、度し難い恍惚を覚える。
(ああ、心地のよい激痛だ――)
そう思った直後、グランツの意識は完全に途切れた。




