第1話 オークの歌で、現場が泣いた
地鳴りのような低音が、海風を震わせていた。
重機が唸りを上げ、金属音が絶え間なく響くはずの東京湾岸の再開発エリア。しかし今、この区画だけが異常な静寂に包まれていた。
作業員たちが手を止め、あるいは地べたに座り込み、じっと一つの方向を見つめている。屈強な体つきの職人たちの何人かは、ヘルメットの鍔で顔を隠し、肩を震わせて泣いていた。
彼らの視線の先、積まれた資材の上に腰掛けているのは、大柄なオークの女性だった。
身長は二メートル近い。分厚い筋肉に覆われた体躯と、鋭い牙を覗かせる風貌。十年前のゲート開通以来、すっかり見慣れたはずの異種族だが、それでも初見の人間を威圧するには十分すぎる容姿だ。
だが、彼女の口から紡がれる音は、容姿から連想される咆哮とは対極にあった。
チェロの最低音よりもさらに深く、腹の底を直接撫でるような低い声。それは不思議な和音を伴って響き、ささくれ立った神経を解きほぐし、極度の疲労を泡のように消し去っていく。
それは、オークの故郷で歌い継がれてきた子守歌だった。
相楽ユウトは、缶コーヒーを握りしめたまま、その光景に釘付けになっていた。
「……見つけた」
誰にも聞こえない声で、ユウトは呟いた。
大手商社・五洲商事を逃げるように退職し、半年の無職期間を経て、弱小芸能事務所『ナナホシプロ』に拾われたのが二週間前。
ユウトに与えられた任務は、九十日後に廃止が決定している『異種族プロジェクト』の処理、あるいは再生だった。
所属タレントはゼロ。与えられた制作運転枠は、たったの六百万円。
この九十日以内に、月商三百万円相当の継続売上を複数月分の予約や定期契約で示すか、あるいは大型フェス『CIR』の参加資格である五万推しポイント(pt)を獲得できなければ、プロジェクトは即座に解散となる。
後がないのは、ユウトも同じだった。
だからこそ、足を使って探していた。既存の市場で値札を付けられ、使い潰される前の、本物の才能を。
やがて休憩時間の終わりを告げるブザーが鳴ると、オークの女性は歌を止め、申し訳なさそうに身を縮めた。
職長らしき中年男性――田辺という名札が見えた――が、目元を乱暴に拭いながら彼女に歩み寄り、「助かったぞ、ゴルガ」と不器用に笑いかけた。
ゴルガと呼ばれた彼女は、少しだけ安堵したように目を細め、再び資材を担ぎ上げようとする。
ユウトはその背中へ、真っ直ぐに歩み寄った。
「ゴルガさん、ですね」
「……人間? ここは関係者以外、立ち入り禁止だ」
流暢な日本語だった。しかし、警戒したゴルガの声はさらに低く沈み、周囲の空気がビリビリと震えた。普通の人間ならすくみ上がる圧力だ。だが、ユウトは一歩も引かず、名刺を差し出した。
「相楽ユウトと申します。ナナホシプロという芸能事務所の者です。……あなたの歌に、息を呑みました」
「芸能……? からかわないでくれ。私はオークだ」
ゴルガは自嘲するように牙を隠し、大きな体をさらに丸めた。
「私の声は、ただ低いだけだ。普通に話しているだけで人間を怖がらせてしまうから、なるべく声を出さないようにして生きている。さっきのは、皆が疲れていたから……つい、故郷の癖が出ただけで」
「怖がらせていた?」
ユウトは周囲を見渡した。作業に戻っていく職人たちの顔には、確かな活力が戻っている。
「彼らは、あなたの声に救われて泣いていましたよ」
「……それは、ここだけの話だ。外の人間は、私の容姿と声を見れば、怪物が吠えているとしか思わない」
ユウトはかつての自分を思い出した。異種族を数字の枠にはめ込み、評価し、効率の良い商品として消費しようとした過去。そのせいで、一人の才能ある歌姫から選択肢を奪い、傷つけた。
同じ過ちは二度としない。売り方を決める前に、本人に問わなければならない。
「……ゴルガさん。あなたは、どうしたいですか?」
「どう、とは?」
「もし、誰もあなたの声を怖がらない世界があるなら。あなたは、その声を響かせたいですか? それとも、これからも息を潜めて生きていきたいですか?」
ゴルガの琥珀色の瞳が、大きく見開かれた。
彼女は長い間沈黙し、やがて、絞り出すように言った。
「……歌いたい。誰も怖がらないなら。私の声で、誰かが休まるなら」
「分かりました。では、一つだけお願いがあります」
ユウトはスマートフォンを取り出した。
「あなたが彼らのために歌う姿を、短い映像で撮らせてください。無理に笑顔を作る必要はありません。ただ、さっきと同じように歌ってほしい。あなたの声が『恐怖』ではなく『安らぎ』であることを、私が証明します。公開に同意いただけますか?」
ゴルガは戸惑いながらも、田辺職長が「やってみろよ」と背中を押したことで、小さく頷いた。
その日の夜、ユウトは一切の過剰な演出やテロップを排し、ただ現場の騒音が消え、屈強な男たちが聞き入る姿だけを映した三十秒の映像をアップロードした。
添えた一文は、『怖がられていたオークの低音で、建設現場が静まり、屈強な作業員が泣いた。』のみ。
結果が出るまで、そう時間はかからなかった。
翌日。ユウトは事務所のデスクで、ノートパソコンの画面を見つめていた。
映像は、SNSのタイムラインを爆発的な勢いで飲み込んでいた。
『何これ、鳥肌が止まらない』
『イヤホンで聴いたら、一瞬で寝落ちした。魔法か?』
『オークってこんなに優しい声を出せるのか……』
動画の再生数は、すでに百三十万回を突破している。
プロジェクト用の無名の公式アカウントは、たった一晩で『公式フォロー1,120』を獲得していた。
もっとも、これはただの無料の関心だ。CIR参加資格である『推しpt』は、課金行動を伴わないため、まだ『0』のままである。
だが、最強のフックは手に入れた。あとは、この熱をどう導線に乗せ、事業として成立させるかだ。
「……よし」
ユウトが次の計画書――残り八十九日と、六百万円の使い道――へ視線を落とした、その時だった。
デスクの上に置かれたスマートフォンの画面が点灯した。
非通知着信。いや、ディスプレイには見覚えのある特定のアドレスが表示されている。
ユウトの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
『――見つけたわよ、ユウト』
メールの文面は、ただその一言だけだった。
それは、ユウトがかつて最も冷酷な契約の鎖で縛り付けた相手。
数字で傷つけた、あの銀髪の歌姫からの、宣戦布告だった。




