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死にたい騎士の不運  作者: eleki
死にたい騎士の鎮魂歌

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17/27

誘惑

 神殿兵たちの怒りの叫びには構わず、意識を失くしたシンをパトゥサまで運んだのはグランツだった。

 シンが倒れた森の中に、アクリオスの神殿兵たちも追いつき、すぐに治癒法(イラーグ)を試みたが、敵に斬りつけられたシンの左腕の血は止まることがなかった。

 業を煮やしたグランツが、力ずくで神殿兵たちからシンの体を奪い取り、布できつく腕を縛りつけて止血を試みた。治癒法の効果はなかったが、グランツの応急処置が功を奏し、ひとまず流れ出る血の勢いは弱まった。

 だが、傷口は塞がらず、グランツはそのままシンの体を抱えて騾馬に乗せ、パトゥサの村まで連れ帰った。

 パトゥサの中、宿として宛がわれたディリティリオの家に運び込んだ頃には、シンの腕はすでに地腫れを起こして肩から肘までどす黒くなり、燃えるような熱を持っていた。

「医者はいないのかッ!」

 明らかに化膿している。こんな傷をグランツはこれまで戦場で何度も見てきた。一刻も早く傷口を洗浄し、抗毒素を与えなければ、腕を切り落とす羽目になる。いや、それですめばいい。手を施さなければ、あるいは――最悪の事態が。

「医者を! 誰か医者を!!」

 寝藁の上にずぶ濡れのシンを仰向けに寝かせながら、グランツは声を限りに叫んだ。

 だが使用人の女たちはシャリエの言葉を理解できず、失神しているウディヤと泣きながら叫ぶ異国人の様子に怯えたふうに、部屋に近づこうとしない。

 ――なぜあの時、シンを一人で行かせたのか。

 グランツは激しく悔いた。ヴルカーノ兵の姿を見た瞬間に我を忘れてしまった。先を行くシンの騾馬を追いかけるべきだったのに。

 シンのことは自分が守ると、そう決めたはずだったのに。

「なぜ傷が治らないのだ……!?」

 泣きながら、グランツはずぶ濡れになったシンの法衣を脱がせた。現れるのは、平らな部分を探すことに苦労しそうな傷だらけの体。致命傷になるであろう位置にいくつも大きい創傷があるのに、シンは生きていた。死なないのだ。そのはずだった。傷はひとりでに治る。治癒法もある。

 なのに今、シンの傷口は治る気配もなく、剣を受けた腕は焼けるように熱いのに、胴や腕はぞっとするほど冷たい。

 シンは血の気を失くした真っ白な顔色で目を閉じ、苦悶の表情を浮かべている。こんなに辛そうなシンの姿をグランツが見るのは初めてだった。

 グランツは必死に部屋の中を見回すが、治療の足しになりそうなものは見つからなかった。一刻も早くシンを村に運ばなくてはと、単騎で騾馬を駆って来たのが仇になっただろうか。神殿兵やフォスならば少しは公用語が通じる。医者を、治癒法の使える聖職者を呼んでくれと、伝えることができたのに。

「グランツさん」

 名前を呼ばれて、グランツはハッと入口を振り返った。この家の主がいる。この村で唯一公用語が話せるらしいディリティリオ。

「どうしたんです、一体」

 外に出かけていたディリティリオは、騒ぎを聞きつけて戻ってきたらしい。そうだ、この少年がいたのだと、グランツは縋る思いで彼を見た。

「シン殿が、重傷を負っている。この村に医者か、聖職者は」

「いませんよ」

 寝床のシンに近づき、見下ろしながら、ディリティリオが言う。そうだ、ともう一度グランツは思い、唇を噛んだ。パトゥサには神職者がいない。だからこそ、次に襲撃を受けるのがこの村だと、シンたちアクリオスの神職者が狙いをつけたのだ。

「医術を持つ者は元よりアクリオスには存在しないし、パトゥサには神がいない。……気の毒に、その傷では治癒法が効かないことでしょう」

 本当に気の毒そうに呟くディリティリオに、グランツは焦燥した。まるで死にゆく者を見守る眼差しだ。

「では一体、どうすれば――!」

 グランツが悲痛な声を上げた時、慌ただしい足音と共にミラが現れた。シンの弟であり、今日は留守役をしていたアクリオス神殿の雑用係。ミラはグランツに向けて何か罵倒の叫びを発し、グランツはその言葉の意味がわかったところで言い返せるわけもなく、ただ項垂れた。ミラはグランツを押し退けるようにシンの枕許に跪き、額ずいて、祈りの言葉らしきものを唱え始めた。治癒法を使おうとしているのだとグランツにもわかった。

 シンの傷口からは血が滲み続け、いくらミラが唱文を続けても回復する兆しがない。

 グランツがなすすべもなく立ち尽くしているうち、今度は複数人の近づく足音がして、ずぶ濡れの神殿兵が現れた。

 神殿兵たちはグランツには見向きもせず、すぐにミラと同様シンのそばに跪き、再び治癒法を試み始めている。

「邪魔になりますよ、グランツさん。出ていましょう」

 茫然とミラと神殿兵たちの姿を眺めていたグランツは、ディリティリオの呼び掛けで我に返った。さほど広くはない部屋の中は、横たわるシンと、額ずく三人の神殿兵とミラだけで、もう一杯だ。

 自分にできることはない。グランツは無念さに震える唇を噛み締めたまま、ディリティリオのあとについて部屋を出た。

「ウディヤのことはアクリオスの方たちにお任せするしかありませんね。あなたには他の部屋を用意させます。それに、湯屋と食事の支度も……」

「いや、必要ない」

 ディリティリオの気遣いに感謝しながらも、グランツはさほど考える間もなく、その申し出を断った。

「私は少し出かけてくる」

 シンのそばにいても自分は役立たずだ。ならばできることをするしかない。

「どちらへ?」

「シン殿に傷を負わせた者のところへ」

 アクリオスやウディヤについてほとんど知識のないグランツにもわかる。今のシンの状態は異常だ。それはあの傷が原因に他ならない。

 だとしたら、シンを傷つけた当事者たちに問題の解決法を聞けばいい。

「そうですか。では道中、お気をつけて」

 ディリティリオは微笑んでグランツを送り出した。グランツは神殿兵たちの唱える歌声のような呪文(タウィーザ)を背中に聞きながら、ディリティリオの家をあとにした。

 外では強い雨が降り続けている。空は暗く、重たい雲が垂れ込め、天に光があることなど忘れてしまいそうなほどだった。

 悪天候のせいだろう、村人の姿は見当たらなかったが、途中で二頭の騾馬を引くシンの護衛、フォスと行き合った。

「フォス殿。それは――シン殿の騾馬か」

 グランツが声をかけると、フォスが無言で頷いた。シンはグランツが運んできたから、シンの乗っていた騾馬は森にそのまま置き去りにしてしまった。フォスはそれを連れ帰ってきたところらしい。

「そういえば、私の騾馬はどこにいったのだろう」

 グランツの呟きを聞き止めて、フォスが村の入口を振り返って指差す。グランツの乗り捨てた騾馬は、柵累そばの木にきちんと手綱を結わえ付けてあった。あれもおそらくフォスがやっておいてくれたのだろう。

「……シン」

 ぽつりと、今度はフォスの呟きを聞き、グランツは彼を見遣った。フォスはディリティリオの家、シンがいる方を見ている。

「シン殿ならば、今また神殿兵たちの治癒法を受けている」

 きっとフォスもシンのことが心配なのだろうと思い、グランツの胸は痛む。無表情なその顔からは読み取れないが、フォスもも自分のように、護衛の立場でありながらシンを守れなかったことを、悔いているのだろうと。

「フォス殿、私はこれから、シン殿を傷つけた輩共を捕らえに行く。君も来ないか」

 フォスには、神殿兵やミラたちと違って、魔法を使う力がないようだった。例の『儀式』に立ち会ってはいても、彼が呪文を唱えるところをグランツは見たことがない。森の中でも、傷ついたシンに治癒法を施す神殿兵の中に、フォスが加わることはなかった。

「私はシン・ウディヤのそばにいなくてはならない」

「そうか……」

 何もできぬままにシンのそばにいるのは苦痛であろうと思ったグランツの申し出を、フォスは断った。できることがなくても主のそばにいたいと思う気持ちも痛いほどわかるので、グランツは喰い下がらず頷いた。人手が欲しかったわけではない。

 フォスはあとは何も言わず、騾馬の手綱を引いて厩に向かった。その後シンのところへ行くのだろう。

 グランツは少しの間フォスの背中を見送ってから、自分の騾馬の方へ走り出した。


     ◇◇◇


 夢が歪んでいる。

 目を凝らそうとしても見えない景色に、ひどい焦燥感を覚えた。

 闇に濁った景色の中、見知った人たちが現れては、ゆらゆらと陽炎のように輪郭を揺らして散っていく。

 死にかけの王(クレオ)。血を分けただけの両親。兄弟。末の弟(ミラ)。神官たち。執政官たち。神殿兵たち。城塞の人々。誰の顔も靄に包まれてよく見えない。なのにただ一人だけあきらかな男がいる。金の髪。こちらを見て泣いている。泣き顔だけよく見える。

『ノルベルト様……』

 自分の王を想って泣いている。

 男の泣き声に混じって、低く歌うような唱文の声が響いている。

 ――治癒法だ。

 執拗に響く歌声は、シンの夢をただ歪ませるだけの役割しか果たしていない。その声を止めてほしい、と思う。その祈りは神々に届かない。暗闇の中で反響し、旋律が乱れ、脳へ不快に染みこむ。

 ――気持ち悪い。

 喉が灼けるように熱かった。脈打つ左腕も。

 やめろ、と叫びかけた時、不意に歌声が止まった。ほっとする。ここは駄目だ。この濁った暗闇の中で、祈りの言葉は歪むだけ。

「……早く……除かないと……」

 自分の呟きを耳で聞き、シンはその音で覚醒した。

 瞼を開くと、夢の続きのような薄闇がある。外からは雨の音。

「お目覚めですか、ウディヤ」

 仰向けに寝かされていたシンは、呼び掛ける声を聞いてその方へと視線を巡らせた。ぼんやりと人が立っているのが見える。小柄な少年。

 火の入れられていない部屋の中では、時間がよくわからない。もう夜なのか、まだ夕方なのか、それとも昼間の時刻なのか。

 薄闇の中にディリティリオの姿を見て、シンはとにかく、自分が彼の舎の中に寝かされているのだと思い至った。瞬時に、自分のおかれている立場を把握する。そう、森の中でヴルカーノ兵に斬りつけられた。治癒法が効かず、それがなくとも人の数倍の速さで治るはずの怪我が治らず、失血のせいで気を失った。ここまで運んでくれたのはグランツだ。騾馬に揺られる衝撃で何度か目を覚まし、瞼を開くことはできなかったが、この寝床に寝かされ、服を脱がされたのもわかった。今は乾いた服を着せられている。着せてくれたのはミラだ。そしてアクリオスの神殿兵たちが治癒法を行った。

 だがその治癒法は、森の中の時と同様、シンには効かず――神殿兵たちは、ミラともう一人の雑役係の少年も、今ディリティリオの足許で昏倒し、縄で体を拘束されている。

 治癒法に効果がなかったのに、シンの腕の血は止まっていた。少なくとも意識を保っていられる程度までは、少しずつ回復しているのが自分でわかる。

 とはいえ痛みはひどいし、体調の方は最悪だ。おそらく高熱を発しているし、喉はからからだし、眩暈もひどい。

 それを確認して、シンは小さく笑った。そうか、と思う。

 ――そうか、それでも、やっぱり死なないのか。

「何がおかしいんです?」

 不思議そうな声がした。ディリティリオだ。闇に慣れ始めた目で見上げると、声音通り怪訝そうにこちらを見下ろしているのがわかる。

「神殿兵たちを眠らせるよう命じたのはおまえか」

 掠れた声でシンは訊ねた。ディリティリオも薄く笑うのがわかる。

「僕の心を読むことがでできないんですね、やはり、今のあなたには」

 ディリティリオの言うとおり、シンは相手と向かい合っているのに、その考えを読むことができなかった。いつもなら造作もなくできること。ウディヤとしての力。それが、パトゥサの中では使えない。まったく集中できなかった。頭が痛む。吐きそうだ。

「辛そうですね。水をお持ちしましょうか?」

 ディリティリオがシンの枕許に膝をつき、汗で濡れた額に触れようとする。

「触るな」

 冷ややかな声で、シンは相手に告げた。

「穢れた手で俺に触れるな」

 命令に、ディリティリオがまた薄く笑う。シンの額に触れる前に、指先を戻した。

「お察しのとおり、村の者に神殿兵を眠らせるよう言いつけたのは僕です。だから助けを呼ぼうとしても無駄ですよ。この村の者たちはみな、僕の味方ですから」

 ――グランツさんは、どこだろう。

 ディリティリオの言葉を聞き流し、シンは村の中に意識を向けてみたが、それもすぐに諦めた。駄目だ。グランツだけではなく、目に見える以外の場所に誰がいるのか、どれだけいるのか、まったくわからない。

 グランツが視界の中にいないということは、村の外にいるのだろうと、シンは察しをつけた。あの騎士は呆れるくらい間が抜けているが、戦いの訓練を受けていない村の人間に襲われて身動きが取れなくなっているということはありえない。

 グランツの他に、もう一人、姿の見えない男がいることをシンは思い出す。

「護衛の二人をお捜しでしたら、グランツさんはヴルカーノ兵を追って村を出ました。今ごろは嬲り殺しにされているかもしれませんね。気の毒ですが、たった一人であの数のヴルカーノ兵に勝てるとは思えない」

「……」

 シンはディリティリオの言葉に答えなかった。彼はグランツの馬鹿げた強さを知らない。

「もう一人は厩に括りつけてありますよ。ウディヤも悪趣味だ、あんな空っぽの人形をそばに置いておくなんて」

 じっと、ディリティリオが自分を見下ろす視線を感じる。シンは疲れていて、瞼を開いているのも億劫になり、仰向けのまま目を閉じる。

「あなたには、僕の望みを叶えるために少し手伝っていただきたいんですよ、シン・ウディヤ」

「――望み?」

 姿の見えないディリティリオが囁く言葉は、歪んで聞こえる。まるでさっきまで見ていた夢の中のように。

「僕はこの世界のすべてを壊します」

「世界……」

 鸚鵡返しに呟くシンの言葉に、ディリティリオが頷く気配がした。

「ええ、アクリオスのすべてを」

 シンは笑いたかったのに、そうすることができなかった。

 笑い飛ばしてしまうのは気の毒に思えたのだ。

 ――世界と、アクリオスを同等に語る少年の声音は、とても澄んでいる。

「アクリオスは神々の力に護られている。神聖王やあなたがその象徴だ。だがいくら強大な力に護られているとはいえ、それは島の中でだけだ。この小さな島がこれまで平穏だった理由は、その存在を他の国々に嗅ぎつけられることがなかった、ただその一点だけだということは、あなたにもわかっているでしょう?」

「……」

 その事実を、勿論シンは知っている。長い間この土地が外敵に攻め入られることがなかったのは、地形のおかげだ。大陸からの距離の遠さ、そして潮の流れの問題で、異国の船は島に辿り着けず、アクリオスという辺境の国の名すら誰も知らなかった。

 だが船の性能と航海術が発達したおかげで、今では複数の商船が島に到達できるようになっている。

 そして今では、武器を持ったヴルカーノの騎馬兵たちが、島の中ををうろついている。

「外の広い世界、いくつもの大陸や他の島々に攻められれば、神の力などそれに対抗する武器にも防壁にもならない。現にあなたの体は今、ウディヤとしての力がまともに機能していない。大陸の持つ資源と技術の前に、そうしてなすすべもなく横たわることしかできない」

「……黒金……そうか、鉄か」

 この不快感の原因に思い至り、シンは細く息を吐いた。

 傷口が治らないのは、鉄製の剣に斬りつけられたせいだということはわかっていた。アクソスと鉄の相性は最悪だ。

 何者かに襲撃を受けた村、ケレイスやクリノスで燃え残った鉄の鏃を見つけた時、シンはこの一件に異国人が絡んでいることを確信した。アクリオスでは砂鉄が穫れないし、製鉄の技術もない。そもそもアクリオス人のほとんどは鉄に触れられない。アクソスの力を強く引く者ほど、体が拒絶反応を示す――今のシンのように。

「この村にいて神々の声が遠いのはそのせいか。不愉快なものが四方に埋まっている……」

「ヴルカーノ兵たちが、せっせと埋め込んでくれましたよ。とても怪訝な顔をしながらね」

 パトゥサの村にはおかしな結界があった。一歩足を踏み入れた瞬間に襲ってきた違和感は、異国人が持ち込んだ鉄のせいだったのだ。村の四隅に埋められ、魔術と絡められて、異様な結界を生み出している。

 さっきは夢うつつに、早くその異物を村から除かなくてはと、繰り返し思っていた。

「……おまえが、あの呪いを仕掛けた魔術師か……」

 祈りなき魔法。仕組みだけで動かされた空虚な術。襲撃を受けた村や、森の中のヴルカーノ兵に感じた魔法の残り香は、今のディリティリオから感じる不愉快な気配とそっくりだ。

「ええ。村を襲うために、いくつか呪具を作りました。賭けだったんですけどね。アクリオスで生まれた唯人や、異国人にも、自分の作った呪具を扱うことができるのか。賭けの結果はご存じのとおりです」

 それでもシンには、納得できないことがあった。

「なぜ、黒金を用いて、アクソスの魔術が作用するのか……」

 ディリティリオの呪具を使って発動した魔法は、アクリオスの神々の力を借りたものだ。ケレイスやクリノスを囲っていた結界。死せる人々の魂を穢れた土地に縫い止め、神の御許に還ることを阻んだ呪い。

 ディリティリオは相当な魔力を持っている。なのに鉄に触れ、それを利用して呪具を作ることなど、普通に考えればありえない。神聖王の次に魔力を持つシンにすら不可能だ。

 訝るシンに、笑ったディリティリオの声が正解を知らせる。

「あなたの護衛殿からお聞き及びになりませんでしたか? 僕はアクリオス人とヴルカーノ人の混血なんですよ」

「――」

「かの国とアクリオスが、まだ正式な国交を持つ前です。たまたま辿り着いたヴルカーノの商人が、たまたま港に寄った神殿の女を犯した。よりによって異国人により純潔を失った女は神殿に帰ることもできず、見知らぬ集落に辿り着いて僕を産んだ。そして僕のこの姿に怯え、忌み嫌った人々に追われ続け、僕が五つの時に体と心を病んで死にました」

 ディリティリオの肌も髪も褐色、瞳の色は紫。アクリオス人同士の間には産まれるはずのない色を持っている。

「この先、この国で僕のような者は増えるでしょう。神聖王は土地の者に異国人との姦淫を禁じているが、国交を許した時点で防ぎきれるものではなくなった。幸い、この村を訪れるヴルカーノの兵たちは非常に紳士的で――というよりアクリオス人なんていう蛮族と交わることに抵抗があるらしくて、女たちに見向きもしませんけど」

「……この村を作ったのもおまえか」

「ええ。母亡きあと、一人で物乞いのように食事や宿を求めてあちこちの集落を巡るうち、神々の力を疑う者たちの存在に気づきました。彼らの理解を得て、ここに僕が一番居心地のいい場所を作った。アクソスの偶像を掲げた神殿など存在しない村を」

 アクリオスにあるどんな村でも、長くは居着くことのない遊牧の氏族が作る集落でも、アクソスを祀る場は必ず設けられる。たとえ魔術を操る巫覡が存在しなくても、祈りだけは欠かされることはない。それがすべての災いを避ける力になるはずだから。

「……なるほど、ヴェロスを焚き付けたのも、おまえか……」

『神々の力を疑う者』の中に、神聖王クレオの息子、ヴェロスも入っているのだろう。ヴェロスは数年前から、王位を継ぐのはウディヤではなく、王の息子たる自分であるべきだと繰り返し主張していた。信仰と政治を混同する国など大陸ではあり得ないと。

「ヴェロス王子は元々ヴルカーノの商人から大陸のすばらしい文化について講釈を受け続けていたので、話が早かったですよ。僕も彼のおかげで、ヴルカーノからたびたびアクリオスに訪れるのが王家御用達の武器商人だと知ることができました。でなければ、鉄を使う魔術なんて、思いつくことができなかったでしょうね」

 シンが薄く目を開けると、ディリティリオが微笑んだままこちらを見ているのがわかる。

「あの馬鹿は……本当に、心底、馬鹿だなあ……」

 昔から愚かな男だとは思っていたが、異国の商人のみならず、こんな子供の口車にまで乗っていたかと思うと、シンは呆れる。

 愚かすぎて歯牙にかける必要もないと無視してきたのが災いするだなんていう、この状況にも。

「王子は慣習に縛られたアクリオスの老人共よりは聡明ですよ」

 言葉の上では褒めているが、『王子』という響きにディリティリオが籠めているのは、嘲笑でしかない。ヴェロスもディリティリオの手駒だということだろう。この村に集まった人々や、ヴルカーノの商人や、兵士と同様に。

「この国にいずれ訪れる危機を理解している。その危機を自分の手で回避できると思い込んでいる辺りが、まあ滑稽と言えばそのとおりですが」

「まるで自分はヴェロスより賢いと言いたげな口調だ……」

「僕は現実を知っているだけですよ」

 シンの皮肉にも、ディリティリオの微笑みは揺らがない。

「ヴェロス王子の存在は、旗印として必要です。混血の僕ではただの逆賊だ、従う者もそういない。この村の人々がやっと重たい腰を上げてくれたのも、ヴェロス王子の協力あってこそですし。それでも港からここまで兵と馬と鉄を運んで匿っておくのは、結構苦労しましたよ。揃えるまで、年単位の仕事でした」

 ――ヴルカーノは何年もかけて、内側から国を侵していくのだ。

 そう泣きながら話したグランツの言葉を、シンは思い出す。グランツの故国もヴルカーノの奸計によって滅んだ。

「……おまえがヴェロスを利用するように、おまえ自身もヴルカーノに利用されていることくらい、気づいているだろうに」

 ディリティリオに会うまでは、集落を襲うために協力した魔術師は、きっとヴルカーノから法外な報酬をちらつかされているのだと思っていた。財産や地位に目が眩んだ馬鹿な人間だろうと。

 だがディリティリオはそんな単純な褒美に目が眩んでいるわけではない。

「どのみちこの国は壊れゆく運命です。それが少し早くなるか遅くなるかの違いだ。ただ僕は、僕の手でアクリオスを壊したい。そのために利用できるものは何でも利用しますよ」

「この俺も」

「ええ、あなたもです、シン・ウディヤ」

 初めて、ディリティリオの表情から微笑が消える。横たわるシンに顔を寄せ、ディリティリオは囁くようにシンに告げた。

「あなただって、この世界を憎んでいるのではないですか」

「……」

 土砂降りの雨の音がうるさい。だが耳許で囁くディリティリオの声は、嫌でもシンに届く。

「繰り返される儀式の苦痛も、その名のとおり犠牲(ウディヤ)を払っているのに自分を疎む人々も。……僕はあなたのことをよく知っている。人々の口から語られるあなたは、まるで穢れそのものだ。神の力を持つのに忌まれている。それでもなお儀式に向かわざるを得ないあなたの心の闇を、僕だけはわかっている。だって僕もあなたと同じだから」

「同じ……?」

「僕はこの国を救いたい。神々に依存した仕組みを壊して、これから増えることになる僕のような人間も、神の力を受け継がずその恩恵から弾かれた者も、楽に暮らせる世界に造り替えたい。ひいてはそれがアクリオスのためになるのに、僕の考えに賛同した人間ですら、僕をおぞましいものを見る目で遠巻きにする」

 たしかにシンは、思った。この村の人々がディリティリオに対する態度を見た時、まるで彼が自分のようだと。

「あなたならきっと僕の思いをわかってくれると思った。真に理解してくれるのは、この世でたった一人、あなただけだと。だから僕はあなたを呼んだ。あなたは僕の誘いに乗って、僕の許まで来てくれた」

 ディリティリオの指先が、そっとシンの頬に触れる。熱を持つシンの肌に、ディリティリオの指はあまりに冷たく感じられた。

「なぜ自分だけと思ったことはありませんか。逃げたしたいと思ったことも、すべて壊れてしまえばいいと思ったこともあるでしょう」

 ディリティリオの囁きは、シンの心を言い当てていく。

 怪我のせいだけではなく頭がぐらぐらした。それくらいディリティリオの誘いは魅力的だった。こんな国は壊れてしまえばいいと何度も思ってきた。儀式のたびに、なぜ自分がこんな目にと考えなかったことはない。

 もし本当にディリティリオの言うとおりの未来が訪れるのなら、シンは自分では一度も望んだことのないウディヤという名も立場も力も、喜んで捨てるだろう。

「……そう、この国が壊れることを誰より願っているのは、多分おまえやヴェロスより、ヴルカーノの者より、俺だよ」

 ディリティリオが喜びを滲ませた息を吐く。

 シンはその相手を、間近でじっとみつめた。

「たしかにおまえはヴェロスよりは賢いね、ディリティリオ」

 シンを見返すディリティリオが、微かに眉根を寄せる。

「たしかに、おまえは俺のことを知っているのかもしれない。でも、神々の真の力を知らない……知らな過ぎる。誓約のことも」

「――誓約?」

「壊せるものならとっくに壊しているんだよ、この俺が。俺以前のウディヤたちが」

「叶わなかったのはウディヤがそういう存在だからだ。あなたたちに神々がかけた呪いを僕は知っている。決して人々を見捨てられられないようにできていると」

 ディリティリオに向けて、今度はシンが微笑みかけた。

「本当に、賢い子だなあ」

 悠然とし続けていたディリティリオの態度が、憐れむようなシンの眼差しに、初めて揺らいだ。

「だから僕が、ただ壊すだけではなく造り替えると言っている! 他国が統治しようと、民が守られることには変わりがないんだ。しかもアクソスの純血だけが優遇されるわけではなく、この土地で生きる者がみな等しく天や土の恵みを受けられる――神々の力など借りずに!」

 ディリティリオが、シンの襟元を握り締めながら声を荒げる。

 シンは優しい眼差しで相手を見返した。

「俺はアクソスよりは慈悲深いからもう一度だけ言ってあげようか。呪いで穢れた手で俺に触るな。神の贄を穢せば、その数倍の呪いがおまえの身に還るよ」

「……っ、狂信者め……!」

 ディリティリオが乱暴な仕種でシンの服から手を離し、立ち上がった。

「神だけを盲信するあなたたち聖職者は、外の世界を知らなすぎる。あなたたちだけじゃない、城塞の外で生きてさえ城塞の庇護を受け続ける集落の人間もそうだ、不当な税を納めさせられていることに疑問も抱かず、馬鹿のひとつ覚えみたいにアクソスアクソスと神の名ばかりを口にしている!」

 雨音はさらに激しくなっている。吹きつける風が、ガタガタと舎の壁を揺らし、今にも崩れるのではと思えるほどだった。その騒音を上回る声を、ディリティリオは震える拳を握り締めながらシンに向けた。

「あいつらは愚かだ。僕に協力すれば新しい世界でどれだけ恵まれた暮らしをできるか教えてやったのに、神を裏切ることはできないと突っぱねた」

「だから殺したのか」

「ええ、だから殺すよう命じてやりました。計画が漏れては元も子もありませんし、あなたを誘い出す餌にもできる。彼らが協力してくれたのなら、ヴルカーノを手引きするお膳立てが整ったところであなたに接触するつもりだった。どう転んでも、アクリオスがこのままではいられない現実をあなたに見せつけてやることができる」

 ディリティリオの声を聞きながら、シンは腕の熱さにうんざりしていた。いつもなら、たとえ腕を切り落とされそうと、放っておけば回復する。兇器が鉄の剣であってもだ。こんなに治り辛いのは、ヴルカーノ兵の剣にもディリティリオの呪術が干渉していたせいだろう。騎士の剣では神を殺せない。神の力を引く王もウディヤも殺せない。強い魔力を持つ神の贄を殺せる魔術も存在しない。だが鉄と魔術が融合した呪いなら、こうやって動きを封じることはできてしまう。結界の施された村の中ではなおのこと。

 ――グランツさんも、余計なことをしてくれるなあ。

 森から騾馬で運ばれながら、「パトゥサには戻らないでくれ」と伝えようとしたのに、声も出なかった。この村に連れ戻されるくらいなら、土砂降りの雨の中に放置されていた方が、まだしも治りが早かっただろうに。

「……いくら純度の高い鋼だろうと、そこに呪術を上乗せしたとしても、俺の命を奪うことまではできないよ」

 残念ながら、とつけ加えたいのを、シンはどうにか堪えた。心からの台詞だが、ディリティリオには皮肉に聞こえてしまうだろう。

「数刻で、というのは不可能でも、一晩休めば起き上がれるくらいにはなる。それともおまえが一晩中、俺の体を鉄の剣で切り刻み続けるか?」

「あなたとはわかり合えると思っていました。僕自身があなたを傷つけたいわけじゃない。それに、神々と違って、僕はそうそう悪趣味でもありませんし」

 ようやく余裕を取り戻したのか、ディリティリオがシンを見下ろし、再び薄い笑みを浮かべる。

「たしかに望みを叶える前に、神々のご機嫌を損ねるのも得策ではありませんしね。だからアクリオスの神を怖れぬヴェロスとヴルカーノ兵たちに、神域を穢すよう頼んでおきました」

「……」

 さすがにシンも、うんざりを通り越した気分になってきた。

 考え得る中で最悪の計画だ。

「鉄と呪いを持った異国人たちが神域を踏み荒らせば、どれくらいの怒りを神から買うでしょうね? そして僕やヴェロス王子が荷担している限り、その怒りはこの土地に住む者たちに向けられる。……あなたは選ぶことができるんですよ、その身で犠牲を払い続けるか、自分一人に寄りかかり続けた国や民を見捨てて新しい世界で生きるのか」

 木と土でできたディリティリオの舎は、雨風に嬲られて、さらに激しく揺れている。

 この嵐は神々の怒りだ。

 治めるために、一体何度自分の身を剣で斬りつけなければならないのか。どれだけ血を流さなくてはいけないのか。

「何十人もの命を奪った罪を、たった一人の身で贖うことのできるこの国の仕組みが異常なんですよ。だから壊してしまいましょう。あなたもそれを望んでいるはずだ」

 暴れ狂う嵐に揺れる舎の中、複数の人間が部屋に近づく気配がする。

 部屋の床で転がる神殿兵の口からは、小さな呻き声が漏れ始めていた。そろそろ昏倒から醒めるのだろう。

「では、僕はケレイスとクリノスとこのパトゥサを結ぶ結界の完成を急ぎます。この呪いを解くためにもあなたの多大な犠牲が必要になることでしょう。あなたや神殿のみなさんのことは、ここの村長たちに監視するよう命じてあります。僕が戻ってくる前に答えを決めてください。嵐を鎮めるために何晩も続く儀式の苦痛に耐えるか。それとも、すべてを捨てて新しい世界に旅立つか。あなたと神が音を上げてこの国を見捨てるまで、僕は何度でもこの土地を穢し続けますよ。」

「……」

 いっそ狂うことができればいいのにと、繰り返し願ったこともある。儀式に対する恐怖を感じなくてすむのなら、正気を失ったって構わなかった。でも神々はそんな救いすら与えてくれなかった。まるで、ウディヤの抱える怖れや怯えすらも贖いに必要なのだというように。

「誘惑しないでくれよ……」

 呟いて、シンは笑った。自分がいつの間にかすっかり弱くなっているのを感じておかしくなる。

 別に、ディリティリオの甘言に揺らいでいるせいではない。

 他の人々のように神に救いを求めることなど一度もしてこなかった自分が、さっきから心の中で一人の男の姿を探し続けていることに気づいてしまったせいで。

 ――ここにグランツさんがいたら、理屈なんて関係なしに、馬鹿を言うなと泣きながらディリティリオをぶっ飛ばしてくれるだろうに。

 それを想像して笑ってしまう。

 笑うシンの様子にどんな判断を下したのか、ディリティリオも満足気な微笑みを浮かべた時、部屋に男たちが入り込んできた。長らしき老人や、それに従う男たち。

 暗い部屋の中で、彼らの顔色は、その表情がわからないほど黒ずんで見える。外から光が差さないせいではない。彼らが自分に対して怯えきっているせいでその顔が見えないのだと、シンは知っている。慣れきった反応だ。

「……どうか、悪く思わんでください」

 外で大きな音がした。舎か小屋か、どれかの壁でも倒れたのだろう。

 ディリティリオが、男たちと入れ替わりに部屋を出ようと動く。

 シンは疲れた気分でまた瞼を閉じた。

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