第30話 混ざる歌姫
防音壁の向こう側から響いてくるその歌声は、空間の質そのものを変容させていた。
数百年の長きにわたり、純血のエルフたちにのみ伝承されてきた古典旋律。ハイエルフ三人組『ELDORADO』が織りなすそのハーモニーは、一切の濁りがなく、完璧な結晶のように美しかった。
レッドステージで出番を待つユニティのメンバーたちは、その荘厳な音の圧力に圧倒され、言葉を失っていた。
「……これが、本物のエルフの歌」
カレンが忌々しそうに呟き、ニコの尻尾が完全に動きを止めている。
CIR本戦。ここで上位に入らなければ、武道館という次なるステップへの道は開けない。話題ランキングは三十二位から上向き始めたが、ステージ上のパフォーマンスで負ければ、すべては水泡に帰す。
そして何より、この圧倒的な歌唱は、彼女たちのリーダーであるシルヴィア・エーデルシュタインに対する、痛烈な当てつけだった。
「……私の元婚約者候補、レオンのやりそうなことね」
シルヴィアは腕を組み、防音壁を冷ややかに睨みつけた。
「『純血の美しさを思い出し、名家の庇護下に戻れ』。そんな無言のメッセージが聞こえてくるわ」
「どうする、シルヴィア」
相楽ユウトはタブレットから顔を上げ、彼女に問いかけた。
「俺たちが今からやるのは『七色の名前』だ。一人ずつの個性を繋ぐ、混沌とした構成。相手の圧倒的な『完成された美』の直後に、あの泥臭いパフォーマンスをぶつければ、観客に『格落ち』の烙印を押されるリスクがある。構成を変更し、君のメインボーカルを軸にした曲へ差し替えることも可能だが」
ユウトの提案は、マネージャーとしての合理的なリスクヘッジだった。
だが、シルヴィアは即座に首を横に振った。
「却下よ。ここで私のソロを軸にしたら、それこそレオンの思惑通りだわ」
シルヴィアは一歩前に出て、メンバーたちを見渡した。
「私は、彼らの言う『純粋な美学』を劣化させに来たんじゃない。私が選んだのは、あなたたちの不格好で、泥臭くて、絶対に他人の音を殺さない、この『混ざり合った色』よ」
彼女の翠の瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。
「反論の演説なんていらない。私たちの音で、私が今どこにいるのかを証明してやるわ」
シルヴィアの言葉に、六人の顔に再び闘志が戻る。
「よし。予定通り『七色の名前』で行く。……行ってこい」
ユウトの合図と共に、ステージへの入場口が明るく照らされた。
ELDORADOのパフォーマンスが終わり、観客の間に余韻という名の重い静寂が漂う中、レッドステージに七人の姿が現れた。
一瞬の静けさの後、ゴルガの腹の底からの極低音が、静寂を物理的に引き裂いた。
「ゴルガ!」
観客が彼女の名前を叫ぶ。そこから先は、以前の予選ステージと同じ、怒涛の個性によるバトンリレーだ。
メイプルの強烈な金属音、ルナの雄弁な手話、ミラの明滅する触角、カレンの鋭いフェイク、ニコの無尽蔵のステップ。
そして、最後。
ニコからの視線を受け取ったシルヴィアが、ステージの中央に立った。
観客たちは、彼女がどんな「美しいエルフの歌」でこの混沌を締めるのかと息を呑んだ。
だが、シルヴィアの口から紡がれたのは、ELDORADOが歌っていたような純血の古典旋律ではなかった。
彼女は、直前まで鳴り響いていたメイプルの金属音のリズムを引き継ぎ、カレンのダークなフェイクの余韻をすくい上げ、ゴルガの重低音をベースにした、全く新しい編曲のメロディを歌い上げたのだ。
それは、エルフの伝統的な高音域と、他種族の泥臭い音が完璧に「混ざり合った」歌声だった。
純血の美しさを誇示するのではなく、あえて他者の音と混ざり合い、全く別の輝きを生み出す。それこそが、彼女が出した答えだった。
「シルヴィアーッ!」
三千人の観客が、熱狂と共に彼女の名前を叫んだ。
PAブースでモニターを見ていたユウトの隣に、いつの間にか一人の男が立っていた。
見覚えのある、長身のハイエルフ。レオン・アルクレストだった。
「……愚かな。あれほどの才を持ちながら、なぜ下等な音と混ざり合って自らを貶める」
レオンはステージ上のシルヴィアを見つめ、忌々しそうに吐き捨てた。
「美学とは、守り抜くことでしか維持できない。彼女は一時の熱狂に絆され、自身の価値を理解していない。相楽ユウト。貴様が彼女をそそのかしたのだろうが、必ず後悔することになる」
感情的に声を荒らげるわけではなく、ただ冷徹に、自らの信じる真理を口にする。
ユウトはモニターから視線を外さず、静かに返した。
「彼女は誰にもそそのかされていない。あの音は、彼女自身が選んだものだ」
「強がりを。文化の利用認証の一件は切り抜けられたようだが、私の権限はあんな法務の小細工だけではない。彼女を取り戻すための制度的な圧力は、まだいくらでも残っている」
レオンはそれだけを言い残し、冷ややかな足音を立てて去っていった。
彼が恋愛感情や嫉妬ではなく、ただ「共同体の体面と文化資産の保護」という理屈のみで動いていることが、ユウトには恐ろしく感じられた。
だが、今は目の前の数字に集中するしかない。
ユウトがダッシュボードを更新すると、シルヴィアのパフォーマンスによる反響が、確実な数字となって表れていた。
本戦の話題ランキング。
先ほどまでの二十五位から、一気に『十八位』へとジャンプアップしている。
大手の巨大な広告力と、ELDORADOの圧倒的な完成度。その両方の壁を、七人は自らの「混ざり合った音」で叩き割ったのだ。
「……よし、いい流れだ」
ユウトはインカムのスイッチを入れた。
「次はルナ、君の番だ。準備はいいか」
インカムの向こうから、マイクのスイッチが入る小さなノイズだけが返ってきた。
ステージの暗転と共に、フロアの中央に設置された、あの『半水量』の巨大なアクリル水槽が照らし出される。
ルナの水槽ステージが、幕を開けようとしていた。




