第5話 水槽越しのアンコール
「水中での歌声は確かに素晴らしいよ。でもさ、陸上で声が出せないんじゃ、うちのバラエティ番組ではどうしても扱いにくいんだ。テロップを入れるにしても、いちいち通訳を挟むにしても、トークのテンポが悪くなる。予算的にも厳しいね」
プロジェクト始動五日目の夕方。都内にある大型テレビ局。アクリル張りのオーディションルームから漏れ聞こえてきたプロデューサーの言葉は、酷薄なほどに事務的だった。
分厚い防音扉が開き、深く頭を下げて退出してきたのは、青みがかった銀髪を持つ水棲種族の少女だった。
ルナ・マーレ、十九歳。
陸上での乾燥を防ぐための特殊な保湿コートを羽織った彼女は、首から下げた音声合成用の説明端末を操作しようとした。だが、連日のオーディションで酷使したせいか、画面がノイズに塗れてまともに文字が打ち込めない。
ルナは諦めたように手を止め、誰に抗議するでもなく、静かにうつむいた。
能力が足りないわけではない。表現力が劣っているわけでもない。ただ『陸上で既存の枠組に当てはまらないから』という理由だけで切り捨てられる。それが、この業界における異種族タレントの冷酷な現在地だった。
「能力不足ではなく、番組の都合で落とす。相変わらずだな、ここの連中は」
壁際で腕を組んでいた相楽ユウトが、廊下を歩き出そうとしたルナの前に進み出た。
「初めまして。ナナホシプロの相楽ユウトと申します」
ルナは驚いたように肩を揺らし、大きな青い瞳でユウトを見上げた。
「あなたの水中パフォーマンスの映像を拝見しました。あの声の響きは、誰にも真似できない。うちのプロジェクトに参加してくれませんか」
ルナは怪訝そうな顔をした。動かない端末の代わりに、彼女は素早く両手を動かした。手話だ。
『私は、陸では話せません。テレビに出ても、さっきのように迷惑をかけるだけです。同情ならいりません』
ユウトは首を振った。
「テレビの枠に合わせる必要はありません。陸で声が出せないなら、声を出さなくていい舞台をこちらで作ればいい。あなたが必要なんです」
七日目までに公式フォローを五千に届かせなければ、MV予算が凍結される。現在のフォロー数は四千八百。残り二百の壁を越えるには、ミラが解析した『無音の完走率の高さ』を武器にするしかない。声帯に頼らない彼女の純粋な表現力は、現状の停滞を打ち破るための確かな勝算だった。
その日の夜。
ナナホシプロが借り切った小さな地下スタジオには、急造のアクリル製簡易水槽が設置されていた。
カメラの向こう側には、カレンの加入やミラの無音ティザー動画から流入してきた数千人のオンライン視聴者が待機している。
水中に潜ったルナのパフォーマンスは、圧倒的だった。
水の抵抗を味方につけた優雅な遊泳。そして、特殊な水中マイクを通して響く、泡沫のように透明感のあるソプラノの歌声。それは陸上の物理法則から解放された、彼女だけの領域だった。
だが、トラブルは曲の合間のMC――陸上に上がってファンへ挨拶をするタイミングで起きた。
水面から顔を出したルナが、首掛けの端末に濡れた指を這わせる。しかし、昨日のオーディション会場から調子の悪かった端末は、致命的なショートを起こし、完全に沈黙してしまった。
『……っ!』
声が出せないルナの表情に、明らかな動揺が浮かぶ。配信の画面には、無音のまま硬直する彼女を訝しむコメントが流れ始めた。
スタジオの隅で、ユウトは咄嗟にマイクを握りかけた。
代わりに俺が事情を説明すれば、場は繋げる。ルナを『機械の故障で話せなくなった可哀想な少女』として庇えば、視聴者の同情を引くこともできるだろう。
だが、ユウトは踏みとどまった。
シルヴィアから突きつけられた過去の罪。カレンに指摘された「他人の痛みの安売り」。そして、ゴルガが自らの意思で舞台に立つと決めたあの光景。
自分がここでマイクを取って代弁してしまえば、彼女の表現を、彼女自身の選択肢を奪うことになる。障害を欠点として扱う、あのプロデューサーと同じだ。
ユウトはマイクを置き、カメラのズームを調整した。
ルナの顔から、彼女の震える両手へとフォーカスを絞る。そして、スタジオの背景モニターに、ルナのスマートフォンの画面を直接ミラーリング接続した。
「ルナ」
ユウトはカメラ越しに、彼女に向かってうなずいた。
「俺が決めつけることは何もない。君の言葉で、君のやり方で届けてくれ」
ルナは小さく息を吸い込んだ。
彼女はスマートフォンでの素早いタイピングと、手話を組み合わせ始めた。
打たれた文字が、背後のモニターに大きく映し出される。
『ごめんなさい、機械が壊れました』
ルナの手が、流れるように美しく動く。
『私は陸では声が出せません。でも、水の中なら歌えます』
『声がなくても、この手で、伝えられると信じています』
同情を誘うような悲劇的なトーンではない。ただ堂々と、自分の今の状態と意思を、指先の動き一つ一つに込めて観客へ届けていく。
言葉の壁を越えたその純粋な身体表現は、ミラの言っていた『無音動画の完走率』の正体そのものだった。沈黙は受動的なものではなく、雄弁な自己主張へ変わっていた。
やがて、画面の向こう側の空気が変わった。
『手話、すごく綺麗だな』
『無理に声出さなくていいよ! 伝わってる!』
『すげえ、指先まで全部表現になってる』
配信のコメント欄が、好意的な反応で埋め尽くされていく。
そして、スタジオに招待されていた数十人のファンたちが、誰からともなく両手を高く挙げ、手首をひらひらと回し始めた。
それは、拍手の代わり。手話における『称賛』のサインだった。
音のない、無数の手によるアンコール。
その光景を見たルナの瞳が大きく見開かれた。水槽越しに見る観客の反応に、彼女は泣く代わりに、これまでで一番の晴れやかな笑顔を浮かべ、何度も何度も、深くお辞儀をした。
配信終了後、ユウトはダッシュボードの数値を更新した。
ルナの視覚的で美しいパフォーマンスと、沈黙を共有する独特の体験が、手話コミュニティや無音動画のファン層を強烈に惹きつけていた。
オンライン配信のチケット代わりとなる投げ銭と、楽曲のダウンロードが立て続けに跳ねる。
推しポイント(pt)は『2,400』。
そして、公式フォロー数は一気に『6,200』へ到達した。
七日目の期限を前に、MVの制作予算凍結という最大の危機は、完全に回避された。
「……やったな」
安堵の息を吐くユウトの横で、ルナが申し訳なさそうに、完全に黒く焦げた説明端末を差し出してきた。
ユウトは苦笑しながらそれを受け取る。
「この壊れた端末と、さっき少しノイズが走っていた水中マイク……専門の業者に頼んで、完全に直す必要があるな」
ユウトの頭には、頑丈な機材設計も請け負うという、あるドワーフの技術者の名があった。
その技術者が、市販のマイクを破壊するほどのゴルガの低音を受け止め、職人とアイドルの両方として六人目になることを。




