第35話 帰り道の約束
武道館の仮契約を交わした夜、都内を走るマイクロバスの車内は、大会から続いていた緊張から解放された疲労と、深く静かな寝息に包まれていた。
相楽ユウトは、薄暗い車内の最後列に近い座席で、膝の上に置かれた分厚いファイルを無言で見つめていた。
『日本武道館・会場利用仮契約書』。
総合七位という市場からの評価を突きつけられた直後に、黒崎から課された一万席の完売という巨大な壁。それを乗り越えるため、ユウトは一年以内の武道館公演に向けたロードマップを引き直さなければならなかった。
話題性だけで一万席は埋まらない。七人全員が、現在抱えている己の殻を破り、アリーナ規模の観客を惹きつけるアーティストへと進化する必要がある。
ユウトはタブレットの光を落とし、静かに席を立った。
揺れる車内で、まだ起きているメンバーたちの横に順番に腰を下ろし、短い言葉を交わしていく。
窓の外の流れる街灯を見つめていたゴルガの隣に座る。
「ゴルガ。武道館では、君にMCを任せたい」
「……私が、ですか。でも、私は日本語で長く話そうとすると、またオーク語の短い発声しか出なくなってしまうかもしれません」
「それでいい。台本通りの綺麗な言葉なんて誰も求めてない。言葉に詰まってもいいから、君自身の呼吸で、君の言葉で客席に希望を返してほしいんだ」
ゴルガは少し驚いたように目を丸くした後、太い手でしっかりと頷いた。
「……分かりました。私の呼吸で、話します」
次にユウトは、通路を挟んで座るカレンに声をかけた。
「カレン。次のステージからは、客の影に合わせて歌の形を変えるのをやめろ」
「はあ? それが私の最大の武器なんですけど」
「これからは、他人の痛みを撫でるだけじゃない。君自身の内側にある感情を、君の影として表に出して歌うんだ」
図星を突かれたのか、カレンは「……悪趣味なプロデュースね」と毒づきながらも、その紫色の瞳には微かな挑戦の光が宿っていた。
一番前の席で、一人だけパソコンの画面を睨みつけているミラがいた。
「マネージャー。本戦の視聴者データの感情解析ですが、どうしても五パーセントほどの不規則なエラーが消えません。私の計算モデルのどこかに欠陥が……」
「欠陥じゃないさ」
ユウトは画面をそっと閉じた。
「すべての感情を数値化して理解し切る必要はない。測れない部分があることを、不確実なままで尊重してやってくれ。それが人間の、そして異種族の心だ」
ミラの触角が、戸惑うように揺れ、やがて柔らかいピンク色に染まった。
ルナは、手元の端末で熱心に新しいフォーメーションの確認をしていた。
ユウトが近づくと、彼女は素早く手話を切る。
『武道館では、もっと陸上での表現を増やしたいです。水槽の中だけじゃない私を見せたい』
「分かった。ただし根性論は許さない。安全管理の限界内で、どう陸上で表現するか。一緒に一番安全な方法を探そう」
メイプルは、工具箱の手入れをしていた。
「一万人の箱となると、音の反響も機材の耐久性も桁違いになる。メイプル、頼むぞ」
「任せな。アイドルの仕事も、職人の仕事も、最高のものを打ってやるよ」
「……ああ。最高のものができたら、今度こそお父さんに招待状を送るべきだ」
メイプルは少しだけ手を止め、「……考えておくさ」とだけ短く返した。
そして、ニコ。彼女はユウトの顔を見るなり、安心したように尻尾を揺らした。
「私、もう切り捨てられる恐怖で踊ったりしません。武道館でも、絶対にみんなの足を引っ張りませんから!」
「足を引っ張るなんて誰も思ってない。ニコ、君は一番価値のある人間になろうとしなくていい。君の役割は、七人と一万人の観客を繋ぐセンターだ。君の明るさで、全員を巻き込んでくれ」
「……はいっ!」
事務所に到着し、機材の搬入を終えると、時刻はすでに明け方近くになっていた。
疲労困憊のメンバーたちが仮眠室へと向かう中、シルヴィアだけがエントランスに残り、ユウトを待っていた。
「お疲れ様、マネージャー」
「君もな。武道館の準備が始まれば、休む暇もなくなるぞ」
ユウトが仮契約書の入ったカバンを持ち直すと、シルヴィアは彼との距離を詰め、真っ直ぐにその目を見つめた。
「数ヶ月前のあなたは、ただの冷たい商社マンだった。でも今は違う。あなたは私たちに選択肢を与え、一緒にここまで歩いてきてくれた」
彼女の翠の瞳が、朝焼けの光を反射して輝いている。
「武道館が終わって、私たちの一万席の景色が本物だと証明できたら……その時に、確かめたいことがあるの」
「確かめたいこと?」
「ええ」
シルヴィアは一瞬だけ視線を伏せ、そして再びユウトを強く見据えた。
「今の私が、あなたという人間をどう見ているか。そしてあなたが、私をただの事業の駒ではなく……どう見ているのかをね。だから、それまでは絶対に立ち止まらないで」
過去の加害と被害の事実は消えない。それでも、二人の関係はもうそれだけでは言い表せない。その先を確かめるための、彼女なりの約束だった。
ユウトは、彼女のその強い意志を正面から受け止めた。
「ああ。必ず一万席を埋めて、その問いに答えよう」




