第2話 銀の歌姫は、俺を許さない
ナナホシプロの古びた会議室は、ひどく冷え込んでいた。
パイプ椅子に浅く腰掛けたその女性は、周囲の雑然とした空気をそこだけ切り取ったかのように美しい。新緑を思わせる深い翠の瞳と、背中まで流れる艶やかな銀髪。森翠の二つ名を持つエルフ、シルヴィア・エーデルシュタイン。
「……久しぶりね、相楽ユウト」
彼女の声音は、絶対零度のように冷たかった。そこには隠しようのない敵意と、警戒が張り詰めている。
「わざわざ足を運ばせて悪かった。シルヴィア」
デスク越しに向き合うユウトは、逃げずにその視線を受け止めた。半年ぶりの再会だった。
彼女を前にすると、ユウトの脳裏にはかつて自分が五洲商事で作成した、数枚の『異種族タレント収益予測表』がフラッシュバックする。
弱小事務所であるナナホシプロに拾われ、九十日後に廃止が決まっている異種族プロジェクトを任されたユウトにとって、彼女からの接触は予想外であり、同時に直視しなければならない過去そのものだった。
「あなたの顔なんて二度と見たくなかったけれど」
シルヴィアは手元のスマートフォンをテーブルに滑らせた。画面には、ユウトが昨日アップロードしたゴルガの動画が映っている。
「このオークの女性を見て、放っておけなくなったの。……あなたがまた、純粋な才能を『数字』で切り売りしようとしているんじゃないかって」
「彼女の希望は確認している。騙しているわけじゃない」
「ええ、あの時は私もそう思っていたわ」
シルヴィアの目が細められた。そこにあるのは抽象的な恨みではない。確かな実害を被った者だけが持つ、鋭い怒りだ。
「あなたが作ったあの収益予測表。エルフの寿命と容姿の劣化の遅さを『長命種の高収益資産』として評価したあの書類のせいで、私は三年間、五洲の優先交渉権付き育成契約に縛り付けられた」
彼女は一つずつ、静かに、だがはっきりと事実を数え上げる。
「他社からのライブオファーはすべて会社のブランド戦略という都合で断られ、私が同胞のために書いた楽曲は『市場に合わない』と公開を許されなかった。さらには契約上の縛りで、母国への帰還手続きすら制限されたの。三年よ。表現者にとっての三年間を、あなたは数字の辻褄合わせで奪ったのよ」
ユウトは一切の言い訳をしなかった。
「……すべて事実だ。俺の作った資料が、君を縛る根拠になった。いくら謝罪を並べても、君の三年は戻らない。だから、俺はここでやり直すつもりだ」
「謝罪や決意表明が欲しいわけじゃないわ」
シルヴィアは身を乗り出し、ユウトの目の前に数枚の書類を突きつけた。
「私は、このプロジェクトに加入する。監視役としてね」
ユウトは目を見張った。差し出されたのは、ナナホシプロの九十日間試行契約書の雛形……に、彼女自身が赤字で容赦なく修正を加えたものだった。
「あなたがまた、何も知らない異種族を数字の奴隷にするなら、私が内側から壊す。そのための条件よ」
ユウトは修正箇所に目を通す。そこには、過去の被害を二度と起こさせないための防波堤が築かれていた。
『一、本人による明確な活動拒否権の保障。いかなる業務も強制できない』
『二、退所時の違約金および損害賠償の請求放棄。いつでも辞められる権利』
『三、肖像権、私生活、および種族文化の利用に関する個別同意の義務化』
それは奇しくも、ユウトがこのプロジェクトの基本方針として定めようとしていた「安全弁」そのものだった。だが、彼女はユウトの善意など信じていない。口約束ではなく、契約という『盾』で自分たちを守ろうとしている。
「……問題ない。すべてこの通りに条項へ組み込む。俺が修正案を起こし、最終決裁を七星社長に取る」
ユウトは即座にペンを取り、起案者として修正箇所に署名した。その場で七星社長へ案を送り、決裁が降りるまでは活動を始めないと明言する。シルヴィアは少しだけ意外そうな顔をした後、すぐに警戒の表情に戻った。
「待ってくれ」
その時、部屋の隅でパイプ椅子を軋ませて立ち上がった影があった。ゴルガだ。
身長二メートル近い大柄なオークの彼女は、シルヴィアの剣幕に怯えることもなく、ゆっくりとテーブルに近づいた。
「エルフのあんたが、彼に怒る理由は分かった。だが、私が騙されていると決めつけるのはやめてくれ」
「……あなた、自分がどういう世界に入ろうとしているか分かっているの? 搾取されるわよ」
シルヴィアが鋭い視線を向けても、ゴルガは引かなかった。
「分からない。契約の難しい言葉も、まだ完全には理解していない。だが、彼が私の声を笑わず、現場の皆が喜んでくれたあの映像を世に出してくれたのは本当だ」
ゴルガの低い、地鳴りのような声が響く。恐怖を煽るためではない、自分の足元を確かめるような真摯な響きだった。
「私は私の意思でここにいる。彼が約束を破れば、私が自分から出ていく。だから今は……誰かのために歌えるこの場所を、あんたの怒りで壊さないでほしい」
その言葉に、シルヴィアはわずかに息を呑んだ。
ゴルガはただ空気を和ませたわけではない。自分の意思を明確に口にすることで、このプロジェクトがユウトの独りよがりな操り人形ではないことを証明したのだ。
「……いいでしょう。あなたのその意思に免じて、鉾は収めてあげる」
シルヴィアは腕を組み、ユウトを冷ややかに見据えた。
「リーダーは私がやるわ。実務経験は一番長いはずよ。もちろん、九十日の試行契約での話だけど」
「助かる。君以上の適任はいない」
「勘違いしないで。あなたの仕事を手伝うわけじゃない。彼女たちを守るためよ」
こうして、ナナホシプロの異種族プロジェクトに、最初の二人が揃った。
ユウトは手元のノートパソコンを開き、現在の数値を更新する。
ゴルガの動画の拡散は止まらず、公式フォローは一気に『2,300』まで伸びていた。
さらに、急遽開設したファンクラブの無料登録からの有料行動への導線、そして動画の音声トラックのダウンロード販売に、さっそく反応があった。
ファンクラブ有料登録が十人で200pt、ダウンロード販売が五十件で150pt。
合計、推しポイント(pt)『350』。
解散回避の条件は二つある。だが、単発の売上急増は、複数月の継続売上とは認められない。所属ゼロから定期契約を積み上げる月商ルートより、課金行動が毎日確定するCIRの五万ptの方が、残り日数の進捗を測りやすい。ユウトは五万ptを主目標に据え、月商ルートを補助線として追うことにした。
目標の五万ptには程遠いが、ゼロからの確かな一歩だった。
「数字は少しずつ動いているな」
ユウトの呟きに、シルヴィアが冷や水を浴びせるように言った。
「紙の上の約束や、画面の向こうの数字なんて、いくらでも操作できるわ。相楽ユウト」
彼女は立ち上がり、会議室のドアノブに手をかける。
「次のメンバーで証明してみなさい。あなたの書いた『拒否権』が、事務所にとって売上になる不都合な局面でも、本当に機能するのかをね」
冷たい宣告を残し、銀髪の歌姫は去っていった。
ユウトは一人、残された契約書を見つめ、次の一手――集客のために自分の能力を切り売りしそうな、次の候補者の情報を探し始めた。




