騎士の懸念、神子の怪訝
パトゥサの集落に一歩足を踏み入れた瞬間、シンは猛烈な違和感を覚えた。
「シン殿?」
無意識に立ち止まり、周囲へと首を巡らせたシンに、隣でリハを抱えているグランツがすぐに声をかけた。
グランツはケレイスでの『儀式』を見て以来、シンが少しでも気分が悪そうにしたり、考え込むような様子を見せると、こうしてすぐ心配げに声をかけたり、視線を向けたりするようになっている。
シンにはそれが少々鬱陶しかったり――嬉しかったり、だ。
「雨が降ってきたね」
感じたのは、異様な倦怠感と、目の奥を強烈に刺激するような頭痛。
それを説明する代わり、シンは暗い空を見上げながら呟いた。グランツも同じく天を見上げ、リハを片腕で支えたまま、反対の手の掌を宙に翳している。
ぽたりと、大粒の雨が、その分厚く大きな騎士の掌に落ちた。
「ああ……降りそうだとは思っていたが、これは、長い雨になりそうだな」
遠いところで響き続けていた雷鳴が、もう間近へと迫っている。星も月も分厚い雲に覆われて見えない代わり、ちかちかと稲光が頻繁に空で点滅するようになった。
グランツが空から、集落の中へと視線を移した。
「天候が崩れる前に辿り着いてよかった……というより、襲撃を受ける前で、よかったな」
「うん」
パトゥサは平和な様子だった。燃え跡も瘴気もない。
なのにシンはその中にいて、痛みと、眩暈のようなものを感じ続けている。
あまり広くはない集落の入口で立ち止まるシンたちのところへ、老人と壮年の男たちが数名、小走りに近づいて来るのが見える。
彼らはシンたちからは少し離れた場所で、全員揃って地に膝をつき、平伏した。
「シン・ウディヤ、ようこそパトゥサへお運びくださいました」
続く頭痛に目を細めながら、シンは彼らを見下ろす。おそらくパトゥサの長老たちだろう。魔力は感じない。唯人の集まりだ。パトゥサに神職者がいないことはすでにわかっていたものの、シンはそれでも酷く不審な心地になった。
この集落は、おかしい。
「宿を借りる。それからできれば女たちに、この子供の世話を」
シンの言葉を受けて、男たちが立ち上がり、シンと目を合わせないように、そしてグランツを胡散臭そうに見ながらも、眠っているリハの体を丁重に引き受けた。
すでにパトゥサに到着していた先遣の神殿兵たちも現れ、シンの騾馬を厩へと引いていった。ミラたち雑役係はパトゥサの大人たちの指示で、シンの寝床を作るために慌ただしく働き始めている。フォスは無言で自分とグランツの騾馬を、やはり厩へ繋ぎにいった。
「シン殿、本当に、大丈夫か? 顔色がまるで土のようだぞ?」
グランツはしつこく、シンの隣で心配した表情になっている。
シンは痛む頭、こめかみあたりを強く指で押さえながら、グランツの呼びかけには応えずまた周囲へと首を巡らせた。
簡単な治癒法を使っているのに、頭痛も、倦怠感も、まるで改善しない。
「神の存在が遠い……」
「え?」
シンの漏らした呟きがアクリオスの言葉だったので、グランツには聞き取れなかったらしい。もとより、人に聞かせようとして呟いた台詞ではなかった。
パトゥサに入った瞬間から感じている違和感はそれだ。
いつでも、迷惑なくらい常に近くにある、アクソスやその血族の神々の存在が、どこかあやふやになっている。
ウディヤとして生を受けてから一度も体験したことのない感覚の不調和。昏迷。
「シン殿!」
平衡感覚を失い、自分が目を開いているのか瞑っているのかもわからなくなったシンの背中を、グランツが支えた。
「やはり気分が悪いのだな、どれ、私が抱えていこう」
遠のくシンの意識を無理矢理引き戻したのは、グランツのその台詞だった。リハと同じように抱き上げるつもりだと気づき、冗談ではないと、傾きかけた体をグランツの腕を掴みながら立て直す。
「いや歩けるから。自分で」
ウディヤが異国人に横抱きにされる姿など、人目に晒すわけにいかない。それ以前に、男に抱きかかえられる自分の姿を想像するだけで、シンは余計に頭が痛くなってくる。
「しかし」
喰い下がるグランツを無視して、とにかく宿の方へ歩こうと足を踏み出しかけたシンは、だが再びその場で動きを止めた。
なかなか後をついてこないシンとグランツを胡乱げに振り返るパトゥサの大人たちの向こうに、一人の少年がいる。
シンの目には、自分と同じくらいの年頃に見えた。
その少年に目を留めたのは、彼の姿が異様だったからだ。
明るい焦げ茶の髪、薄い紫色の瞳、肌は黒みを帯びた茶色をしている。
「アクリオス人……か?」
シンの隣で、グランツも驚いたような呟きを漏らしていた。
アクリオスで生まれるのは、ほとんどが黒髪、黒い瞳、やや赤味を含む黄淡色の肌を持つ者ばかりだ。時折、シンのように髪や瞳が青みがかった者も生まれるが、あくまで土台は黒色。シンの肌が抜けるように白いのは、外に出る時はいつも頭から爪先まですっぽり隠す格好をして、大体が自分の舎に引き籠もっているせいだ。
労働階級の男たちは、裸に近い格好で働くから、夏場は特に褐色の肌になる。
だが少年の肌の色は、それとはもっと違う風合いだ。
なのに顔立ちはアクリオスの者と変わらないから、シンにとっては不自然な眺めになる。
「ようこそ、パトゥサへ」
歩んでくる少年に気づくと、パトゥサの大人たちがサッと道を左右に空けた。
少年は、その態度がまったく当然であるかのように、大人たちには目もくれず、ただシンだけをまっすぐに見つめて歩み寄ってくる。
シンは随分と久しぶりに、自分から目を逸らさず声をかけてくるアクリオス人と遭遇した。
「歓迎いたします、シン・ウディヤ。この集落には宿がありませんが、私は一人住まいですから、部屋をお貸しするよう長老に申しつかりました。どうぞ私の舎までお運びください」
それでも少年はシンの前で膝をつき、恭しく頭を下げた。
シンはその茶色の長い髪を見下ろす。
「……」
ごく自然と、相手の心を覗こうとしたが――上手く読み取れない。
頭痛が酷く、集中できなかった。
「感謝するよ、ディリティリオ」
わかったのは、たったひとつ、少年の名前だけだった。
少年、ディリティリオは顔を上げ、無断で自分の心を読んだウディヤに恐怖も不快感も示さず、にっこりと、ただ愛想のいい微笑みだけを浮かべて見せた。
「ご案内いたします。すでにあなたの随従の方たちが床をのべていますので、どうぞお休みください。……酷い顔色をなさっておられますよ」
ぽつりぽつりと落ちるだけだった雨が、すでに間断なく空から落ち始めている。
立ち上がり、踵を返したディリティリオの後について、シンはグランツに背を支えられるようにしながら歩き出した。
酷く気分が悪い。
ディリティリオが間を横切った時、パトゥサの男たちがまた道を空けた。
まるでディリティリオから、一歩後退さるように。
――まるで、人々がウディヤを怖れ、忌み、遠巻きにするように。
「あれじゃまるで、俺じゃないか……」
目の奥を指すような痛みと、気怠さに気を取られ、自分の呟きがきちんと音になったのか、シンにはわからなかった。
◇◇◇
儀式のせいでもともと弱っていたシンの体は、パトゥサに辿り着くまでの間に、ますます消耗してしまったようだ。
激しく屋根や壁を叩く雨音が彼の眠りを妨げやしないかと気を揉みながら、グランツは床に敷かれた布の上で目を閉じるシンの顔をじっと覗き込んだ。
アクリオスの寝所の粗末さが、グランツには不安だった。この前の集落に泊めてもらった時もそうだったが、この国では何と、足のついた寝台ではなく、床に直接横たわるのだ。藁を敷き詰めた上に布を引くという、それだけの寝床など、疲れ切ったシンの体がきちんと休められるのか、心配で仕方がない。
昨日の夜にパトゥサに着き、ディリティリオという少年の暮らす小屋――故国では領地の城で生活していたグランツにとっては、小屋としか呼びようのない規模の建物――の一室を寝所として与えられたシンは、ほとんど気を失うようにして眠り込んでしまった。
神殿兵やミラからは、おそらくまた不敬だの邪魔だのと散々罵倒を浴びせられたが、グランツは譲らず、シンと同じ部屋で不寝番を務めた。
フォスもいるのだが、彼は部屋の隅でいつものように置物のように、ただ端然と座している。グランツはフォスが眠るところを見たことがなかった。きっと隙を見て細切れに休息を取っているのだろう。
「君も横になって眠っていいのだぞ、フォス殿」
一応声をかけてはみたが、フォスは無言で首を横に振るばかりだった。シンが心配というふうでもないが、ただ躾のいい猟犬のように、大人しく座っている。
あとはフォスから話しかけてくる様子もなかったので、シンの寝顔を見ながら、グランツは自分の思いに耽った。
次に狙われるのは、このパトゥサだろうとシンが言っていた。
もし一連の惨状を引き起こしているのが、神聖王クレオの息子であるというヴェロスと――そして、ヴルカーノ人の仕業だというのであれば。
「……私は……どうすればいいのだろう……、どうすべきなのでしょうか……ノルベルト様……」
数日ぶりに、その名を音にして呼んだ。
名前を呼ぶだけで、グランツの両目からはほろほろと涙が零れ落ちた。
「……」
狭い部屋の四隅に立てられた蝋燭の明かりに照らされたシンの寝顔は、随分と衰弱しているように見える。
すでに夜は明け、朝と呼べる刻限になっているはずだ。だが天井近くに据えられた明かり取りの小窓から射し込む朝陽はなく、ただ、強い風と雨が小屋を壊しかねない勢いで小屋へと降り注ぎ続けている。
少し経つと、パトゥサの女が三人分の食事を運んできた。グランツは昨日の子供、リハの具合も気になったが、公用語で話しかけてみると、女は怯えたように逃げ出してしまった。異国人であることに怯えられたのか、両目を泣き腫らしていることに怯えられたのかはわからない。
女たちから与えられたのは、穀物の粥と獣の肉と野菜のスープだ。シンが食べれば少しは力のつきそうな献立だったが、グランツがゆっくりと食事を終えるまでの間にも、彼の目が覚めることはなかった。
おそらく儀式のあと、ろくに休みをとらなかったことが祟っているのだろう。結局寝込んでしまうのであれば、無理矢理にでももう一晩くらい寝かせておけばよかったと、グランツは悔やんだ。
シンは昏々と眠り続けているが、病を得たというふうでもなく静かな様子だ。フォスもいるしと、グランツは空になった二人分の食器を持って寝所を出た。厨房を探して端女らしき者に声をかけたら、悲鳴を上げられてしまったが、何とか食器を返すことはできた。
一晩、座ったままシンのそばで過ごしたせいで、少々体が軋んでいる。外を見ると、雨脚が弱まってきたところだったので、グランツは散歩がてらに小屋を後にした。
パトゥサは、この旅で最初に訪れたスフェラと似た作りの集落だった。スフェラよりもう少し小規模だ。主に木造の建物と、いくつかは石と、土を塗り込めたようなしっかりした建物が混在している。
悪天候のせいか、それともウディヤと異国人が連れ立って訪れたことに怯えているのか、集落の中に人影はほとんどなかった。農地や家畜の世話をする男たちの姿が数人見えるだけ。誰も彼も、物珍しげな顔であたりを見回しながらうろうろと歩き回っているグランツの姿に気づいているだろうに、その存在をないことにしたいのか、目を向けようともしなかった。
スフェラと違うのは、アクソス神を象っているらしい偶像を掲げた神殿が見当たらないことだった。
シンの言うとおり、この集落には神職者がいないのだろう。
「濡れますよ」
柵累に手をかけ、その向こうで雨の中元気に草を食んでいる騾馬の姿を眺めていたグランツは、後ろから声をかけられて驚いた。
呼びかけてきたのは、シンよりは少し拙いながらも、確実に聞き取れる公用語だったのだ。
「君は……」
振り返れば、ディリティリオがグランツに向けてゆっくり歩み寄ってくるところだった。シンたちに宿を貸してくれた少年。今日になって彼と顔を合わせるのは、これで初めてだ。
シンより頭ひとつ分ほど小柄な少年は、小さな微笑みを浮かべながら、グランツの隣へと並んだ。
「ディリティリオ殿、という名であったか。私はグランツという。余所者の私にまで、宿と、食事を、感謝する」
まさか公用語を使えるとは思っていなかったので、グランツがディリティリオと直接言葉を交わすことも、今が初めてになる。
ゆっくりと丁寧に発音したグランツに、ディリティリオが明るい笑い声を上げた。
「殿だなんて。呼び捨てで構いませんよ、僕はあなたより、随分子供でしょうから」
やはりところどころ発音は拙いが、それでもこのアクリオスにおいて会話に不自由しないほどの公用語を使う者と、シン以外に出会うのは初めてだ。
「必要なものがあれば何でもおっしゃってください。ウディヤも、従者の方たちも、心を籠めて世話をするようにと申しつかっていますから」
彼が集落でどういう立場なのかグランツには見当もつかなかった。年の割に落ち着いているし、何しろ公用語が話せるのだから、学もあるに違いない。
「失礼でなければいいが、君は、もしかするとアクリオスの生まれではないのだろうか?」
公用語に関しては、思い当たることがあったので、グランツはそう訊ねてみた。茶色の髪に浅紫の瞳に、褐色の肌。もしかすると、彼も自分のように、異国の地から流れ着いた者なのではないだろうかと、そう思ったのだ。
ディリティリオは笑って首を振った。
「いいえ、生まれも育ちもこの国です。ただ、ご覧のとおり、異国の血が混じってはいます。母が余所から来た商人に犯されて産まれた子供ですから」
聞き間違えようなくはっきりとした発音で言ったディリティリオに、グランツはぎょっとなった。
「そ……そうか、すまない、辛いことを言わせた……」
「お気になさらず。この容貌では出自を隠しようがありません。先に聞いてもらえた方が気楽です」
屈託なく笑う少年に、グランツは何だか胸が痛んだ。
昨日、周囲の大人たちが、彼のことをどことなく遠巻きにしている様子に気づいてはいた。
ディリティリオを避けるように視線を向けずにいる集落の男たちを見て、『まるでシン殿に対する扱いとそっくりではないか』と思っていた。
ディリティリオは実際グランツの不用意な質問を気にしていない様子ではあったが、どことなし気まずくて、グランツは続いてかける言葉を見失ってしまう。
自分より、たしかに随分歳の離れた子供相手に、グランツは表現し難い居心地の悪さを感じていた。
「また雨が酷くなる前に、部屋に戻ってください。風邪を引いてしまいますよ」
そう言って、ディリティリオが柵累のそばから離れた時は、わずかにほっとしてしまったほどだ。
ディリティリオは彼自身の家がある方とは、逆の方へ歩いていった。グランツは空を見上げ、また雨脚が強くなりそうなことを確かめると、急いで元来た道を引き返した。
ディリティリオの家、客間に戻ると、シンが目を覚まして、半身を寝床の上に起こしていた。
「シン殿。起きて大丈夫なのか?」
枕許に置きっぱなしの朝食には、まったく手がついていない。水差しの水が少しだけ減っていたので、グランツはそれでも多少安堵した。
「大丈夫。俺が殺しても死なないのは、グランツさんも知ってるだろ」
軽口を叩く余裕もあるらしいが、その発言はグランツが気軽に相槌を打てるものでもなかった。ある意味、いつもどおりのシンの態度だが。
「疲れが溜まっているのだろう。せめて雨が止むまで、休んでいるといい。集落を襲撃する不逞の輩は火矢を使っているのだから、雨が降っている間はここを襲ってきたりはしないだろう?」
「……そうだね」
応えてから、シンが深々と息を吐き出した。どうしようもない体の怠さを持て余しているという、そんな風情だった。
グランツはシンの隣に腰を下ろすと、ぐっと両手を拳の形に握り締め、相手の方へ少し身を乗り出した。
「もし、今回のことに関わっているのが、本当にヴルカーノであれば……気をつけなければならない」
重たい胸裡を吐き出すように、グランツはそうシンへと告げる。
シンがグランツの方へと首を巡らせた。フォスも無表情にグランツのことを見ている。
グランツは自分の足許へと視線を落とし、胸に走る痛みを堪えながら言葉を続けた。
「私の故国が滅びたのは、君も知ってのとおり、ヴルカーノのせいだ。あの国は、ただ武力が強いとか、コルノの統括力が優れているとか、それだけが理由で軍事大国の名をほしいままにしているわけではない。あの国が……コルノがもっとも優れているのは、権謀術数なのだ」
「権謀術数――」
口の中で繰り返したシンに、グランツは深く頷いて見せる。
「謀略と、そして人心掌握に関するコルノの手腕は、他に類を見ぬ。甘言で味方の心も敵の心もくすぐる。シャリエはそれに負けた。ヴルカーノは何年もかけて、内側から国を侵していくのだ。我々は諸公の寝返りにまるで気づけなかった。気づいた時には国境を守るべき将が、それを率いる軍が、すべてヴルカーノの手の内に落ちていた」
言葉を重ねるたび、グランツの胸の痛みが酷くなった。
屈辱と無念で神経が焼き切れそうになる。
「戦場での力比べであれば、私はたとえ一個師団が相手であろうと絶対にひけは取らなかった。相手がヴルカーノの将軍であろうが、王であろうが、戦場でまみえたのであれば、決して、決して、負けるはずはなかったのだ」
言う端から、涙が零れそうになるのを、必死に耐えた。泣く権利など自分にはない。そうは思うのに、どれほど両手の拳を握り締めても、目の奥が熱くなっていく。
「だが私は敵とまともに戦うこともできなかった。戦場で相対したのは、ヴルカーノ兵ではなく、かつての同胞、シャリエの国軍に所属していたはずの人々だ。我々は――ノルベルト様は、裏切りに遭った。私が国を捨てたのはそのためだ。ヴルカーノに制圧されただけであれば、あるいはノルベルト様の仇討ちを旗印に掲げて、決起することもできたかもしれぬが……私はこの手でかつての同胞を殺し、そして、ノルベルト様を失った。この上シャリエに、この命に、何の未練があろうか。ノルベルト様は、ご自身の命だけではなく、あの御方が守ろうとしたものすべてを失われたのだ。国土だけではない、シャリエという国の魂……すべてを……」
結局、耐えきれず、グランツはその場に突っ伏して嗚咽を漏らした。
ヴルカーノに寝返ることのなかった将たちは戦場で命を落とすか、処刑された。残った騎士のほとんどは、保身のためにコルノの前に膝を屈した。
「ああ、なぜコルノは、私もノルベルト様と同じ場で処刑してはくれなかったのか――!」
ロード・グランツの名が、処刑というグランツにとって最後に縋ることのできる運命を阻んだ。グランツを生かすことで、シャリエの国民の余計な敵愾心を封じ込めようとしたのだと、シンが以前指摘した。そのとおりだ。どの国の王よりも民の心を掌握することに長けているコルノの思惑のせいで、グランツは生かされてしまった。
グランツがこんな辺境の島、辺境の国まで辿り着いてしまったことだけは、さしものコルノも予測していなかっただろうが。
しばらくの間、身を振り絞るように涙をこぼしていたグランツは、シンがまったく何の相槌すら打っていないことに気づいて、ハッとした。
またやってしまった。シンの前ではかつての主の名を口にしないようにと、そう思っていたのに、またノルベルトのことを思って泣き喚いてしまった。
以前のように呆れ果てた顔で自分を見ているか、あるいは飽きて寝ているか、シンの反応を予測しながら顔を上げたグランツは――驚いた。
シンが、どこか複雑そうな顔で自分を見ている。
その表情を見て、ますますグランツは自分の言動を悔やんだ。
「まあ……いいんだけどさ、俺にそんな気を遣わなくても」
口を開きかけたグランツの機先を制するように、シンが言う。
「そりゃ俺は、あなたがそうやって、いい大人だっていうのにわぁわぁ泣き喚かなけりゃいけないくらい愛する人がいたっていうことに、嫉妬してるけどさ。世の中には、そうまでして大事な人を持てる人間もいるってわかるから、いいんだよ」
シンがそっとグランツの顔に手を伸ばし、散々泣いて腫れかけた目許に指先で触れる。シンの指は冷たかった。冷たくて心地がいい。腫れが引いていく感じがする。
――治癒法だ。
「シ、シン殿、疲れているのだから、わざわざそんな、魔術など……」
「嫌がらせに決まってるだろ」
グランツの両目を指で撫でてから、シンが笑ってその手を下ろした。
シンはこれまでにも何度も、グランツが身に受けた苦痛を魔術で癒した。進んで罰を受けたがるグランツへの嫌がらせのためだと、そのたび言い放っている。
だが、そんな理由だけであれば、自分に触れるシンの指が優しいことがグランツには不思議でならない。
「ヴルカーノから来る商人たちがヴェロスに固執していることが、不審ではあったんだ。アクリオスの王が世襲で決まるわけでないともうわかってるはずなのに、『王子』をもてはやすのは、単に文化の違いを理解しきれてないだけかと思って放っておいたんだけど――なるほど、内部崩壊ね。無駄な狙いを定めたものだよ。人間の心をどうこうした程度でこの国の仕組みが壊せるのなら、そんなもの、俺がとっくにやってる」
小さく、シンが喉で笑う。そんな彼の表情を、グランツはぼんやりと見遣った。
「君はアクリオスを壊したいのか?」
「……壊したい……と、思えるならいいなあ」
シンの呟きは独り言のように聞こえたので、相槌は打たずにおく。
アクリオスから、シンは逃げることができない。あまりに辛いウディヤとしての運命を知った時、グランツはたまらず島を出ようとシンに告げた。
だがシンはそれを拒んだ。おそらく『監視』がついているから不可能という理由だけではなく、シン自身が、アクリオスの民を見捨てられないせいなのだろうと、グランツはおぼろげに察している。
彼もまた、グランツが全身全霊をかけて愛したノルベルトと同じように、王としての資質を持つ者だからなのではないかということも。
シンはしばらく黙り込んだあと、きつくこめかみを指で揉むような仕種を見せた。
「……駄目だ、もう少し寝る。もし雨が止んだら絶対に起こしてね、グランツさん」
目を覚ましたとはいえ、具合が多少でも回復したというわけではないらしい。シンは億劫そうな動きで、再び寝床へと横たわった。
「何か欲しいものはあるか?」
「別に――、あ」
グランツの申し出に首を振りかけたシンが、何か思いついた様子で閉じかけた瞼を開いた。
「歌、歌ってよ。前にも俺が寝る時歌ってただろ?」
「おお、あの時のか。いいだろう、私は歌が得意なんだ」
意気込んで応えた途端、シンが枕に突っ伏したので、グランツは戸惑った。
シンは口許を拳で押さえ、全身を揺らして――笑っている。
「うん、グランツさんの歌、俺は結構好きだよ。よく眠れそう」
「そ、そうか」
なぜ笑われているのかはよくわからなかったのが、シンが楽しげだったので、グランツにはそれが嬉しい。
ようやく体勢を直し、大人しく仰向けに横たわり目を閉じるシンの側で、グランツは小さな声で、心を籠めて、懐かしい故国の子守歌を口遊んだ。




