第3話 影が歌う地下ライブ
紫煙とアルコールの匂いが染み付いた、下北沢の地下ライブハウス。
平日の夜ということもあり、フロアにいる観客は十数人しかいなかった。だが、その薄暗い空間には、息が詰まるほどの異様な熱量と静寂が充満していた。
ステージの上でマイクスタンドを握っているのは、紫がかった艶やかな肌を持つダークエルフの女性だった。
年齢は二十代前半。切れ長の目と、冷ややかな美貌。月影カレン。
彼女が歌う即興のメロディは、特定の歌詞を持たなかった。ただ、アコースティックギターの単調な伴奏に乗せ、低く、時に刃のように鋭い声がフロアを切り裂いていく。
その声は、なぜか最前列でうつむいていたスーツ姿の中年男性の『何か』を正確に抉り出していた。
男性は弾かれたように顔を上げ、やがて両手で顔を覆った。彼の肩が激しく震え、指の隙間から大粒の涙がこぼれ落ちる。周囲の観客もまた、自分の古傷を撫でられたかのように、身じろぎ一つせずステージを見つめていた。
「……見事なものね」
フロアの最後方で腕を組みながら、同行していたシルヴィアが呟いた。
「彼女の目には、他人の足元に伸びる『影』が見えているのよ。それが感情の起伏に合わせて、色や揺らぎとなって表れる。彼女は今、あの男性の痛みの色を読み取って、それに一番深く刺さる音を即興でぶつけている」
「感情を読む能力、か」
相楽ユウトは、手元のタブレット端末に視線を落とした。
ナナホシプロの異種族プロジェクトが始動して三日目。
ゴルガの動画による最初のバズと、シルヴィアの加入はあったものの、課題は山積していた。特に火急の問題は『予算』だ。
七星社長から突きつけられた条件の一つ。プロジェクト開始から七日目までに、公式アカウントのフォロワー数が『5,000』に到達しなければ、最初のプロモーションであるミュージックビデオ(MV)の制作予算が完全に凍結される。
現在の公式フォロー数は2,300。期日まではあと四日しかない。
地下アイドルとして一部に熱狂的なファンを持つカレンの集客力と、その特異な能力は、何としてもプロジェクトに引き入れたい武器だった。
ライブ終了後、機材の搬出が行われる薄暗い裏路地で、ユウトとシルヴィアはカレンを待ち伏せた。
ギターケースを背負って現れたダークエルフは、二人の姿を認めると、面倒くさそうに紫色の瞳を細めた。
「出待ちのファンにしちゃ、随分とビジネスライクなツラをしてるわね。隣の綺麗なエルフのお姫様は、同業者?」
「ナナホシプロの相楽ユウトと申します。こちらはシルヴィア。カレンさん、あなたの歌に惹かれてスカウトに来ました」
ユウトが名刺を差し出すと、カレンはそれを受け取り、ふっと鼻で笑った。
「スカウトね。……私の『影を読む力』が目当てなんでしょ?」
「否定はしません。あなたのその能力は、強烈な武器になる」
ユウトはタブレットを開き、即座に一つの企画案を提示した。
「あなたの能力を使えば、視聴者の悩みに寄り添う『カウンセリング配信』や『感情読み取りライブ』が成立します。人は誰しも、自分の隠した痛みを理解してほしいという欲求がある。そこにあなたの歌を刺せば、強固なファン層を短期間で構築できる。集客のフックとしては最強です」
論理的で、確実に数字が取れる道筋。かつての五洲商事時代なら、一瞬で決裁が下りる企画だ。
だが、カレンの瞳に浮かんだのは、深い軽蔑の色だった。
「あんた、バカじゃないの?」
カレンは吐き捨てるように言った。
「私が読めるのは、他人の影の色と揺れだけ。その人が『なぜ』悲しんでいるのか、事実や記憶までは見えない。解釈を間違えることだってあるわ」
彼女はユウトの顔の横、虚空を指差した。
「私はね、他人の生々しい痛みを、許可もなく安い見世物にするつもりはないの。客が泣くのは勝手だけど、それを『ハイ、あなたのトラウマ癒やしますよ』なんて看板を掲げて売り捌くような、安っぽい占い師になるつもりはない」
カレンは手の中の名刺を弄びながら、冷ややかな視線でユウトを射抜いた。
「……あんたの事務所が昨日ネットで公開した試行契約書の要約、読んだわ。第一項『本人による明確な活動拒否権の保障』。これ、本当に機能するの?」
それは、明確なテストだった。
数字が取れる。バズるのが分かっている。それでも、タレント本人が拒んだ演出を、このマネージャーは本当に切り捨てる覚悟があるのか。
ユウトの背後に立つシルヴィアが、値踏みするように視線を送ってくるのが分かった。かつて、シルヴィアの意思を無視して『エルフの歌姫』という看板を押し付けた過去が、ユウトの脳裏をよぎる。
ユウトはタブレットの電源を切り、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。先ほどの企画案は、すべて破棄します」
「……あっさり引くのね。フォロワー数、足りなくて焦ってるんじゃないの?」
「焦っています。ですが、本人が拒む演出を強制して得た数字は、結局のところ長続きしない。それは、過去に俺自身が一番痛感していることです」
ユウトは真っ直ぐにカレンの目を見た。
「私生活も、他人の感情も、あなたが売りたくないものは一切売らなくていい。あなたが歌いたい時に、歌いたい形でステージに立てる環境を作ります。それが、俺の提示する契約です」
カレンはしばらくの間、黙ってユウトの足元の影を見つめていた。
「……あんたの影、変な色ね。後悔で泥みたいに濁ってるくせに、逃げようとする揺れがない」
彼女はため息をつき、ギターケースを背負い直した。
「いいわ。その拒否権の盾、せいぜい試させてもらう。九十日間の試行契約、乗ってあげる」
その日の深夜。
カレンが自身のSNSアカウントで、ナナホシプロへの所属と新プロジェクトへの参加を告知した。
地下ライブ時代からの熱狂的な固定ファンが即座に反応し、プロジェクトの公式アカウントへ流入してくる。
ユウトは事務所のモニターで、リアルタイムに更新されるダッシュボードを見つめていた。
カレンの過去の音源ダウンロード販売と、ファンクラブへの新規流入が数字を押し上げる。
推しポイント(pt)は『820』。
そして、公式フォロー数は『3,100』に到達した。
「よし……確実に伸びている」
「喜ぶのは早いわよ、マネージャー」
背後から声をかけたのは、初出社してきたカレンだった。彼女は机の上に、一つのUSBメモリを放り投げた。
「地下時代の視聴データと客層の傾向。個人を特定できる情報は全部外してあるわ。……正直、私は他人の影を見るのは得意だけど、こういう細かい数字の羅列は何度見ても意味が分からないわ」
ユウトはUSBメモリをパソコンに差し込み、画面に表示されたデータ群に目を走らせた。
「……なるほど。確かに特異なデータだ」
七日目の期限まで、残り四日。
MV予算凍結を回避する『5,000フォロー』まで、あと1,900。
この無機質な数字の羅列の中に、次の一手となる『正解』が眠っているはずだった。ユウトはカレンの持ち込んだデータを手に、次なる異種族の専門家を探す決意を固めた。




