第39話 武道館
すり鉢状に広がる日本武道館の客席は、アリーナからスタンドの最後列に至るまで、一人の隙間もなく埋め尽くされていた。
開演前。一万人の人間と異種族が放つ熱気とざわめきは、巨大な竜巻となって会場内を渦巻いている。
PAブースに立つ相楽ユウトのタブレットには、同日同時刻に開始された純血エルフ『ELDORADO』の無料配信ライブの視聴者数が、すでに数百万という桁外れの数字に達していることが示されていた。
だが、その数字はもはやユウトたちにとって何の脅威でもなかった。
今この瞬間、解くべき課題はただ一つ。無料の洗練された芸術ではなく、身銭を切ってこの一万席という泥臭い特異点を選んでくれた観客たちに対し、彼らの想像を凌駕するパフォーマンスで対価を支払い、これまでの「異種族の市場価値」という予測モデルを完全に破壊することだ。
「……時間だ」
ユウトのインカム越しの合図と共に、武道館の照明が一斉に落とされた。
静寂を切り裂くように、一曲目、デビュー曲『UNITY』のイントロが響き渡った。
ステージの中央にスポットライトが当たり、七人のシルエットが浮かび上がる。
かつて地下ライブハウスでバラバラに動いていた彼女たちは、今や一万人の視線を完全にコントロールしていた。ニコが圧倒的な運動量でステージを駆け回り、弾けるような笑顔で観客を煽る。そして、彼女の視線が起点となり、見せ場が次々とメンバーへ手渡されていく。
ニコの視線を受けたメイプルが、特注のチタン製パーカッションを全力で打ち据える。その鍛造のリズムは、ただの伴奏ではなく、ドワーフの職人が自らの存在を叩きつける強烈な打撃音となって武道館の空気を震わせた。客席の最後列で腕を組んで見ていた中年のドワーフ――メイプルの父親が、その音を聴いて微かに目を瞠る。
中盤戦の個人曲メドレー。
カレンは自らの曲『闇に咲く朝』で、かつてのように他人の影を暴いて優位に立つような歌い方を捨てていた。彼女自身の内側から湧き上がる純粋な楽しさを、不敵で、しかし柔らかい自発的な笑みとして客席へ向ける。その変化に、観客の無数のペンライトが赤い波となって応えた。
そして、ルナの出番。
ステージ中央に設置された二重構造のアクリル水槽から、彼女が陸上へと身を乗り出す。
医療スタッフとの事前テストで許可された上限は三秒。異常があればルナ本人の停止サインを最優先し、即座に止める取り決めだった。
ルナは計画どおり、たった一秒の美しい高音を武道館に響かせ、自らマイクを口元から離した。
そして次の瞬間には流麗な手話と水飛沫のパフォーマンスへと戻り、声の有無という価値基準すらも無効化してみせたのだ。
「……やりやがった」
ユウトが苦笑すると、インカムの向こうでメンバーたちの息遣いが聞こえた。
メドレーが終わり、ステージに静寂が訪れる。
スポットライトの下、ゴルガがマイクスタンドの前に立った。
武道館の観客は、彼女が何を話すのかと固唾を呑んで見守っている。
「……グルゥッ」
マイクを通したオーク語の短い発声。それは緊張からではなく、彼女自身が深く呼吸を整えるための合図だった。
「私は、大きな声しか出せない。ずっと、誰かを怖がらせていると思っていた。グルルッ……でも、あなたたちが、私の名前を呼んでくれた」
ゴルガの不器用で、たどたどしい言葉。だが、その一言一言が、一万人の胸の奥底に直接響いていく。
「だから、今度は私が歌う。あなたたちが下を向かずに歩けるように。この声で、背中を押す」
歓声は起きなかった。代わりに、観客たちは無言のまま、ステージ上の彼女に向けて地鳴りのような足踏みを返し、深く、温かい共鳴の意思を示した。
その光景を見ていたミラは、分析用端末の画面から顔を上げ、大粒の涙をポロポロとこぼしていた。
「……エラーです。観客の感情係数も、私のこの涙も、まったく論理的な計算式に収まりません」
彼女は、数値化できない熱狂を、もはや分析から除くべき誤差としては扱わなかった。
VIP席の暗がりから、五洲エンターテインメントの黒崎豪がその光景を見下ろしていた。
同時間帯のELDORADOの配信が世界的な話題を呼んでいる一方で、目の前の一万人の熱狂は、彼の知るどのエンターテインメントの型にも当てはまらなかった。
「……私が作った収益予測モデルには、決定的な欠陥があったということか」
黒崎は感動に打ち震えたり、負けを認めて改心したりはしなかった。ただ、一人の事業家として、自らの計算式がこの七人の生み出す「需要」を取り逃がしたという事実を、冷徹に認めたのだ。
「相楽。国内の席はお前たちの勝ちだ。だが、この熱狂を海外へ輸出する流通網は、まだ我々に分がある。次の交渉の準備をしておけ」
彼はスーツのポケットに手を入れ、静かに席を立った。
ステージは、いよいよ終盤。
シルヴィアが、メンバーの中央に歩み出た。
銀髪を揺らし、翠の瞳で一万人の観客、そしてPAブースのユウトを真っ直ぐに見据える。
「私たちは、誰かの美しい飾りにされるためにここにいるんじゃないわ! 私たちは揃わない! でも、だからこそ、誰にも消せない光を作れる!」
リーダーとしての強烈な宣言。
そして始まった最後の新曲『Colors』。
オークの重低音、エルフの高音域、ドワーフの打撃音、水と光の反射。七つの全く異なるソロが、単色に消えることなく、一つの強烈な光景として武道館の空間で混ざり合った。
一万人の観客は、ある者は泣き、ある者は光を振り、ある者は無音の手話を掲げ、それぞれのやり方でその光景に応えた。
数時間後。
10,000席完売、全演目の完遂。
撤収作業が進む武道館の裏側で、ユウトは海外のプロモーターから届き始めたオファーのメールを確認していた。あのステージは、すでに次の流通交渉という新たなビジネスの扉を開いていた。
「マネージャー」
背後から声がした。
振り返ると、ステージ衣装から私服に着替えたシルヴィアが立っていた。
彼女の表情は、いつもの自信に満ちたリーダーのものではなく、どこか緊張したような、一人の女性としての強張りを見せていた。
「……少し、いいかしら。二人きりで話したい場所があるの」




