第37話 七色の壁
武道館まで残り二十一日。チケットと法務を同時に進めるため、ユウトとシルヴィアは在留資格と文化財保護に強い専門家を訪ねた。
都内の法律事務所。
国際的な在留資格や文化財保護法に明るい専門弁護士を前に、ユウトとシルヴィアは並んで座っていた。
「状況は理解しました」
分厚い資料に目を通した弁護士が、ユウトの方を向いて尋ねる。
「本国の名家は外交筋を通じ、彼女を『保護すべき文化資産』として帰還させるよう求めています。所属事務所の責任者として、相楽さんは彼女の処遇にどう回答しますか? 法人の代理として主張をまとめますが」
弁護士の問いに対し、ユウトは口を開きかけた。事務所の利益、契約の正当性、彼女の才能の価値。並べるべき論理はいくらでも頭の中にあった。
だが、ユウトは静かに口を閉じ、シルヴィアから一歩分だけ後ろへ椅子を引いた。
「俺は答えません。俺は彼女の所有者ではない」
ユウトはシルヴィアを見つめた。
「彼女の身の安全を担保する法務の枠組みと、収益自立の証明書は俺が全て揃えました。ですが、ここに残る理由を証明するのは、俺の仕事じゃない。彼女自身の言葉です」
ユウトが答えを代弁しなかったことに、シルヴィアはふっと柔らかく微笑んだ。
彼女は弁護士に向き直り、澄んだ、しかし鋼のように硬い声で告げた。
「私は誰の所有物でもありません。エルフのブランドを飾るための人形に戻るつもりは一切ない。私は日本のナナホシプロで、自らの意思で働き、自立した収益を得ている一人のアーティストです」
シルヴィアは、ユウトが用意した収益自立証明書と今後の文化活動計画書を提出し、迷いのない手つきで『在留代理人委任状』と『本人同意書』にサインを書き込んだ。
「私が選んだのは、混ざり合った色で歌うこの場所よ。誰にも奪わせはしないわ」
それは、法的な手続きであると同時に、彼女が過去のしがらみと完全に決別した瞬間だった。
シルヴィアが自らの壁を越えたように、他のメンバーたちも本番に向けた本気の仕上げに入っていた。
ナナホシプロのレッスンスタジオ。
ゴルガは、伝えたいことを自分で書いた武道館用のMCメモを握りしめ、冷や汗を流していた。
「みなさん、本日は……えっと、足を運んでいただき、グルゥッ……」
長文の日本語を綺麗に話そうとすればするほど呼吸が浅くなり、緊張からオーク語の短い発声が漏れてしまう。
ユウトは歩み寄り、ゴルガの手の中で折れ曲がったメモを閉じた。
「それは読み上げる台本じゃない。伝えたい順番を忘れないためのメモだ。息が詰まるなら、君の呼吸のペースで話せ」
ゴルガはハッとして、自分の大きな胸に手を当てた。
「……私の、呼吸で」
彼女はマイクを握り直し、深く息を吸い込んだ。
「グルゥッ……! 来てくれて、ありがとう。グルルッ……私は、ここで歌う」
言葉の間に挟まれるオーク語の発声。それはもはや恐怖の記号ではなく、彼女自身が呼吸を整え、自分のペースで観客に想いを届けるための、力強い句読点となっていた。
スタジオの反対側では、ルナが水槽のセットから身を乗り出し、手話で希望を伝えていた。
『武道館のクライマックスで、一度だけ、陸上で声を出したいです』
長い歌唱は安全基準に反する。だが、本人の希望を前提に医療スタッフとテストした結果、加湿と酸素補助の下で、一つの短いフレーズだけなら許可が出た。
「上限は三秒。但し、三秒は使い切る目標じゃない。君が自分で終え、少しでも異常があれば即停止する。君本人の停止サインが最優先だ」
ルナは条件を一つずつ確認し、自ら停止サインを作ってから、大きく頷いた。
PAブースの隅。
メイプルは、真新しい封筒を前にして工具を弄りながら腕を組んでいた。
差出人は自分。宛先は、家業を継がずにアイドルになった娘を未だに認めていない、ドワーフの父親。
ユウトは何も言わずにメイプルの横を通り過ぎ、机の上に一枚の切手だけを置いて立ち去った。励ましの言葉も、説教も必要ない。彼女が自分で決めることだ。
メイプルは置かれた切手を見つめ、やがて太く息を吐き出すと、乱暴な手つきで切手を貼り付けた。
「……チッ、一番後ろの席のチケットを入れてやった。私の打った機材の音、嫌でも聞かせてやる」
翌日。
シルヴィアが正式に在留代理人を立て、自立したアーティストとして日本での活動を継続するという公式声明が、本人の署名付きで発表された。
エルフの特権階級からの帰還圧力というゴシップを吹き飛ばす、彼女自身の強烈な意思表示。それは、彼女の歌を愛するファンたちの心を激しく打った。
同時に、メンバーがそれぞれ公開を承認した、武道館リハーサルの短い映像も届けられた。
不器用に言葉を紡ぐゴルガ、陸上での一瞬の発声に挑むルナ、機材を調整しながら笑うメイプル。
彼女たちが決して作られた偶像ではなく、泥臭く自らの壁に挑む生身の存在であることが、SNSを通じて一気に拡散されていく。
ユウトは、息を止めてダッシュボードを見つめた。
止まっていたカウンターが、激しい勢いで回転し始める。
7,500。8,000。8,300。
ファンの共感と熱狂が、確実な数字となって積み上がっていく。
そして。
『8,604 / 10,000』
武道館の開催判断のデッドラインである八千五百席を、ついに突破した。
仮押さえが流れる危機は去った。これで、間違いなく彼女たちはあのステージに立つことができる。
だが、歓喜に沸く事務所の中で、ユウトの表情だけは凍りついていた。
「……止まったな」
八千六百四席という数字を叩き出した直後、カウンターの動きは完全に停止していた。
スマートフォンを開けば、その理由は明白だった。
ELDORADOの全世界同時無料配信のプロモーションが、すべてのプラットフォームで本格的に開始されたのだ。
莫大な広告費に物を言わせた、競合の巨大な波。それが、武道館への関心を完全に飲み込み、話題を根こそぎ奪い去っていた。
残り、一千三百九十六席。
一万席完売という最終到達点へ向けた最後の壁が、冷酷な沈黙と共に彼らの前に立ちはだかっていた。




