第32話 オークの声の意味
ルナが作り出した『欠けた虹』の熱狂が冷めやらぬレッドステージ。
三千人の大観衆の前に、ズシン、ズシンと床を揺らして現れたのは、大柄なオークの女性、ゴルガ・マロウだった。
本戦のステージでは、彼女のソロ曲として『オークの子守歌』が予定されている。かつて建設現場の騒音をピタリと止めた、あの低音のメロディだ。
しかし、いざ彼女がマイクスタンドの前に立った瞬間、会場を支配したのは期待のこもった歓声ではなかった。
「……でけえ」
「オークの女かよ。マジでアイドルか?」
ざわざわとした、値踏みするような不穏な囁き。
これまでの小規模なライブハウスとは違い、CIR本戦の会場には、ユニティのことを全く知らない新規の観客が大勢詰めかけている。彼らにとって、強面で大柄なオークは「恐怖」や「笑い」の対象という、固定化された記号でしかなかった。
客席からの刺さるような視線を浴び、ゴルガの肩がわずかにこわばる。
PAブースでその様子を見ていた相楽ユウトは、インカム越しに指示を出そうと口を開きかけた。
「ゴルガ、無理に間を取らなくていい。オケを流すか?」
観客の動揺が大きくなる前に、強制的に音楽で上書きしてしまえば、彼女への精神的な負担は減らせる。
だが、ゴルガはマイクスタンドを握りしめたまま、小さく首を横に振った。
『逃げない』。
その背中が、そう語っていた。
ゴルガはゆっくりと息を吸い込み、マイクを通さずに、生の声で短く吠えた。
「グルゥッ……!」
それは、人間の耳には野獣の咆哮のように聞こえる、オーク語特有の短い発声だった。
一瞬、客席がビクッと体を震わせ、水を打ったような静寂が落ちる。
だが、ゴルガは観客を威嚇するために吠えたのではない。
恐怖で縮こまりそうになる自分自身を奮い立たせ、呼吸を整え、このステージに立つ自分を肯定するための、彼女にとっての『魔法の言葉』だった。
静寂の中、ゴルガはマイクに口を近づけ、静かに歌い始めた。
地鳴りのように重く、それでいて深い慈愛に満ちた低音。
かつて彼女は、自分の声が人を怖がらせるからと、いつも声を小さく潜めて生きてきた。だが今は違う。
この声は、建設現場の仲間たちの疲れを癒やした声だ。
自分たちを信じてくれたマネージャーへの返事だ。
そして何より、自分と同じように、大きな体と低い声をからかわれて縮こまっていた、一人の小さな少女の背中を押した声だ。
ゴルガの歌声が会場の隅々まで浸透していくにつれ、観客の態度は明らかに変化していった。
嘲笑や恐怖の色は消え去り、代わりに、信じられないほど深く心地よい振動に身を委ね、静かに目を閉じる者たちが続出する。
ただの『見世物』としての異種族ではない。彼女の魂の底から響くその音は、種族の壁を越えて、確かに彼らの心臓を優しく撫でていた。
曲の終盤。
圧倒的な低音の余韻が会場を包み込み、そしてゆっくりと消えていく。
完璧な静寂。
その時、アリーナの二階席の奥から、一人の少女の鋭い声が響いた。
「ゴルガさーんっ!!」
たった一人の、叫ぶような声。
それは、ゴルガに最初の手紙を送り、そしてユニティを救う五万ポイントの連鎖の引き金となった、十二歳のオークの少女、ハナの声だった。
ハナは立ち上がり、観客の視線が集まるのも構わず、ステージの上の憧れの女性に向かって、もう一度力強く名前を呼んだ。
「ゴルガさん、最高だよーーっ!!」
ハナのその声を合図にしたように、三千人の観客が爆発した。
割れんばかりの歓声と、地響きのような拍手。
少なくともその瞬間、嘘笑はどこからも聞こえなかった。客席は、一人のボーカリストのパフォーマンスに対し、大きな称賛を送っていた。
ゴルガは、マイクを両手で包み込むように持ち、客席へ向かって深く、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、ステージの床を濡らす。
怖がられないために縮こまっていたゴルガは、今、自分の名前を呼んだ観客へ、自分の声で感謝を返していた。
PAブースで、ユウトはダッシュボードの数値を無言で見つめていた。
話題ランキング『五位』。
ルナの欠けた虹と、ゴルガの低音。この二つの圧倒的な個性が、大手の巨大な広告力と純血の美学を完全に粉砕し、ユニティを本戦のトップ集団へと押し上げたのだ。
「……完璧だ。これなら、総合優勝圏内にも十分に手が届く」
ユウトが安堵の息を吐き出そうとした、まさにその時だった。
会場の空気が、ふっと不自然に揺らいだ。
ユニティのステージのすぐ後。本戦の大トリを飾る予定の『CROWN LILY』の出番まで、まだ時間があるはずだった。
だが、メインステージの巨大モニターに、突如として純白の衣装を着た白鳥さくらの姿が大きく映し出された。
彼女は予定されていたセットリストを無視し、マイクを握りしめて、まだ歓声の残る会場全体に向かって、静かに、しかし凛とした声で語り始めた。
「皆さま、本日のステージを前に、一つだけ、お伝えしたいことがあります」
それは、五洲エンターテインメントの黒崎社長にとっても、完全に予定外の、彼女個人の独断による発言だった。




