↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死にたい騎士の不運  作者: eleki
死にたい騎士の鎮魂歌

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/27

最強の騎士

 ヴルカーノ兵、それにヴェロスという王の息子たちの姿は、思いのほか早く見つけ出すことができた。

 強い雨が降り続けているせいで足跡を追うことができないことには焦燥したが、その嵐のおかげで、ヴルカーノ兵たちは身を隠しながら進むよりも、安全な道を行くことに比重を傾けてくれている。

 ――どこへ行くつもりなのだろう。

 どこへも何も、グランツはこの辺りの地理がまったくわからなかったから、見当もつかない。新たな襲撃先として集落をに向かっているのか。だがこの雨だ、火矢を使うことはできないし、襲撃の日取りには法則があるのだとシンから聞いている。

 兵たちは小高い丘陵の上を行くので、グランツはその下の平地を、木々や岩に身を潜めながら慎重に騾馬を進ませた。

 それにしてもひどい雨だ。刻々と空が暗くなり、風が荒れ、今ではほとんど横殴りに降っている。雷鳴も凄まじい。ヴルカーノの槍兵は、穂先に落雷することを怖れてか、柄を倒して持っている。

 黒衣の騎士、ヴルカーノ兵たちは全部で十五名。その他のアクリオス人が三名。一人はヴェロスで他の二人は護衛だろう。さてこの中の誰を捕らえ、締め上げて、シンの体を治す方法を聞き出せばいいのか。

  いくら魔術に疎いグランツでも、シンのあの様子にそれが関わっていることくらい思いつく。ヴェロス王子には魔術が使えないとシンが言っていた。ヴルカーノ兵はそもそも魔術の存在自体を信じていないかもしれない。

 指揮官を抑えて脅しをかけるのはどうか。だが見たところ、この悪天候の中でも整然と進行するヴルカーノ兵は全員が精鋭だ。大将が敵に捕らえられたところで、諾々とこちらの言葉に従うとは思えない。ではヴェロスを捕らえるのは? ――隊から三人だけはみ出して足並みを乱しているアクリオス人を、ヴルカーノ人たちがどこまで丁重に扱っているかは怪しかった。シンの口ぶり、それにヴルカーノのやり口を考えれば、ヴェロス王子は捨て駒だ。『王子を殺されたくなければ』と脅しをかけたところで、ヴルカーノ兵が慌ててくれるとも思えない。

 悩みながら、グランツは騾馬を進めた。

 考えてみれば、考えてみれば、シャリエを出てから戦略についてこれほど頭を痛めるのは初めてのことだった。元よりグランツが担当していたのはもっぱら戦術の方で、『あの敵を下せ』とノルベルトから命じられた相手をどう斃すか、考えるのはそれだけでよかったのだ。逃亡の日々を送る間も、自分の命を狙う敵が目の前に現れる都度、排除していればそれでよかった。

 ――誰かのために剣をふるうのは、久しぶりだ……。

 そう思うと、グランツの胸はひどく痛んだ。剣は生涯ノルベルトに捧げると誓った。ノルベルト亡きあと、成り行き以外の状況で、自ら敵を追って戦う時がくるなんて思ってもいなかった。

 ――だがシン殿は私の望みを叶えてくれる人だ。お許しください、ノルベルト様。

 冷たい雨の中に熱い涙を感じてグランツが天を仰いでいるうち、ヴルカーノ兵とヴェロスたちは、ひとつの森の前へと到達していた。彼らが宿営地として使っていた場所、先刻シンが傷を受けたところよりも、もっと深い森。

 グランツは気配を殺して移動し、彼らの背後に回り込んだ。騎兵たちは黙々と森の中へ入ろうとしている。しめた、とグランツの心は少し明るくなる。森の中ならば、一人一人と対峙しやすい。相手がこちらに背を向けているのならなおさらだ。しかもこの足場の悪さでは、馬を反転させることすらままならないはず。

 しんがりから一人ずつ捕らえて、尋問していこう。

 そう決め、彼らの隊が縦長の列になりながら森に消えていくのをたしかめてから、グランツは自分もそれに続こうとした。

 その時、森の奥で薄気味の悪い叫び声が響いた。人の声ではない。鳥か、獣か、判別のつかない叫び。怒りの響きに聞こえる。そしてそれに被さるように、一際大きな雷鳴が空中に響き渡り、雨に濡れたグランツの肌をびりびりと刺激した。

「……何だ……!?」

 まだ夕方にもなっていないはずなのに、もはや辺りは真夜中のように闇に落ちている。雷鳴だけが光源だった。その光に照らされて浮かび上がる森の木々を見た時、グランツの全身がぞっと粟立った。

 兵士たちの姿は、木々に吸い込まれたように、グランツのいるところからはもう見えない。追わなくては思うのに、騾馬の体が竦み上がり、腹を蹴っても、たてがみを撫でても、動こうとしなかった。

「……神獣だ」

 騾馬を宥めようと試みるうち、グランツはハッとそれに思い当たった。

 先刻の声。どこかで聞き覚えがあるような気がしていた。アクリオスに流されて辿り着いた日に迷い込んだ森で出会った白毛の猿。

『あれは神獣だよ、この国の主神アクソスの祝いと呪いを受けた、『傷つけてはならぬもの』』

 シンはそう言っていた。

『あなたが入り込んだあの森は、聖域とされる、神職の者以外が『踏み込んではならぬ土地』』

 そうも言っていた。

 あの森と、今目の前に拡がる鬱蒼とした森は、ひどく似ている。木々の種類が同じとか、そういうことではなく――気配が似ているのだ。

 最初に自分が神域に迷い込んだ時には気づかなかった。

「私は……なぜこのように怖ろしい場所に、平然と入り込んでいたのか……」

 ヴルカーノ兵とヴェロスたちは、まるで魔物の口に自ら入り込んでいったかのようだ。これが『神の依る土地』? 以前シンがこの国のことを話してくれた時、たしかそう表現していた。

 だがグランツにはまるでそうは思えない。グランツの故国において、神は人々に祝福を与えるものだった。主を失い神を信じられなくなったグランツは、その存在を疑った。神などこの世界のどこにも存在していなかったのだと。

 そう、その時ですら、待ち受けているのが神などではなく悪魔なのではと思ったことはなかったのに。

 騾馬と共に茫然と立ち竦むグランツが我に返ったのは、雨を跳ね上げる蹄の足音を聞いたからだ。

 振り返ると、すでに豪雨と呼べる中を、大きく醜い馬が走ってくるのが見えた。人が乗っている。まっすぐグランツの方へ走ってくる。

「――フォス殿!」

 手綱を操るのがフォスだと気づき、グランツは無意識に剣の柄を掴んでいた手を離した。

 そして農耕馬らしき厳つい馬に乗っているのがフォスだけではないと知り、目を見開く。

「シン殿!?」

 シンは馬の首にぐったりと凭れていた。体が落ちないよう、うしろに乗ったフォスが背を掴んでいる。シンは身動ぎもしない。グランツは脳天から雷を喰らったかのように震え上がった。

「し、死んだのか!?」

「……あー、もう、うるさい……雷よりうるさい、ありえない、グランツさん……」

 騾馬を飛び降りて駆け寄ったグランツの耳に、心底億劫そうなシンの呻き声が届いた。

「人を勝手に殺さないでよ、だから俺は死なないって言ってるだろ……」

 馬のたてがみを掴み、大儀そうに、シンが上体を起こしてグランツを見下ろした。

 顔色は土のようだ。だが、生きている。目を覚ましている。

「だ、だ、大丈夫なのか、さっきまで、あんな……意識もなかったのに……」

「血は止まったし、傷もそろそろ塞がってきてる。――パトゥサを出たしね」

 シンはフォスを背もたれにして、大きく伸びをしていた。法衣のせいで傷口は見えないが、左腕もまともに動いている。

「よ、よかった……! 本当に、よかった……!!」

 グランツは噎び泣き、シンの右手を掴んで強引に握り締めた。シンは痛そうに顔を顰めたが、振り払ったりはしなかった。

「治癒法が効いたのか?」

「まあね。村長たちがくれた浄めの水のおかげもあるし」

「おお、そうか、あの村の人々も君の治療に協力してくれたのだな! ――ん? フォス殿、その顔は、どうした?」

 感激してシンの手を握っていたグランツは、ふと彼の背後にいる護衛の頬が、ひどく腫れ上がっていることに気づいた。誰かに殴られた痕だ。パトゥサを出る前に擦れ違った時には、こんな怪我をしていなかったはずだが。

「パトゥサの人たちの仕業だよ」

 口を噤むフォスの代わりに答えたのは、シン。グランツは眉を顰めた。

「え?」

「人を襲っておいて、怖じ気づいてまた裏切るなんて、醜悪すぎて言葉もない」

 口許を歪めて笑うシンが、背後――パトゥサの村のある方を振り返る。

「ディリティリオの方がまだ純真だ。純真すぎて、やっぱり気の毒なくらいだけど」

「ディリティリオ殿が、どうした?」

「あの子供がこの国をヴルカーノに売ったんだって話」

「え……!?」

 異国人とアクリオス人の間に産まれたのだと、あまり屈託を感じさせない表情でグランツに打ち明けた、あの少年。

 シンよりもさらに年下だったはずだ。その少年と『国を売る』という不穏な言葉が繋がらず、グランツは困惑した。

「で、この嵐に怯えた老人たちが、今さら神の怒りを躱そうと、ディリティリオを俺に売ったと。まあ詳しいことはあとで話すよ。ヴェロスたちはこの森の中?」

「あ――ああ、少し前に、ヴルカーノの兵と共に入っていった」

 シンやフォスの身に何が起きたのか判然としないままだったが、今はそれより目先の問題だと、グランツは気を取り直した。

 暗い森を振り仰ぐ。

「ここは君たちの言う『神域』だろう? この中に、異国人が大挙して押しかけるのは、君たちの神々にとって都合の悪いことなのではないだろうか」

「へえ、よくわかったね、ここが神域だって」

 シンがどことなく感心した面持ちでグランツを見下ろした。

「あの白い猿、神獣の声も聞こえた。彼らが森に入っていったあと、天候がさらに荒れている。君たちの神……が、怒っているのではないか」

「まあね。ここまで怒り狂ってるアクソスの声を聞くのは、俺も初めてだよ。パトゥサの中では声が遠すぎて聞こえなかったけど、今は怒り過ぎててまともに言葉が聞き取れない。不味いなあ、治水の間に合ってない川は、もう氾濫を始めてるかもしれない。海も荒れてるだろうし」

 この雨が続けば、島中であらゆる災害が引き起こされるだろう。話す間にも、雷鳴の轟く間隔が短くなっている。

「ヴェロスたちは、神域を血で穢すつもりだ。人や家畜の血を運んでいるらしい。神域の奥に入り込んで血を撒かれては、どう宥めたってこの嵐はひどくなるばかりだよ」

「では、すぐに追おう。いくら鍛えられた騎馬隊でも、こう足場が悪くては思うように進めていまい」

 グランツは急いで騾馬に駆け寄り、再びその背に跨がった。その隣に、シンとフォスを乗せた馬も並ぶ。

「だが――森の中で彼らを傷つけるのはまずいのだな?」

 グランツはそうシンにたしかめた。神域を血で穢してはならないのなら、グランツが剣を振り回して敵に立ち向かうなどもってのほかだろう。

「うん、外傷のない状態で森から引き摺り出すのが理想的だね。向こうの人数は?」

「全部で十八だ。非戦闘員が三」

「大した数じゃない、が……今の俺じゃ、全員殺しちゃうかもな。まだ本調子じゃないから、眠らせるだけのつもりが、二度と目覚めないところまでやっちゃうかも」

 シンは顎に手を当て、考え込む顔で呟いている。その顔には相変わらず血の気がない。あれだけ血を流していたのだから当然だ。回復したとは言っても、普通の人間なら起き上がることすら不可能な状態だろう。ほぼ気力で持っているようなものだろうと、グランツにも察しがついた。

「ソーバーンを呼べば、俺の力はそれほど使わずにすむけど……」

「ソーバーン?」

「俺の蛇。グランツさんも見たことあるだろ」

「……ああ! あの巨大な……」

 シンと初めて会った時、グランツは巨大な白蛇に襲われた。血のように赤い瞳を持つ大蛇。それがシンの体の中(ヽ)に飼われているものだということはあとから知った。呪文と共に湧き出たのだ。あの白蛇が、シンの中から。

「そういえば、あの蛇を体の内に宿しているのは、そのう、大丈夫なのだろうか。体力を削がれたりなど……」

 人の国の神のことであろうと、口に出すのはさすがに不敬だと思うのでグランツは言わなかったが、浮かんだイメージは寄生虫だ。人間の体に棲み着き、養分を奪って生きる害虫。

「何か誤解があるみたいだけど、ソーバーンは俺の中で生きてるわけじゃないよ。神々から借り受けた剣のようなもの、魔力が具現化しただけのものだから。俺はただの中継点だ。唯一無二のだけど」

「……?」

 シンの説明は、グランツにはさっぱり理解できなかった。シンもわかるように説明する気はないらしい。

「アクソスの力だから、アクソスへの信仰を持つ者には何の害もない。でも相手がヴェロスとその腰巾着とヴルカーノ人じゃ、どっちにしろやっぱり殺しちゃうだろうなあ。アクソスはアクソスで冷静じゃないから、やり過ぎて自分の土地を血で汚してさらに怒り狂うとか、わけわかんないことしそうだし」

「とにかく――彼らを無傷のままに止めればいいんだな?」

 少し思案したのち、グランツはシンに向けてそう確認した。

 微かに驚いた顔のシンがグランツを見返した。

「勿論そうだけど。それが難しいなって話を今俺が一生懸命してたの、わかってる?」

「シン殿には足留めだけ頼みたい。それと、できればその馬を貸してくれないか」

 騾馬はすっかり竦み上がったままだ。

 シンはじっとグランツを見てから、頷いた。グランツは先に騾馬を下り、シンが馬から下りるのを手伝う。その体のあまりの軽さに、グランツは顔には出さずにぎょっとした。たった数刻で体の血の半分がなくなったのではと疑いたくなるような軽さだった。今は支えがなければ自力でまっすぐ立つこともできないのだろう。グランツはきつく唇を噛み締めながら、シンを騾馬の背へと乗せ替えた。

 フォスも騾馬に乗ってシンの背もたれになり、グランツも鞍のない農耕馬の巨体へと身軽に跨がった。

「私が先行する。向こうにこちらの存在を知られても問題はない。とにかく全員の動きを一時に止めてほしい」

「わかった」

 シンが頷くのを確認してから、グランツは馬を走らせた。

 森に入る一瞬、背筋が粟立つ感触がする。だがぞっとするだけで他に支障はない。馬がぬかるみに脚を取られないよう気をつけながら先を進むだけだ。

 森の中はほぼ暗闇に等しかった。時々木漏れ日のように差し込む激しい稲光を頼りに先を行く。途中振り返ると、フォスが手綱を取る騾馬も何とかついてきていた。

 乗り換えたのが農耕馬だったのは幸いかもしれない。いくら戦闘用に訓練されていても、元々繊細な馬は汚れることや濡れることを嫌がる。宥めながら行くのは手間だろう。だがグランツの乗った馬は、雷鳴が轟くたびにブルブルと鼻を鳴らしながらも、泥を跳ね上げながら足を止めず駆けていく。

 おかげで思ったよりも早く、ヴルカーノ兵の最後尾を視界に捕らえることができた。彼らは前に進むことだけに気を取られて、うしろから着実に距離を詰めているグランツと馬には気づいていない。しかしグランツは彼らに向けて、大音声を張り上げた。

「カレル・グランツだ――参る!」

「!?」

 ようやくグランツに気づいたヴルカーノ兵二騎が、ぎょっとしたように振り返る。グランツは剣帯から鞘ごと剣を引き抜いた。一瞬の動揺も見せながらも、ヴルカーノ兵も素早く腰の剣に手をかけた。

 が、相手が馬を反転させようと手綱を引く間に、グランツはその真横を通り抜け様、手を鞘の先で強かに打った。悲鳴を上げて剣が取り落とされる。

 もう一旗はすでに馬首をグランツの方へ向け、槍を構えていた。穂先をグランツの方に向け、馬ごと駆け寄ってくる。グランツもまっすぐ相手に向けて馬を走らせ、鞘から剣を抜くと、眉間目がけて繰り出されるを薙ぎ払う。鉄の穂先が木製の柄からはじけ飛び、相手の口からは、信じがたい、という響きの声が上がった。

 手の自由を失った兵と、武器を失った兵は、それでもグランツ目がけて馬を突進させた。蹄で蹴落とすつもりだ。だがグランツも手綱を操り、嘶きと共に農耕馬の後足で泥水を跳ね上げて一頭の目を潰し、前肢でもう一頭の鞍から兵を蹴り落とした。

 二騎を戦闘不能にする間に、先を行く兵士もグランツの姿に気づいた。半分が反転して道を戻り、半分はそのまま先を行くのが見える。

「――シン殿!」

 振り返らず、グランツは叫んだ。間を置かず、グランツの右横を白い影が猛烈な勢いで擦り抜ける。水煙を上げながら進むのはシンの蛇。雨音と雷鳴を劈くような威嚇音を上げながら、蛇は先行するヴルカーノ兵らの前に回り込み、木々をへし折り行く手を塞いだ。

 取り乱した悲鳴が上がる。馬が怯えて暴れ、背に乗せた人間を振り落とした。

「五騎――」

 騎手を失った馬は蛇から逃れるように逃げ出し始める。ぬかるみに落ちた兵士は茫然とシンの白蛇やその身になぎ倒された木々を見ている。

 襲いくる騎馬兵を、グランツはひどく冷静な心地で見据えていた。一騎ずつ確実に、武器を狙って剣を繰り出す。つい先刻跨がったばかりの農耕馬をもう何年も連れ添った相棒のように操り、右手で自分の幅広剣を、左手で敵から奪った槍を振り回して、別の敵の体を打つ。

 ――そう、そうだ、私はこれほどまでに、強い。

 一個師団でも引けを取らないといつかシンに言った言葉は、決して誇張ではなかった。たとえ相手が騎士であろうと、獣であろうと、伝説の竜(ドラゴン)であろうと、負ける気など微塵も起きない。

 ――なのに、私は……。

 気づけばグランツは、双眸から滂沱と涙を溢れさせていた。

 悲しくて仕方がない。

 一騎、また一騎とヴルカーノ兵の武器と士気を奪いながら、グランツは泣きじゃくった。

 そう大した時間をかけずに、ヴルカーノ兵のすべてをぬかるみに叩き落とし、グランツは自分も農耕馬から下り、一人一人丁寧に敵の足をへし折った。

 混乱に乗じて逃げ出そうとしていたヴェロス王子やその仲間たちも、同じように動きを封じる。ひどい悲鳴がいくつも湧き上がったが、グランツは淡々とその作業を行った。

「貴様……シャリエのロード・グランツか……!」

 全身泥まみれになったヴルカーノ兵が、シンの白蛇を見た時よりも怖ろしいものを見る目でグランツを見上げ、公用語で叫んだ。

「その名は捨てた」

 今は仇であるヴルカーノ兵を前にしても、屈辱や恨みの気持ちが湧いてこない。グランツは力なく答えた。

「西方大陸一の騎士と謳われた男が、こんな未開の地に逃げ出していたとはな」

 ヴルカーノ兵の、おそらく指揮官らしき男が、嘲笑う顔になって声を上げる。

「裏切りに気づくこともなかった無能な王に替わり、今度はくだらない信仰に身を捧げる野蛮人の土地でご活躍とは――」

 指揮官が最後まで言葉を発することはなかった。グランツは剣を持つ手を無造作に振り上げ、ヘルム越しにそのこめかみを殴りつけた。一撃で昏倒し、指揮官の体が泥水の中に倒れ込む。

 指揮官の尻馬に乗ってグランツを言葉で嬲ろうとしていた兵たちが、一斉に黙り込んだ。

「ああ……いい時機だな」

 グランツのうしろにいたシンが、不意にそう呟いた。グランツが振り向くと、シンも自分の背後、森の入口の方を見遣っている。

「城塞からの援軍だ。パトゥサに伝言を残しておいたから、そのままこっちに来たらしい」

 グランツには援軍とやらの足音も気配も感じることができなかったが、シンが言うのだから、おそらく仲間を引き連れた神殿兵たちが近づいているのだろう。パトゥサに辿り着く前にシンが伝令使として城塞に帰した神殿兵が、その役目を果たしに来たらしい。

 そして間もなく、実際に城塞からの応援が数十騎森の中へと現れた。

 シンの指示で、ヴルカーノ兵、そしてヴェロス王子たちは全員神殿兵により身柄を拘束されていく。縄を打たれ、荷物のように騾馬の背に乗せられて、次々森の外へ運ばれていく。

「俺たちも行こう、グランツさん」

 神域を血で穢す事態は避けられたようだが、雨はまだ弱まる気配もない。

 シンに呼び掛けられ、茫然と立ち尽くしていたグランツはやっと自分を取り戻し、頷いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。