第38話 最後の一席
武道館公演まで残り十日を切ったナナホシプロの事務所は、息が詰まるような沈黙に支配されていた。
壁の大型モニターに表示されたチケット販売のダッシュボードは、『8,604 / 10,000』という数字を示したまま凍りついている。
ネットのタイムラインは、同日同時刻に開催されるハイエルフ三人組『ELDORADO』の全世界無料配信の話題で完全に埋め尽くされていた。名家が投じた莫大な広告費は、SNSのアルゴリズムを支配し、ユニティへの関心を根こそぎ奪い去っていた。
残り、一千三百九十六席。
武道館開催の最低ラインは越えたものの、一万席の完売という目標に対して、この千数百という数字はあまりにも巨大で、残酷な空白としてユウトたちの前に立ちはだかっていた。
「……社長、追加のプロモーション予算を組ませてください」
相楽ユウトは、七星今日子と七人の前に企画書を置いた。
「複数枚購入の特典なら、券面上の数字は早く埋まる。だが、来場者のいない席を作る買い増し施策は採用しない」
資料の該当案には、最初から大きなバツ印がついていた。
「実際に座る一人ひとりの来場理由を増やす。残席のダッシュボードを公開し、七人が別々のファン層へ紹介を繋ぐ案だ」
シルヴィアが企画書を読み、他の六人と視線を交わした。
「それなら、私たちの言葉でやらせて。この残席の数字も、隠さず全部公開しましょう」
「ああ。買い増しの強要も、空席を生む特典煽りもしない。君たちの手で、『一人一席の来場理由』を増やしてくれ」
ごまかしのない残席数が、公式サイトにリアルタイムで掲載された。
ここから、七人による最後の紹介リレーが始まった。 ごまかしのない、完全な丸裸の数字の公開。
ここから、七人による最後の逆襲が始まった。
彼女たちは、交代でカメラの前に立ち、それぞれのファン層へ向けた『紹介リレー』の配信を開始した。
ゴルガは低い声で、静かに語りかけた。
「私の声は、もう私を怖がらせない。もしあなたの周りに、自分の声や身体を恥じて下を向いている人がいたら、どうかその手を引いて、武道館に連れてきてほしい」
その配信を見ていた十二歳のオークの少女、ハナは、学校でいつも一人でいる別の異種族のクラスメイトに、初めて声をかけた。
ルナは、無音の手話で力強く空気を切った。
『水の中だけじゃない、陸の上での私の挑戦を、見届けに来てください』
かつて彼女の動画に救われた聴覚障害の青年が、その画面を見つめ、遠く離れた友人の分のチケットを購入する。
カレンの「あんたたちのような日陰者の居場所を、一番明るい場所に作ってやったわよ」という不敵な挑発に応え、地下ライブハウスの常連客たちが連れ立ってチケットを確保する。
ニコの底抜けに明るい笑顔の呼びかけに、全国ツアーで彼女たちの熱気にあてられた地方ファンたちが、夜行バスの手配と共に武道館への遠征を決意した。
東京湾岸の建設現場では、田辺職長がスマートフォンの画面を現場の若い衆に見せていた。
「俺たちの恩人の晴れ舞台だぞ。当日空いてる奴は全員来い。チケット代は俺が持ってやる……いや、自分で買え!」
一人に複数枚を抱えさせるのではない。
「誰かに見せたい」「あいつを連れて行きたい」という、純粋で確かな想いによる、一人一席の購入の連鎖。
PAブースでユウトが見つめるダッシュボードの数字は、ELDORADOの巨大な広告の波を縫うようにして、着実に、そして力強く上昇を始めていた。
8,900。9,200。9,600。
数字の向こう側には、チケットを買った一人一人の顔があり、人生があり、誰かを誘う小さな勇気があった。
そして、公演を三日後に控えた深夜。
ついにカウンターは『9,999』という数字を叩き出し、静止した。
残り、一席。
東京の郊外にある、薄暗い町工場の工房。
火の気が落ちた炉の傍らで、筋骨隆々としたドワーフの男が、スマートフォンを無骨な太い指で操作していた。
メイプルの父親だった。
画面には、娘から送られてきた武道館の招待状のメッセージと、一般向けのチケット販売サイトが映し出されている。
関係者席の無料チケットではなく、自腹で席を買えという、職人の娘らしい不器用で強引な招待だった。
「……馬鹿娘が。一万人の前で、中途半端な音を鳴らしてみろ。即座に家へ引きずり戻してやる」
男は忌々しそうに独り言を呟いた。
彼は娘の生き方を認めたわけではない。親として娘の晴れ舞台を祝いに行くというような、甘い感傷もなかった。彼はただ、自分の工房を出て行った見習いが、武道館という極限の環境に耐えうる機材を本当に打つことができたのか、その「職人としての腕」を査定しに行くだけだ。
男は太い指で、画面の購入ボタンを力強くタップした。
親子の和解は、この購入という行為だけでは完了しない。すべては、本番のステージで彼女が鳴らす音の質にかかっていた。
翌朝。
事務所に泊まり込んでいたユウトと七人のメンバーは、大型モニターの前に並んで立っていた。
画面の中央に表示された数字。
『10,000 / 10,000』。
完全なる、ソールドアウト。
買い占めも、特典による水増しも一切ない。一万人の生身の人間が、自らの意思と財布で彼女たちのパフォーマンスを選び取った、嘘偽りのない数字だった。
「……いきましたね」
ニコが尻尾をゆっくりと揺らしながら、信じられないというように呟いた。
ルナが音のない涙を流しながら両手で顔を覆い、ゴルガがその肩を優しく抱く。カレンはふいっと顔を背け、ミラは触角を穏やかなピンク色に光らせていた。メイプルは腕を組み、鼻をすする音だけを立てている。
シルヴィアが、ユウトの方を振り向いた。
「……ありがとう、マネージャー。私たちが進むための、最高の地図を広げてくれて」
ユウトは、真っ直ぐにシルヴィアの翠の瞳を見つめ返した。
三年前、彼は数字で一人の歌姫を傷つけた。しかし今、彼は数字を武器にし、一切の搾取を行わずに一万席という巨大な結果を導き出した。
「礼には及ばない。だが、勘違いするな」
ユウトはモニターの『10,000』という数字を指差した。
「完売は終点じゃない。チケットが売れたということは、一万人の観客が俺たちに期待し、時間と金を払ってくれたということだ」
メンバーたちの表情が、歓喜からプロの顔へと引き締まる。
「三日後。本番のステージで、俺たちはこの一万席に、圧倒的なパフォーマンスで応えなければならない。すべては、武道館のステージの上で決まる」
ユウトの言葉に、七人は誰一人欠けることなく、力強く頷いた。




