第40話 値札ではなく地図
一万人の熱狂が嘘のように引き潮となり、日本武道館は祭りの後の深い静寂に包まれていた。
客席の撤収作業が遠くで響く中、誰もいない薄暗いバックヤードの通路で、相楽ユウトは一人、壁にもたれて立っていた。
一万席完売。そして、演目の完全な成功。
無名の弱小事務所が、異種族のアイドルたちを率いてエンターテインメントの巨大な壁を叩き割った。その圧倒的な事実の余韻を噛み締める間もなく、ユウトにはまだ、最後に果たさなければならない最も重い仕事が残されていた。
「……待たせたわね、マネージャー」
通路の奥から、コツ、コツと足音を響かせて現れたのは、ステージ衣装から落ち着いた私服へと着替えたシルヴィアだった。
彼女はユウトの数歩手前で立ち止まり、翠の瞳で真っ直ぐに彼を見据えた。そこには、一万人の前で堂々と歌い上げたトップアイドルの顔と、一人の女性としての微かな緊張が入り混じっていた。
「一万席の景色、本物だと証明したわ」
シルヴィアは静かに言った。
「これで、あなたが掲げた事業の目標は達成された。だから……帰り道に言った通り、確かめさせてもらうわ」
シルヴィアが一歩、距離を詰める。
「相楽ユウト。あなたは今、私をどう見ているの。三年前と同じように……ただの利益を生み出す数字として、高収益の資産として見ているのかしら?」
それは、過去にユウトが自らの手で作った収益予測表という「罪」に対する、最後の審問だった。
ユウトは視線を逸らさず、シルヴィアの問いを正面から受け止めた。
「俺は今でも、君を途方もない利益を生み出すトップアーティストだと思っている。一万人を熱狂させ、市場を動かす君の事業上の価値は、君が自分で勝ち取った誇りだ」
ユウトは一息置いた。
「だが、それとは別に、俺は君という一人の女性に惹かれている。過去を忘れたからじゃない。忘れないまま、それでも今の君を愛している」
シルヴィアは長く息を吐き、それから小さく笑った。
「ようやく、数字ではなく私に答えたわね。……私も、今のあなたを愛している。ただし、過去を許したという意味ではないわ」
「分かっている」
相互の感情を確かめてから、ユウトはビジネスバッグを開き、一枚の申請書を差し出した。
『担当マネージャー変更および評価権限移譲の申請書』。まだ決裁前の案だ。
「俺が君の直接評価権と契約決裁に関わる立場のまま、恋人にはなれない。今後はプロジェクト全体の戦略を担い、君たちの日常的な管理と評価は、七星社長と新任マネージャーへ移す。お互いの気持ちは確かめた。でも、正式に付き合うのは、権限移管と社内手続きが終わってからだ」
シルヴィアは申請書に目を通し、納得したように頷いた。
「いいわ。その手続きが終わるまで、待ってあげる」
二人は抱き合う代わりに、確認した申請書を持って、七星社長の待つ控室へ戻った。
数十分後。武道館の控室に戻った二人は、待機していた六人のメンバーと七星社長に、相互の感情と権限移管の方針を淡々と報告した。
二人から思いがけない報告を受けたにもかかわらず、控室の空気は驚くほど平穏だった。
「……まあ、あんたたちの影なんて、ずっと前からわかりやすく混ざり合ってたしね」
カレンがソファに寝転がりながら、呆れたように肩をすくめる。彼女は他人の恋愛感情を読む力を、二人を邪魔するためではなく、静かに見守るために使っていた。
「相互感情の確認によるグループ内のモチベーション低下率は……計算不要ですね。むしろ相互理解によるシナジー効果で、パフォーマンス係数は上昇します」
ミラは触角を穏やかなパステルピンクに輝かせながら、タブレットに新しいデータを打ち込んでいた。
『やっとですね。おめでとうございます!』
ルナが満面の笑みで、祝福の手話を大きく切る。
「おいマネージャー。恋愛にかまけて、私たちの次の機材予算をケチったりしたら、承知しないからな」
メイプルは工具を鳴らしながら、職人としての牽制を忘れない。
「やったー! マネージャーさんとシルヴィアさん、やっと同じ気持ちだったんですね!」
ニコは千切れるほど尻尾を振り回して喜んでいる。かつて自分が切り捨てられる恐怖に怯え、ユウトへ淡い憧れを抱いていた少女はもういない。彼女は今や、七人と観客、そして二人の関係をも明るく繋ぐ、真のセンターとして立っていた。
そして、ゴルガがゆっくりと立ち上がり、二人の前に歩み出た。
彼女はユウトとシルヴィアの背中を、その大きな手でドンッと力強く叩いた。
「ユウト。シルヴィア。……嬉しい」
彼女の低く温かい声が、控室全体を優しく包み込んだ。
――それから、半年後。
直接評価権と契約決裁の移管、新任マネージャーの配置、社内報告と忌避ルールの確認を終えてから、ユウトとシルヴィアは正式に交際を始めていた。
羽田空港の国際線出発ロビー。
出発を待つユニティの七人は、それぞれパスポートを片手に、これから始まる未知の舞台への期待に目を輝かせていた。
日本武道館での大成功を収めた彼女たちの次の戦場は、海を越えた海外ツアーだった。アジアからヨーロッパを巡る巨大なプロジェクト。それを統括するゼネラルプロデューサーとして、相楽ユウトはラウンジの窓際でノートパソコンを開いていた。
そこへ、彼のスマートフォンに一本の電話が入る。
発信元は、五洲エンターテインメント代表、黒崎豪。
『出国前の忙しい時間に失礼するよ、相楽』
「黒崎社長。ご無沙汰しております。海外のプロモーターとの流通交渉、ずいぶんと五洲の資本で横槍を入れてくださっているようですね」
ユウトの皮肉に対し、電話越しの黒崎は冷ややかに笑った。
『当然だ。国内での一万席の熱狂は、君たちの勝ちだと認めよう。だが、エンターテインメントの市場は日本だけではない。世界という巨大なパイにおいて、我々の構築した流通網と純血の美学が負けるつもりは毛頭ない』
黒崎は、武道館での敗北を機に改心などしていない。彼はただ、自分の市場予測モデルがユニティの需要を見落としていたという事実を冷静にアップデートし、次の競争へと舞台を移しただけだった。
「望むところです。彼女たちの音は、まだまだ市場を拡張し続けます。あなたの予測モデルを、世界中で破壊してみせますよ」
『期待しているよ。我々も、さらなる王道を構築して迎え撃とう』
短い通話が切れ、ユウトはスマートフォンをポケットにしまった。
強大な敵は、形を変えて存在し続ける。だが、今のユウトたちに怯えはない。
ユウトはパソコンの画面に表示された、世界各国の公演予定とチケットの売上推移ダッシュボードを見つめた。
画面の中で、無数の数字がリアルタイムで明滅している。
三年前。彼はこの数字を使って、異種族の価値を値踏みし、シルヴィアの未来を縛り付けた。数字は、他人の尊厳を切り売りするための残酷な刃だった。
だが、今は違う。
画面の向こうにいるのは、彼女たちの歌に希望を見出し、自らの意思でチケットを買ってくれた一人一人の観客だ。
ユウトが視線を上げると、新しい担当マネージャーと談笑しながら、ゲートへと向かうシルヴィアたち七人の背中が見えた。彼女たちは振り返り、ユウトに向かって手を振り、それぞれの笑顔を見せる。
ユウトもまた、静かに微笑み返した。
パソコンの画面で光る数字はもはや、彼女たちを商品として品定めし、檻に縛り付けるための冷たい『値札』ではない。
彼女たち自身がその足で歩み、自らの意思で選び取った、次の果てしない舞台へ進むための『地図』なのだ。




