第36話 九ヶ月後、残り二千九百八十二席
ナナホシプロの壁に掛けられた大型モニター。その中央に表示された『日本武道館 先行販売座席数』のダッシュボードは、『7,018 / 10,000』という数字を示したまま、この一週間、ピタリと動きを止めていた。
武道館公演まで、残り二十一日。
だが、相楽ユウトの目の前にある真の危機は、停滞したチケットの数字だけではなかった。彼のデスクには、異世界の紋章が刻まれた蝋封の分厚い封筒が、重々しく横たわっている。
名家と外交筋を経由して届いた、エルフの歌姫シルヴィア・エーデルシュタインに対する事実上の『帰還命令書』だった。
CIR本戦での総合七位から、九ヶ月。
彼女たちの成長の軌跡は、確かな数字と実績になって表れていた。
ファンクラブの会員数は、当初の一千二百四十六人から、一万八千九百人へと爆発的に増加。月間の楽曲ダウンロード数も二千八百件から九万六千件へと跳ね上がり、彼女たちの声はかつてない規模で市場へ浸透しつつあった。
全国八都市を巡るライブツアーでは、合計一万六千四百人を動員した。
仙台のホールでは、ゴルガの低音が最後列の観客の呼吸までを優しく整え、福岡のステージでは、カレンが他人の感情を読むだけでなく、自らの内側から湧き上がる楽しさを微かな笑みとして客席へ見せた。大阪の熱気の中では、ニコがもう切り捨てられる恐怖に怯えることなく、七人と観客を完璧に繋ぐセンターとして無尽蔵のステップを踏み続けた。
ツアーの収益によってスタッフの雇用環境は劇的に改善され、メイプルの扱う音響機材も最新の特注品へとアップデートされた。ルナのための水槽設備も、専属の輸送チームを雇うことで、より安全で確実な運用が可能になっていた。
すべてが順調に拡大しているように見えた。
しかし、エンターテインメントの頂点の一つである『一万席』という壁は、想像以上に高く、冷酷だった。
七千人をコアなファン層で埋めることはできた。だが、そこから先の残り二千九百八十二席という巨大な空白を埋めるには、もう一段階上の社会的な波を起こさなければならない。
そこに追い打ちをかけるように現れたのが、シルヴィアの元婚約者候補であるレオン・アルクレストからの政治的圧力だった。
「……ゲート交流基本協定の『重要文化資産の保護条項』を盾にしてきたか」
ユウトは、蝋封を解いた書面の文言を読み上げ、忌々しそうに息を吐いた。
会議室の向かい側に座るシルヴィアは、腕を組んだまま冷ややかに書類を見つめている。
「レオンは、私個人に未練があるわけじゃないわ。私が日本の弱小事務所で、他種族と混ざり合って活動し続けることが、エルフという共同体のブランドを毀損していると本気で信じているのよ。だから、国家間の文化保護という大義名分を使って、合法的に私を連れ戻しに来た」
「相手は外交ルートまで使ってきている。まともに取り合えば、武道館のステージに君が立てなくなる可能性がある」
ユウトは手元のタブレットを引き寄せ、素早く法務手続きのスケジュールを組み始めた。
「協定の異議申立てで、書類を整える時間は確保できる。ただし、それは暫定措置でしかない」
ユウトはタブレットを伏せ、シルヴィアに向き直った。
「根本的に解決するために、君はどうしたい?」
シルヴィアは、帰還命令書を指先で弾いた。
「私は、逃げない。彼らが『文化資産の不当な搾取だ』と主張するなら、私が日本で自立した一人のアーティストとして活動していることを、公的に証明するわ」
彼女の方針は、ユウトの法務作業を、本人が選んだ将来のために使う真っ向からの独立宣言だった。
「在留代理人を立てて、私自身の明確な意思表示としての『本人同意書』を作成して。それに加えて、ナナホシプロからの私の『収益自立証明』と、今後の『文化活動計画書』を提出するわ。私が誰かに飼われている資産ではなく、自分の足でここに立ち、自分の意思で六人と歌うことを選んでいると、法的に確定させるの」
それは、煩雑な手続きと莫大な書類仕事を要求する、極めてハードルの高い作業だった。しかし、それを完遂すれば、エルフの特権階級からの干渉に長期的に対抗できる基盤を作ることができる。
ユウトは、シルヴィアの迷いのない翠の瞳を見つめ返した。
かつて、自分が作った収益予測表で彼女の自由を奪った。だからこそ、今度は彼女が自分の居場所を確定させるための『地図』を、自らの手で整えなければならない。
「……分かった。直ちに信頼できる在留代理人の弁護士を手配し、収益と活動実績の証明資料を作成する。君の意思は、俺が絶対に書類として成立させる」
「頼んだわよ、マネージャー」
シルヴィアがふっと柔らかく微笑んだ。
残席二千九百八十二席を埋めるためのプロモーションと、シルヴィアの在留意思を確定させるための膨大な法務作業。ユウトの肩に、かつてない重圧がのしかかる。
だが、彼の中にもう迷いはなかった。
その時だった。
ユウトのスマートフォンと、シルヴィアのタブレットが同時に鋭い警告音を鳴らした。
画面に表示されたのは、異世界資本ミスリル・エンターテインメントからの、大々的なグローバル・プレスリリースの通知だった。
『純血のエルフが贈る、至高の芸術。ハイエルフ三人組「ELDORADO」大型配信ライブ決定。全世界・全プラットフォームにて完全無料同時中継』
そして、その配信ライブの開催日時。
それは、二十一日後に迫ったユニティの日本武道館公演と、一分一秒の狂いもなく『同日同時刻』に設定されていた。
文化資産の保護という裏からの圧力と同時に、表のエンターテインメント市場においても、彼女たちの話題を根こそぎ奪い取るための最大級の広告投下。
停滞する残席の数字が、さらに重く、冷たくユウトたちにのしかかってきた。




